幕外 超光速、それ即ち引きこもり。

 山田哀。至極有り触れた名字プラス、私のもじり。

 なんとも安直なネーミングだけれど、私は元々、名前を付ける必要のない文化圏に住んでいた。一人称と二人称さえあれば事足りる、マクロなくせしてミクロな世界。名乗ることにも名乗られることにも馴染みがない以上、ネーミングがぱっとしないのも、仕方ないと言えば仕方ない。

 ところで私は、山田哀その人ではない。

 私と山田哀は、経験を共有してはいる。だけど私は、情報のみで構成された意識体としての私だ。山田哀は、私が外界に干渉するための端末に過ぎない。

 こういう表現をすると、山田哀があたかも私の傀儡、下位存在であるかのように思えるけれど、その認識はどうなのだろうと私は時折、疑問に思う。

 だって私はある意味、引きこもりみたいなものなのだ。外界との接触を一切断って、自身は何も動かない。完全なる孤立系の室内で、山田哀の持ち帰る経験に目を通すだけ。そんな輩のどの辺に、主体性や上位性があるというのか。

 物質なきところに精神は宿らない。私にだって、大元と言える肉体は存在している。でも今現在、その身体は無期限凍結中だった。それもタイムリミットつきの。こうしている間にも、私の身体は時々刻々と失われているはずだった。既に半分以上は吸収されているんじゃないかな、あいつに。その気になれば解凍することだって出来るけど、やらない。したくない。

 惨めな自分も、辛いだけの現実も、見たくはないから。

 ああ。やっぱり引きこもりだな、私って。改めて、痛感。

 いや、やめよう。答えのない問い掛けを反芻したところで、得られるのは苦痛と虚無感だけだ。そんなことより仕事だ、仕事。私は引きこもりであってもニートじゃない。あくまでも在宅ワーカー、即ちプロの引きこもりなのだ。

 ちなみに業務内容は朝川空の監視だ。賃金はゼロだけど、成功すれば私本体の寿命が伸びる。

 私は人間ではない。この宇宙で誕生した生命ですらない。私の故郷は、この宇宙とはまた別の宇宙だ。私達が別の宇宙に遠征してきてるのは、故郷の膨れ上がったエントロピーをどうにかするためだった。よりエントロピーの低い宇宙を探し出し、溜まりに溜まったエントロピーという名の負債を押し付けてやれ、という発想である。

 しかし、そう都合よく物事が転んでくれないのが人生というもので、探せども探せども、見つかる宇宙は高エントロピーの、死んでいるものばかり。どこも極薄の粒子の海が茫洋と広がるだけで、使い物になりはしなかった。

 そこで発想の転換である。エントロピー増大の法則は、あまねく宇宙で成立する。しかしエントロピーの増大には速度がある。ならば歴史を改変し、その宇宙のエントロピー増加を遅くしてやればいい。そうすれば実質的に、現在のエントロピーを減少させることが出来る。

 幸い、異なる宇宙における時間遡行はそう難しいものじゃなかった。物理法則は普遍でも、光速や重力定数といった物理定数の大きさは宇宙ごとに異なる。故郷宇宙で作った乗り物を、故郷宇宙よりも光速の遅い別の宇宙で、故郷宇宙の光速でふっ飛ばす。するとその乗り物は、勝手に過去へと飛んでいく。即ち、タイムマシンの完成である。

 光速の小さな別の宇宙が見つかるや否や、複製した自分の意識を乗せたタイムマシンを送り込み、チェレンコフ光の青白い光を撒き散らしながら時間の流れを逆に辿った。まだ知的生命が残存している時代まで遡り、接触を試みた。

 エントロピーを増加させる一番の原因は生命だ。生命というのはより広く、より強く、より賢くなるために、拡大と拡散を続ける。それが宇宙の物質を掻き回し、宇宙を更に乱雑なものにする。だから私たちは、他宇宙の知的生命に申し出た。私達が生きている時代まで、活動を停止して欲しい。このままでは共倒れになる。お互いに少しでも長く生きながらえるにはそれしかないのだ、と。

 私が人類宇宙にやってきたのは、その活動の一環だった。でも実を言うと、対象とする知的生命は人類ではなかった。

 だって人類、千年後には普通に滅ぶし。惑星一つ食い潰されたところで、宇宙規模で見れば何の影響もないし。

 私からしてみれば、人類なんて蟻ん子みたいなものだった。いや言い過ぎた。ミジンコのようなもの。いやそれも過大評価。精々、ミトコンドリア程度のものだ。

 とにかく人類なんて種族は、端からアウトオブ眼中なのだ。故に私は、ちょっと休憩に散歩でも行こっかな程度のノリで、端末を地球へ送った。それがいけなかった。

 私が初めて地球に降り立ったとき、あのオーロラの正体を一発で看破した人間がいた。それが、朝川空だった。

 これといった行動を起こさずとも、過去へ赴くというその行為自体が、ある程度の歴史改変を引き起こす。チェレンコフ光の放射というごく僅かな干渉で、私は人類の辿る命運を大きく塗り替えてしまったのかもしれない。蝶の羽ばたきによるほんの些細な気流の乱れが、竜巻を引き起こしうるように。

 要するに、空が将来的に東京上空のタイムマシンの存在を証明し、タイムトラベル理論を完成させてしまう恐れがある、ということだ。そうなれば当然、人類文明のレベルは飛躍的に跳ね上がる。千年後に滅びるはずの人類がこの先何万年、何億年と生き続け、宇宙規模の活動を起こすようになる。その危険性がある。

 だから私は、責任を持って監視することにした。朝川空が本当に、タイムマシンの存在を立証するのか、否か。

 過去へ戻ってのやり直しが可能という特権を活かしつつ、朝川空の監視を続ける。それが私のお仕事だった。

 まあ、ただの尻拭いとも言えるけど。

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