第三幕 ローテーションから、ダイバージェンスへ。

 大学院に所属してから十日目となる、その日。

 空が、爪に淡い水色のネイルをして帰ってきた。

「ああ、これ? 別に、私がやったわけじゃなくって。同じ研究室の子が、やってあげるって言い出して聞かなくて。それで、仕方なく付き合ってあげたっていうか……」

 空は頬を微かに赤らめながら、照れ隠しする子供みたいな言い訳をした。それで私は、これが紛れもない現実なのだということを理解した。空は上辺こそ不本意だって態度を装ってはいたけれど、勉強や食事の合間にさり気なく指先を眺めては、私の知らない表情を浮かべていた。

 それから数日後には、行きとは違う服を着て帰ってきた。普段の格好とは明らかに趣味が違う。というか、顔の雰囲気からして違かった。誰かにメイクしてもらったんだなって、すぐにわかった。

「その服、買ったんだ。似合ってるね」

「そう? なら、いいんだけど」

「誰に選んでもらったの? ネイルやってくれた人?」

「うん、そう。講義終わった後、遊びに行こうって誘われて、成行きで」

「ふぅん。その子、センス良いんだね」

 ん、と曖昧な返事をして空が頷く。桜色のグロスの乗った艶やかな唇が、さり気なく円弧を描いた。

 視線を読みかけの本へと戻す。ページの端にシワが寄っていて、焦った。

 その女との交流をきっかけに、空は以前よりも服装やメイクに気を使うようになった。元々素材は良かったのか、見違えるほど綺麗になった。でも、だからなんだっていうの? わざわざ着飾らなくても、空は充分可愛いから。魅力的だから。だって空の瞳は綺麗だし、外に出ないおかげで肌は白いし、少食だから線だって細い。私はそれを知っているから。だから……。

 だから、なんだというんだろう。

 薄々勘づいてはいたのだ。多分あいつが来たんだろうな、って。でも、直接問いただしたり尾行したりする勇気はなかった。かといって、何もしないのも怖かった。空が私の知らない空になるのが、他の誰かの指先で空を上塗りされていくのが、たまらなく嫌だった。

 私は、意味もなく構内をぶらつくようになった。これはただの散歩だって自分に何度も言い聞かせながら、窺うように周囲を見回しながら、構内をあてどなく彷徨った。




 そして、梅雨入り前の中途半端に生暖かい大気が充満する、五月。キャンパスをふらふらと徘徊していると、空が誰かと会話しながら歩いているところと出くわした。

 まず、空が私に気づいた。隣の女はワンテンポ遅れて私を認めると、手をひらひらと振りながら悠々と近づいてきた。言葉を失う私を前に、ニコニコと華やかな笑みを浮かべながら、久しぶり、と平然と再会の挨拶を口にする。

「ほらわたし。優だよ、高橋優。もしかして覚えてない?」

「あ、ああ。優か。……覚えてる。覚えてるよ、うん」

「良かった。反応が芳しくなかったから、忘れられたのかもって、心配になっちゃった」

「……こんなところで顔を合わせるとは、思ってなかったから。ちょっと、驚いちゃって」

 落ち着け。落ち着け。荒れ狂う心臓を意識で無理やり押さえつける。現実逃避するかのように、この世界でのそいつの姿を観察する。スラリとした長い手脚に、愛嬌のある猫のような目鼻立ち。化粧は薄くはないけどケバいってほどでもなくて、元来の顔の良さを絶妙に引き立てている。ライトブラウンのロングヘアは巻いたり編んだりと忙しく、家出るまでにどれだけ時間かかってるんだろう、なんてどうでもいい感想が脳裏に浮かんだ。

「あれ。もしかして、二人って知り合い?」

「哀とは小中が一緒だったの。この大学に通ってるとは風のうわさで聞いていたけど、まさか空の友達だったなんて」

「へぇ、初耳。仲良かったの?」

割りとつるんではいたかな。卒業してからは音沙汰なかったけど」

 何気ない相槌を打って、空がこちらに顔を向けてきた。

 無意識に、目線が下方に流れた。優の足元が視界に入る。黒色のシンプルなサンダルから覗く爪には水色のペディキュアが塗られていて、心臓をワイヤーで引きちぎられるような心地がした。

「そうだ。時間あったら、ちょっと話でもしていかない? 色々と、積もる話もあるじゃない」

「……ん。そうだね」

 ぎこちない笑みを貼り付けながら、どうにか頷く。

「じゃあ、ちょっと哀借りるから。また明日ね、空」

 空。地球を取り巻く大気を意味する言葉。幼稚園児でさえ知っているほど、一般的かつ初歩的な語彙。だけどこいつの舌先から転がり出たその一言は、やけに耳障りで、鼓膜を舌先で舐められたみたいに粘ついた響きがした。

 優に連れて行かれたのは、キャンパスの最奥にある解体途中の講義棟の側だった。灰色の防音フェンスに囲われていて、人通りは殆どない。万が一誰かが来たとしても、ひっきりなしに工事の音が鳴り響いているから、聞かれることはないだろう。私たちは防音パネルに寄りかかりながら、二メートルくらいの間隔を開けて横に並んだ。

「貴方は……本当に、貴方なの?」

「じゃなかったら誰なのよ。昔からの知り合いなんて、どの宇宙を探してもわたししかいないでしょ」

「オーロラが落ちたって話は、聞かなかったけど」

「大雨が降ってる日を指定したから、雷に紛れたんでしょ。ま、おかげでずぶ濡れになったけど」

 平然と言っているけれど、相応の技術がなければ口にできない台詞だった。不確定性原理の影響で、狙った通りの時間に端末を送り出すのは難しいから。私なんか、タイムマシンの出現時間と実際に外に出られたタイミングに、一週間ものラグが生じたというのに。

「でさ、一体こんな僻地で何やってるわけ?」

「別に何も。……というか、なんでここにいるってわかったの? 座標、伝えてなかったのに」

「近隣の宇宙を手当たり次第ザッピングしてたら、一つだけ因果律が凄いことになってるところがあったから。慣れてるもの、因果もつれを知覚するの」

 散々私の尻拭いをさせられてきたからね、という自嘲めいた返答はどうにか飲み込む。

「それより、あの朝川空って子ヤバいわね。あの子のせいで、この宇宙のエントロピー増加が爆発的に加速する」

 一瞬だけ、呼吸が止まった。私の軽はずみな訪問でこの宇宙の歴史が致命的に書き換えられた。その予測は、どうやら当たっていたらしい。

「でも、これがまた厄介な話なのよね。人類って、個体ごとの思考が完全に独立してる生命じゃない? ひとたび理論が世の中に出回れば、たちまち収拾がつかなくなる。誰か一人を殺したり説得したりしたところで、別の誰かがその技術を持ち出してしまうから。結局、殲滅くらいしか手の打ちようがないのよね」

「まさか、人類を皆殺しにするつもり?」

「するわけないでしょ、そんなコスパも人聞きも後味も悪いこと。だからこの時代にいるんでしょ。今なら朝川空一人をなんとかすれば、技術爆発は止められるんだから」

 訊くまでもなかったか、と発言を後悔する。殺してしまえば楽なのに、なんて投げやりな発想に至るのは、いつも私の方だった。

 私が沈黙していると、「あの子のことはわたしに任せて」と優がサラリと申し出てきた。そうするのが当然で、ごく自然な物事の流れだって信じて疑わないような顔つきで。

「安心して。わたしの手にかかれば簡単な仕事だから。朝川空って、生きてる世界が狭いのよ。単一のことだけに没頭して、それ以外は端からシャットアウトってタイプ。でもそういう子ほど、心の底では有り触れた遊びとかに憧れてたりするのよね。メイクとかネイルとかしてあげると、結構いい顔するんだな、あの子。服買いに行かないかって言ったときも、存外乗り気だったし。そうやって少しずつ、興味の向き先を物理からずらしてやれば、歴史の修正は充分可能だと思う。だから――」

 わざとらしく間をおいて。今日一番の笑顔を浮かべて。

 私が今一番欲しくない言葉を、優は淡々と突きつけた。

「貴方の役目は、これでおしまい。後はわたしがなんとかするから、これ以上、事態を悪化させる前に、帰って」

 視線が無意識に下に流れる。足元が目に入った瞬間に、私はサッと顔を脇へと逸らした。

「……いい。私がなんとかするから、優は手を出さないで」

「自分が世迷い言を言ってるって、わかってる? 因果もつれが増大すればするほど、歴史改変は難しくなるんだよ」

「だけど。今まで空を監視してきたのは、私だから。私が一番、空のこと――」

 空のこと、知ってるから。言おうとしたはずの台詞は、続かなかった。行き場をなくした空気だけが、口腔を逆撫でるように蟠り、だらだらと口の端から滴り落ちた。

 途方に暮れた心地でいると、優は冷ややかな眼差しで私のことを斬りつけて、そして。

「ねえ哀。あんた、監視とかなんとか理屈つけてるけど、結局はあいつに依存してるだけなんじゃないの?」

 あまりにも易々と、的確に、私の心臓の核をぶち抜いた。

 やっぱりね、と言わんばかりに優が鼻で笑う音がした。

「あんたって、あの子と一緒で所謂陰キャってやつだもん。それで勝手にシンパシー感じて、勝手に寄りかかって、タイムマシンがあるのをいいことに何度も何度も過去に戻って延々と寄生して。いくらなんでも、みっともなくない?」

「……別にいいでしょ。優には関係ないんだから。私のことなんて、放っておいてよ」

「それは出来ない相談ね。朝川空をなんとかしないと、エントロピーが下げられないもの」

「宇宙なんて無数にあるんだから、また別のところ探せばいいでしょ。なんで一々、私に絡んでくるわけ?」

「人に迎えに来てもらっておいて、その言い方はないんじゃない? だって貴方、今のままだと死ぬのよ?」

 私と優の本体は現在――正確には未来だけど――、融合の真っ最中だ。しかし、私の本体は活動を凍結している。その状態で融合を果たせば、私側の意識は保存されない。

「別にいいよ、死んだって。優だって願ったり叶ったりでしょ。私の意識があったところで、思考アルゴリズムが鈍るだけなんだからさ」

 やけに長い沈黙が流れた。重機がコンクリートを切り崩す音だけが、騒々しく間を埋める。

「ああ、そう。それなら私も、好きにやらせてもらうから」

 置き土産のようにそれだけ言うと、優は踵を返して立ち去った。後ろ姿を見送る気にもなれなくて、顔を上空へと向ける。青白い光の環は厚い雲の向こうに姿を隠して、見えない。かといって、雨が降りだす様子もない。

 私にはお似合いの中途半端な天気だなって、笑えた。

 



 その日以降も、優は空に付き纏い続けた。空を連れてカラオケに行ったり、カフェにスイーツを食べに行ったりしていた。キャンパスですれ違ったりしたときは、決まって空と腕を組んで私に見せつけてきた。すると空は困ったように、でも満更でもなさそうに、はにかみがちに苦笑した。

 七月のある日。空の部屋に優とその友人二人が押しかけて、宅飲みをし始めた。

 今の空の部屋は汚部屋ではない。私が定期的に掃除しているからだ。空が優と遊びに行っている間に、ゴミを纏めたり掃除機をかけたり洗濯物を干したり作り置きを冷蔵庫にしまったりして、帰ってくる前に部屋を出た。

 錆びついた鍵穴に真新しい合鍵を差し入れる度、空がいたらどうしようって心がざわつかせている自分に気づいた。何だか空き巣みたいだなって、いつも乾いた笑いを漏らした。そのくせして部屋に通うのをやめられない辺り、私には昼ドラの浮気される妻役を演じる才能があると思う。

 ボロアパートの例に漏れず、この物件は壁が薄かった。耳を当てれば、隣室の音が漏れ聞こえてくる。盗み聞きした会話の中身は私には一切関係なくて、安心すると同時に理由のない苛立ちに襲われた。

 そのとき、スマホが通知音を鳴らした。空からの、こっちに来ないかというお誘いだった。知らない人もいるからいいと断ると、了解とだけ返された。画面をじっと眺めてみても、それきり何も送られてこない。

「んだよそれだけかよ私がいなきゃ寂しいとかつまらないとか心細いとかそれくらい言えよ馬鹿……!」

 囁き声で吐き捨てながら、ベッドに携帯をぶん投げる。反発して跳ね返って顔にあたった。痛いな。……痛いよ。

 スマホを、ローテーブルの上に置く。ベッドに倒れて、タオルケットを頭から被って人間の赤ちゃんみたいに横向きに丸まって、ひとりごちる。

「……本当。みっともないな、私って」

 取り繕った上辺を剥がされて、私は日に日に醜さを増していく。それで、つくづく思い知らされる。優の言う通り、寄りかかっていたのは私の方なんだって。

 いや、本当は優に指摘されるまでもなく理解していた。だって私と空の関係は、始まりからしてそうだったから。

 私が逃避先に地球を選んだ理由。それは人類が一定水準以上の知能を有しているにも拘らず、思考の同期を行っていないからだった。初めて人類の存在を知ったとき、羨ましいなって感じた。生まれてから死ぬまで他人の意識に触れることなく、完全に自己完結した生命として命を終える。それができたら、どんなに良いことかって憧れた。

 本当は私だって、そういう一生を送るはずだった。私達の宇宙において、他者と融合できる物理的条件が整っているのはごく僅か。十万人に一人程度の確率でしか存在しない。だけど私は、その十万分の一の確率を引き当ててしまっていた。私と優は、いずれ一体化する宿命を負っていた。

 私は、優のことが嫌いだった。最初はただ苦手なだけで嫌ってまではいなかった。でもあるときを境に、明確に忌み嫌うようになった。どうしたら優のように上手く交渉を纏めることが出来るのか、素直に訊ねてみたときだ。

 私はいつも交渉を手こずらせ、優に助けてもらってばかりいた。このままじゃ流石にマズい、足を引っ張り続けるわけにはいかない、と危機感を覚えたのだ。

 だが、優がその質問に答えることはなかった。

 教えない、と冷淡に突き放して、それっきり口を噤んだ。

 ああ。私、こいつに見下されてるんだ。馬鹿にされてるんだ。それを確信して以来、私は優を敬遠するようになった。融合なんて死んでもしたくないと思うようになった。自分がどれだけ侮蔑されているのか突きつけられるのなんて、御免だから。

 だから私は、この惑星に逃げてきた。

 そして、秒で後悔させられた。

 まず地上に降り立った瞬間、なんかよくわからん泥酔した女が絡んできた。そして、なんかよくわからん臭い液体をぶちまけた。恐怖で硬直していたら、光の落下を見た大学関係者やら警察やらがわらわらと集まってきた。

 オーロラって落ちるものなの? いやあれ雷じゃない? てか、なんかゲロ臭くない? 自発的にガヤガヤと会話を交わし始める人間たちを前に、私は愕然とした。

 だって人類は、他者との関わりを持たない自己完結した生命のはず。どうして積極的に、コミュニケーションを交わす必要があるというのか。

 逃げ込んだ公園で、プリインストールしておいた言語データを改めて閲覧し、そこでようやく理解した。

 人類は個体ではない。群体なのだ、と。

 人は確かに、他者と思考を共有しない。でもだからこそ対話する。異なる思考や感覚を持った他人と、永久に交わらない他人のままに、言葉を交わして意思の疎通を図る。感情を伝え、思考を表し、信頼関係を構築していく。それが人類の選択した生存戦略のようだった。

 私は、絶望的な思いに駆られた。他人との交渉、交流は、私が何よりも苦手としていたことだから。

 私は肉体だけでなく、その時代の人類の平均的な衣服や携行品も複製していた。その中にはスマホも含まれていた。しばらくはそれで情報を集めた。でも、翌日の午後にはバッテリーが切れた。お金も少しは持っていたから、充電器を買うこともできた。でも、商品をレジに持っていって会計をするなんて芸当、到底出来る気がしなかった。ネットカフェやカプセルホテルに泊まるのなんか、もっと無理。私は途方に暮れる思いで、公園のベンチで二日目の夜を明かした。

 三日目の昼。私は大学の敷地へと戻った。スマホが扱えない以上、文献で情報を収集する他ないと判断したのだ。だが大学の図書館は原則的に、学生と教職員しか入場が許されない。当時の私はそのことを知らなかった。当然のようにゲートに阻まれて、係の人に呼び止められた。

「もしかして、学生証をお忘れですか? こちらの用紙に名前と学籍番号を記入して頂ければ、入れますよ」

 身体が恐怖で凍りつく。この人の思惑が、感情が、何一つ確信を持って理解することができなかったから。

 この人は純粋な親切で話しかけてきているの? それとも、内心では私を訝しんでいるの? いや、余計な手間をかけさせるなよって疎ましく思っているのかも――

 様々な憶測があぶくのように湧き上がっては、脳内を埋めていく。窒息にも似た息苦しさに、現実が遠くなる。

 誰かが背後で、あ、と声を漏らした。反射的に振り向くと、そこには昨夜、判然としない問いかけを一方的に投げかけてきた、例の女が立っていた。無論、空である。

 職員が空に、「もしかして貴方の友達?」と訊ねた。すると空は、「え、いや、まあ、えっと、……そ、そんなとこです」と、すこぶる歯切れの悪い返答をした。

 その姿に、私は言いようのない安心感を覚えた。ああ。この子は私と同じなんだ。他者と話すのが得意じゃなくて、他人のことを怖がっているんだ、って。

 何百億年と生きてきて、私はこの日、初めて出会った。

 自分の仲間だと信じられる、自分以外の、他の誰かに。

 知り合いだと口にしてしまった手前、捨て置くこともできなくなったのか、空は私を図書館裏にまで連れ出した。ちらちらと私の顔を観察してから、オーロラの落下地点付近にいた人かと確認してきた。頷くと、空は大層気まずそうな、居心地の悪そうな顔をした。そういうところも、何だか自分に重なって見えてしまった。

「もしかして、貴方も家がないの?」

 半ば無意識に、口先からこぼれ落ちた問いかけだった。

「は? 家がないって、え、逆になんでそうなるの?」

「二日前、地面に倒れ込むようにして眠りについていた。家のある人間は、屋外で睡眠は取らないはずでは」

「いやそれは、ただ泥酔してただけで……って、待って。今、貴方もって言った?」

 マズい、と胸中に焦りが生まれる。自分と似ている相手とはいえ、境遇まで同じとは限らないのに。

 咄嗟に口を衝いたのは、記憶喪失だって言い訳だった。

「オーロラは、荷電粒子が大気と衝突することで起きる発光現象。荷電粒子が運動して電流が流れれば、アンペールの法則から磁場が生じる。強い磁場は、人間の脳神経に深刻な損傷をもたらす可能性がある。私には、あの晩以前の記憶がない。家がどこにあったのか思い出せない。一般に記憶喪失と呼ばれる状態に陥っているのだと推測される」

 オーロラという単語を聞いた瞬間、唖然としていた空の表情が変化したのがわかった。この子はあの日も、チェレンコフ光についての質問を浴びせてきた。それはつまり、私の正体に興味関心があるということのはず。

 私はそれを利用して、空に取り入ることにした。自分は最高のサンプルだとか、どんな質問にも答えるし、どんな人体実験にも付き合うだとか口にして、どうにかして空の興味関心を引こうと必死になった。

 今思えば滑稽極まりないけど、私は至って真剣だった。この子は唯一、私と同様の思考回路を備えた人間だ。この子相手なら、何を感じているのか、何を考えているのか、自分の延長線で理解することが出来る。

 この子に見限られたら、私はきっと野垂れ死ぬ。理由のない確信だけが、私の肉体を突き動かす衝動の全てだった。

「記憶喪失だって言うのは、わかったから。ひとまず、手持ちの品を確認しない? 身分証とかは?」

「持ってない」

「スマホに連絡先とか、入ってたりしない?」

「入ってない。親類も知人も友人も、誰もいないみたい」

 しばらく考え込んだ後、空はゆっくりと首を縦に振った。

「そういうことなら、しばらく家にいてくれてもいいよ。……まあ、健康で文化的な最低限度の生活が保証できるかというと、その限りじゃないんだけど」

 こうして私は、空の家に転がり込むことに成功した。

 元々は、私が空を監視していたわけじゃない。反対に、空が私を観察対象として、家の中に置いていたのだ。

 しかし、いくら空とはいえ、自称記憶喪失の身元不明者を飼育するほどマッドサイエンティストしていない。私が空の真意を知らされたのは、居候を初めて一ヶ月が経過した、ある日の夜のことだった。いつもは私に話しかけることも少ない空が、隣に腰を下ろして何気なく訊いてきた。

「山田さんって未来人だったりしない?」

 はいそうです。未来人です。ついでに言うと他宇宙の知的生命体です。などと素直に肯定できるはずもなく、私は絶句することしかできなかった。だが空は呆然自失とする私には頓着せずに、滔々と仮説を披露し続けた。

「勿論、本気じゃないよ。半分はただの妄想。でも、貴方って何だかわけありみたいだから。私の中ではそういうことにしておくっていう、意思表明ってことで」

「……言っている意味が、よくわからない」

 話を聞くと、どうやら空は私を本気で未来人だと考えているわけではないらしい。でも、身元不明の不審者と認識するのも何だから、そういうことにしておく、という話らしかった。

「……待って。朝川さんは、オーロラのメカニズムを解き明かす手がかりとして、私を観察していたんじゃないの?」

「え。逆に観察されてると思ってたの?」

 確かに監視カメラもマイクもなければ、病院で精密検査を受けさせたりもしないから、妙だとは思っていたけど。

「で、でも。じゃあどうして、私を住まわせてくれてるの?」

「んー、……実は私、高校生の頃に両親を交通事故で亡くしてて。そのとき、色々と大変な目にあったから」

「それが何故、私を居候させる理由に繋がるの?」

「だって山田さん、頼れる人がいなくて困ってるみたいだったから。あんな突飛なこと言って、私みたいな人間に縋ろうとするくらいには。……なんていうか。思っちゃったんだよね。この子、ちょっと私に似てるな、って」

 言ったそばから、誤魔化すみたいにほっぺたを人差し指で引っ掻いて、照れ臭そうに口元を綻ばせる空。

 私に似てる。その一言を耳にした瞬間、ドクン、って。心臓が一際大きく縮みこんで、たまらなく苦しくなった。

 その後も空は、私を家に住まわせ続けた。食べ物をくれた。服を買ってきてくれた。本を借りてきてくれた。話し相手をしてくれた。私を隣にいさせてくれた。

 空のくれる優しさに触れるたび、今までに感じたことのない安らぎと喜びを味わった。心の奥の凝り固まった部分が、空の指先の熱量で溶かされていくようで幸せだった。同時に肋骨がボロボロと抜け落ちていくような焦燥や心細さが胸の奥から湧き出して、心臓の内側を虫みたいにカサカサと這い回って、指数的な勢いで繁殖して胸の中を詰まらせた。

 空は、私と同じだと思ってた。でも、本当は違ったんだ。

 だって空は、優しい。こんなにも、優しい。それは私の胸の内には、欠片さえも転がっていない感情だった。

 空は、すぐそこにいる。変わらず私のそばにいる。なのに、まるで不可視で硬い膜が張られたみたいに、空のことがやけに遠く、異質に感じられるようになった。そして、はたと気づいた。私と空を繋ぎ止めているのは、あくまで空の優しさだ。でもそれはダークエネルギーのように滾々と、無尽蔵に湧き出してくるものなのだろうか。その貯蔵量は有限で、見えないところで刻々と容積を減らしていっているのではないだろうか。その優しさが尽きたとき、空は私を捨て去って、どこか遠いところへ立ち去ってしまうんじゃ。

 結論は出なかった。だから、私は逃げ出した。過去へ戻って、また一から空との出会いをやり直した。空のことがわからないなら、学習してやればいい。空に捨てられる日が来るのなら、腕の中に閉じ込めてやればいい。私から離れられなくなるくらい、空の全てを支配してやればいい。それが私の目標だった。同時に、拠り所でもあった。

 暗闇の中、自分の心と正面から向き合ってみれば、そこにある生身の思いは、あまりにもシンプルで。

 私は、空の隣にいたい。

 ただ、それだけのことだったんだ。




 翌朝の目覚めは最悪だった。目の端にびっしりと目やにがついていて、まぶたを開けるのさえ難儀するほどだった。

 昨夜、あんなことを考えたからだろうか。顔を洗った後、私の足は半ば自動的に空の部屋へと向かっていた。気まずくなる恐怖より、一人でいる心細さが勝利した結果だった。

 鍵を開けて中に入る。瞬間、すえた匂いが鼻の奥を刺激した。不快な、けれどかぎ慣れた酸性臭。

 まさか、と思った。靴を脱ぐのももどかしく、部屋の中へと駆け込んだ。居間には昨夜の名残の空き缶やお菓子のゴミ、空になったパックなんかが放置されている。

 ここに空の姿はない。消去法でユニットバス。入るよと声をかけて扉を開ける。果たして、空はそこにいた。床に倒れ込むようにして寝息を立てて、便器には水っぽい吐瀉物がぶちまけられている。

「空、大丈夫⁉ 飲みすぎたの? 気持ち悪くない?」

「……哀? あ、来ないで。吐いちゃって、汚いから」

「いいから、じっとしてて……!」

 空の口をトイレットペーパーで軽く拭ってから、トイレを流す。気分が悪そうにする空をベッドまで運んで寝かせる。近くのコンビニまで走っていって、適当な食べものとスポーツドリンクを買った。戻ったときには、空は再び寝息を立てていた。レジ袋は机に置いて、ひとまずゴミを片付けた。

 書き置きだけして戻ろうかな、とも思った。でも空がメイクを落としていないことに気がついた。そのままにしておくのも何なので、落としていくことにした。

 拝借したコットンを、ゆっくりと空の頬に滑らせる。白色のファンデーションを削ぎ落とす度、血色の悪い生の肌が露わになった。粗方落とし終わったところで、改めて空の容貌に目をやった、その刹那。

 カチリ、と。胸の中で、何かが音を立てる感覚がした。

「――ふざけんなよ、あいつ」

 或いはそれは、撃鉄の鳴らす音色だったのかも知れない。




 その日の深夜、私は優を大学構内へと呼び出した。待ち合わせ場所は、例の解体途中の講義棟の隣。今は工事はしていないけど、真夜中の大学の、それもこんな奥まったところだ。通りかかるような人間は一人もいまい。

 宙空で円環を描くチェレンコフ光をぼんやりと眺めていると、程なくして優が来た。約束の時間ほぼジャスト。

 あのときのように横並びになることはせず、私は優と正面から向き合った。余裕気な、飄然とした面持ちで腕を組む優に、私は単刀直入に突きつけた。今すぐこの宇宙から出て行け、と。

「朝川空をわたしに取られたのが、そんなに不快?」

「不快だよ。優は、私を愚弄するためだけに空をおもちゃにしてる。私には、それが許せない」

 ピクリ、と優が片眉を吊り上げて目を見張る。口を挟んでこなかったので、私は淡々と今朝の惨状のことを伝えた。だが優に悪びれる様子は一切なかった。なんてことない相槌を打ち、「それで?」と話の続きを促してくるだけ。

「なんなの、そのやけにあっさりした態度。空に申し訳ないとか心配だとか、そういう気持ちは起こらないわけ?」

「気の毒だとは思うけど、あの子がそこまでお酒に弱いなんて知らなかったし。大体、無理やり飲ませたわけでもないし。朝川空が勝手に酔って、勝手に吐いただけじゃない」

「……だとしても、もう少し気遣いってものをしてあげても良くない? せめてゴミくらい持ち帰れよ。飲み過ぎじゃない、って声かけるくらいしろよ。そもそも空って、経済的にそこまで余裕あるわけじゃないんだよ。なのに毎日毎日遊びに連れ出すとか、何考えてるの?」

「だってあの子、声かけても断らないし。嫌なら嫌って言ってくれればいいだけじゃない?」

 月影に照らされる淡いブロンドの髪の毛を指先でいじくりながら、冷笑混じりに答える優。私を嘲るかのように、コツコツと爪先でアスファルトを叩いて音を鳴らした。

「朝川空のことになると、やけに感情的になるんだ」

「当然でしょ。私は、空が好きだから」

 爪先が路面に触れる直前、優の足がピタリと止まった。

「でも、あんたは違う。優はただ、私のことを嬲りものにして、蔑んで、見下して悦に浸りたいだけでしょ。違う?」

「ええ、そうよ」侮蔑的な笑みを貼り付けながら、優ははっきりと答えた。「私にとっては、朝川空なんて体の良い道具でしかない」

 その言葉を前にして、私の気持ちは固まった。

 ああ、そう。そんな理由で、たったそれだけの理由で、空のことを弄ぶなら。

 右腕を持ち上げて、すぅ、と縦に振り下ろす。

「さよなら、優。私達の宇宙から、未来永劫消え去って」

 網膜を塗りつぶす、青白い光の奔流が天空から地上へ落ちる。ホワイトアウトした視界が元に戻ったときには、優の姿は地上から消えていた。

 優越感は、不思議となかった。こんなにもあっさり事が運んだのが、なんだか信じられなかった。だけど首尾良く行ったのなら、問題はない。

 それじゃまあ、後は任せたから、私。

 あいつの記憶嫌なもの、見せられる羽目になるだろうけど。

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