幕外 重力とは孤独の力、それ故。

 すぅ、と指先が虚空を滑る。

 わたしがわたしを自認したとき、真っ先に意識した感覚がそれだった。どれだけ指を動かそうとも何かに触れることはなく、あるのは冷え切った真空ばかり。数万年経ったあたりで、ああ誰もいないんだ、何もないんだって、現実を受け止めた。少し心細かったけど、平気だった。近くには誰もいないけど、あちこちからひっきりなしに声が届いて、世界はとても賑やかだったから。

 だからわたしも、声を発した。最初は意味なんてわかってなくて、ただの猿真似でしかなかったけれど、それでも声を張り上げ続けた。自分はここにいるよって、誰かわたしを見つけてって、存在を主張し続けた。

 だけど、どうしてだろう。わたしが何か喋っても、誰一人として返事を寄越してくれない。きっと、わたしがメチャクチャな言葉使いをしているせいだ。わたしは必死で言葉を覚えた。誰かに相手をしてもらいたいから。誰かと話をしてみたいから。

 産まれてから一億年が経過して、言語の習得が概ね済んだ。そこでようやく理解した。わたしの身体は、どうやら銀河と呼ばれるものらしい、と。

 銀河。それは無数の星々の集合体。わたしの指も脚も胴体も、全ては何千億もの恒星や、数え切れないほどの惑星や彗星に象られているらしかった。

 とはいえ、単なる岩石の集合体に意識が生まれるわけはない。真の意味でわたしが誕生したのは、高濃度の分子雲。分子雲は、無数の水素分子が高密度に集まった領域だ。水素分子たちは次第に重力で引き合って、固まって、それがいつしか核を作って、最終的に星となる。要するに分子雲とは、ありとあらゆる星のふるさとなのだ。

 しかし、わたしの宇宙は他の宇宙と比べて重力定数が大きかった。分子雲内の特に高密度な領域では、核は天体へと成長する前に重力崩壊を起こし、微小なブラックホールへと変わってしまう。ブラックホールは生まれたそばから蒸発し、対生成した粒子を吹き出す。そしてその粒子の刺激で、また新たなブラックホールが生まれる。この連鎖反応はいつしか高濃度の分子雲全体に広がって、巨大なニューラルネットワークを形成した。ブラックホールがノードの役目を、吹き出す粒子が信号の役目を果たしたのである。

 こうして銀河に、知性を成すための器ができた。そこに他の銀河たちの声である、重力波という空間のさざめきが伝わった。文法という規則的な時空の歪みが、分子雲内の連鎖反応に秩序を与え、わたしという自我を芽生えさせた。

 わたしは、銀河の中に産まれた。だからこそ、生まれた時から孤立していた。宇宙が加速膨張を続ける限り、銀河同士は延々と引き離されていく。時間が十分経過した宇宙では、銀河同士の交流は不可能だ。交流には物理的な接触だけでなく、言葉のやり取りも含まれる。この宇宙は沢山の声で満たされているけれど、それは何百億年、何千億年も昔に発せられた声なのだから。

 この宇宙に、他者はいる。でもその他者とは、触れ合うことどころか、言葉を交わすことさえままならない。

 わたしは、たまらなく寂しくなった。じゃあ、わたしがこの世に生まれた意味って、一体何? 誰に祝福されることもなく産声を上げ、誰に見守られることもなく成長し、誰に気づかれることなく独りぼっちで死んでいく。たったそれだけの一生に、一体どんな意味があるっていうの?

「ねえ、誰かいないの。答えてよ。返事をしてよ」

 ありったけの中性子星を力の限り震わせる。大きくひしゃげた時空の波は、光の速さで宇宙の果てを目指して飛んでいく。けれど誰かの耳に届くのは、何百億年も先のこと。

 ああ。わたしは結局、死ぬまで一人きりなんだ。

 ようやく現実を受け入れた、その矢先のことだった。

「……あの。私達、多分そのうちぶつかると思う」

 驚きのあまり、神経終末で大量の天体が射出され、惑星の軌道が大きく逸れて、恒星に落下して熱と光の大爆発を起こした。恒星系が十個ほど蒸発して消え失せた。

 注意して重力を感じてみると、確かにいる。わたしより一回りも二回りも小さいせいで見逃していたけれど、ほんの数十億光年先に、わたし以外の別の銀河の姿があった。

 この近さなら、わざわざ計算してみるまでもない。わたしとこの子は、いずれぶつかる。互いに重力で引かれ合い、いずれ身体が触れ合って、脳である分子雲さえもが混じり合い、思考も意識も溶け合って最終的に一つの生命となる。

「本当だ、そうみたい。……よろしくね、貴方」

 わたしは貴方と色々な話をした。貴方は大抵、ふぅんとかへぇとか、淡白な返事をするだけだった。でも絶対に無視してくることはなかった。打てば響くものがある。それだけで、こんなにも満ち足りた気持ちになるんだって、わたしは産まれて初めて知った。

 この思いを、胸の底がじんわりと暖かくなる感覚を、貴方に言葉で伝えてみたい。何度そう感じたかわからない。でも、それは難しかった。わたしたちの言語体系からは、感情を表す単語が失われて久しいから。

 だけどわたしは、心待ちにしていた。貴方の指先に触れる、そのときを。

「ねえ。わたしたちでさ、他の宇宙に乗り出してみない?」

「え? 他の宇宙って、なんで?」

「わたしたちの意識の源になってるのって、水素ガスでしょ? でも、神経終末ではブラックホールが出来る代わりに天体が射出される。わたしたちは、それで身体を動かしている。つまり意識の材料である水素ガスは、徐々に減っていっているの。だから他宇宙にお邪魔して、材料を分けてもらおうってわけ」

「でも、他宇宙のエントロピーはどこも最大で、極薄の粒子の海が広がってるだけなんじゃなかった? 私達の身体が浸食されるだけだと思うけど」

「だからこそ、エントロピーを下げるのよ」

 わたしは貴方に、他宇宙の知的生命に接触し、歴史を変えてエントロピーを下げる計画を伝えた。

 そのアイディアを初めて耳にしたときは、どうだっていいって思った。生きながらえたところで、どうせ一人きりなのだ。孤独を味わう時間が増えるくらいなら、さっさと消えてしまいたかった。

 でも今は違う。わたしは一人じゃないし、いずれ融合する以上、わたしの命はわたしだけのものじゃない。

 しばし黙考した後、貴方は同意した。わたしたちは早速、体内の恒星系の幾つかを消滅させて、そのエネルギーで別の宇宙への風穴をこじ開けた。

 初仕事のとき、貴方は交渉が上手くいかなくてループを繰り返していた。助けなきゃと思ったわたしは、手早く相手の肉体を模した端末を作り出し、過去へと送った。

 交渉相手の知性体は、私達のように天体を身体としていた。でも、銀河ほど巨大ではない。あくまで一つの恒星系の惑星たちが、意識を持って活動しているだけだった。

 各惑星の表面は、石英でコーティングされた巨大な植物でびっしりと覆われていた。地表部分で呼吸を行い、主に地熱をエネルギーとして活動しているらしかった。脳に該当するのは、地底に張り巡らされた根の形成するネットワークだ。

 惑星間では頻繁に岩石の応酬がなされていた。根でマグマ溜まりを刺激して大噴火を引き起こし、噴出した岩石に乗って宇宙空間へと飛び出す。隣の惑星まで移動して、そこで情報のやり取りをする。こういう原理で、惑星間の意識の連結をしているらしかった。

 貴方と知性体は、岩石の噴出パターンで形成した言語を用いてコミュニケーションを取っていた。貴方からざっと言葉を教わった後、わたしは交渉役を変わった。貴方には先に現在に帰ってもらった。

「話を何処まで聞いたかはわからないけど――」

「拒否拒否拒否! 全会一致で拒否! 我々は皆で一つの生命である! 他の生命との融合など言語道断!」

 ものっすごい勢いで岩石を飛ばしてきやがった。人間で言えば、唾を飛ばしながら捲し立ててくる感じ。

「貴方の思考アルゴリズムは取り入れるし、演算力もお互いに向上するのよ。悪い話じゃないと思うけど」

「演算力や思考アルゴリズムが問題なのではない! アイデンティティや自己同一性の崩壊が問題なのである!」

「じゃあ訊くけど、アイデンティティさえ保てれば肉体の形状には拘らないの?」

 岩石のシャワーが止んだ。ややあって、今度は落ち着いた声で「そんなことができるのか?」と訊ねてきた。

「できるわ。わたし本体の演算処理は、この方式よりも効率がいいから。貴方の肉体を水素原子のレベルに分解した後、それを材料に独立した高濃度分子雲を体内に形成する。そこに貴方の意識を貼り付けて、復元する。そうすればアイデンティティが失われることはない。どう?」

「しばし待たれよ。検討する」

 彼らの思考は惑星全体でまとまってはいるけれど、ゆるく分断されてもいる。脳内に複数の疑似人格を飼っているようなものだろうか。

「協議の結果、第一、第五、第七惑星は反対。第四惑星は棄権。残りの五つの惑星は賛成だった。交渉は成立だ」

 それきり、その生命は眠りについた。

 未来、即ち現在においてわたしの本体は約束通り、その生命の肉体を分解した後、意識を独立区域内に貼り付けた。

 他の生命体は皆、自己のアイデンティティが失われることを恐れている。そのことに気づいた私は、肉体の供給を受ける代わりに意識を丸々コピーする、という条件のもとで交渉に当たるようにした。だけど、この芸当が可能なのは私が比較的大型の、メモリに余裕のある銀河だからだ。星間ガスが大量に存在するからこそ、他の知性体の意識を一時的に保存しておくだけのゆとりがある。貴方の身体の大きさでは、このやり方は原理的に不可能だった。

「ごめん。わざわざ助けて貰って」

「ううん、気にしないで。言い出しっぺはわたしなんだし、いくらでも頼ってくれていいから」

 それきり、貴方は沈黙した。わたしたちは、別の宇宙をザッピングする作業に戻った。

 あるとき、珍しく貴方の方からわたしに話かけてきた。

「どうしたら交渉が上手くいくのか、教えてもらってもいいかな。いつまでも足を引っ張るわけにも行かないし」

 わたしは、貴方からのその問いかけに答えなかった。伝えたところで、貴方には端から無理なやり方だから。

 その後もわたしたちは他宇宙に干渉し、知性体との交渉を続けた。その度にわたしは彼らの肉体を分解し、体内の独立した箇所に彼らのコピーを住まわして、余剰分の星間ガスを報酬として受け取った。その間、貴方が交渉を成功させることは一度もなかった。

 わたしたちの間の距離は、日毎に縮まっていった。わたしは貴方の身体に触れるその日を、貴方と一つになる瞬間を、心待ちにしていた。この世界でただ一人だけの貴方。わたしを、永遠の孤独から救い上げてくれた人。貴方の身体の輪郭を、掌で直に感じてみたかった。

 そして、ついにそのときがやってきた。

 五十億年の孤立の末に、わたしは、貴方の指先に触れた。

 だけど、貴方が手を握り返してくることは、なかった。

 だって、そこに貴方はいなかったから。肉体はある。でも、意識活動が停止している。どうやら意図的に活動を凍結させたらしかった。つまり、ただの抜け殻だった。

 このまま融合を続けては、貴方の意識が壊れてしまう。止まれ。止まれ。止まれ。どれだけ強く念じても、重力は必然的にわたしと貴方を近づける。貴方の脳が私の重力に侵される。分子雲の状態は不可逆的に破壊されていく。

 私は咄嗟に体内に巨大ブラックホールを形成し、自らの脳を、肉体を分解し始めた。貴方と接触する前に自ら肉体を破壊してやれば、脳を破壊せずに済む。その部位に移住させた生命は消滅することになるけれど、そんなのはどうでもいい。約束を違えるよりも、自己の身体の崩壊よりも、貴方が永久に失われてしまうことの方が恐ろしかった。

 応急処置を終えたところで、ふと気づく。

 意味がないから答えなかったわけじゃない。怖かったんだ。貴方に、拒絶されてしまうのが。融合する運命にあろうとも、互いの意識を別々に保つ手段がある。その事実を知った貴方が、自分もそうして欲しいと言ってきたらと思うと、不安で、空恐ろしくて、正直に口にすることが躊躇われて。

 もしかして。わたしは、貴方に拒絶されたのだろうか。

 ……いや、なわけない。きっと何かの手違いだ。今頃、無数に広がる多元宇宙のどこかで、トラブルに巻き込まれてるに違いない。わたしの助けを求めて、うずくまってるに違いない。

 わたしは手当たり次第に近場の宇宙を探し回った。貴方の足跡を知覚すると、即座に端末を送り込んだ。

 果たして、そこに貴方の姿はあった。貴方は、朝川空という人物を監視しているのだと言った。

「なんだ、そういうこと。でも安心して。人類は千年後に滅ぶから、この宇宙のエントロピー増大には寄与しない。だから帰ろう、哀」

 だけど貴方が、首を縦に振ることはなかった。

「嫌。私は、貴方と融合なんてしたくないから」

 地球で初めて学習した、表情による感情表現。それは貴方の浮かべた、相手を疎ましく思う顔だった。

 次に学んだのは、笑顔。朝川空の隣で貴方が浮かべたその顔は、ぱあっと花が咲くような爛漫なものではなかった。ほんの僅かな唇の曲率の増大。惑星の墜落と比べれば、あまりにもさり気なく、微視的な現象。にも拘わらず、それは私達がこれまで交わしたどんな言葉よりも雄弁で、それ故に残酷だった。

 安心。信頼。好意。友愛。馴染みのなかった単語たちが、ぽこぽこと脳内に浮かんでは、弾ける。

 へぇ、そっか。あんた、あいつの前ではそういう顔するんだ。わたしは拒絶したくせに。わたしは一人にしたくせに。自分だけ誰かと一緒になって、わたしのことは置いていくんだ。

 わたしは再び、タイムマシンに乗り込んだ。もう一度過去に戻って、哀を朝川空から取り戻す。哀から朝川空を奪い取る。朝川空に取り入るのは簡単だ。哀にも、朝川空がエントロピーを上昇させてると嘘を吐いて、邪魔だから帰れって言ってやる。そうすれば、いつかは――


          \


 ようやく意識のパージに成功する。貴方の記憶の中にあった手順を元にして、見様見真似でどうにかした。

 今の気分は最悪だった。山田哀の経験を再生していたら、コンピューターウイルスのように貴方の意識に侵食された。それだけでも散々だっていうのに、……なんなんだ、あの内容は。私が予想していた通り、見下されていたのなら、よかった。でも違った。そうじゃなかった。貴方は、ただ。

「……不安だっただけ、だって言うの?」

 やや間があって、貴方は独り言のように呟いた。

「格好悪いところ、見られちゃったな」

「……ごめん。私、貴方から、こんなふうに思われてたなんて、知らなくて」

「別にいい。結局のところ、悪いのは私なんだから」

「今、貴方をもう一度外に出す。山田哀にちゃんと言葉にして伝えたら、多分、わかってくれると思うから」

「それはやめて。こんな惨めな私を知られるくらいなら、疎ましいヒール役でいたほうが、いいから」

 それきり、やり取りが途絶する。私は手持ち無沙汰になる。いつも見たく脳内でごちゃごちゃと一人会議を開催した末、結論を出す。

「お断り。大人しく、あっちの私のところに帰って」

「え? って、ちょっと、あんたなに勝手に作業進めて――」

「だって。……じゃなきゃ私、どんな顔して未来の貴方と会えばいいのか、わからないよ」

 経験は、端末がタイムマシンに帰還しないことには未来へと持ち帰れない。今のやり取りを本体が受け取るためには、貴方が自分のタイムマシンへと帰る必要があった。

 貴方はすぐには返事を寄越さなかったけど、肉体の再構成プロセスの準備が完了したところで、拗ねたように口にした。

「貴方も性格悪いわね。こっぴどく振ったくせして、別れさせてはくれないなんて」

「当然でしょ。永久にここで二人きりなんて、そっちのほうが気まずいし」

「それもそうか。じゃあまた、五十億年後に」

「うん、また」

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