星の生まれるところから
赤崎弥生
第一幕 ファーストコンタクトはゲロ臭かった。
天の川銀河とアンドロメダ銀河は、今から四十億年後に融合を果たす。それを気の毒だと感じてしまうのは、私の無意味な感傷だろう。
ふと見上げた夜空に、星はなかった。雲もなければ月もないのに、一等星さえ視認できない。きっと、空気が霞んでいるから。街灯の明かりで瞳孔が縮むから。
そして何より、オーロラの青白い光が邪魔だから。
本当のことを言うと、上空でゆらゆらと揺蕩っている円状の光の帯は、断じてオーロラなんかじゃない。何故ならここは東京だ。東京の外れにある国立大学の構内だ。北極や南極で見られるような色鮮やかなオーロラなど、観測されるわけがない。科学的にも、あの光環がオーロラとは全くの別物であることは既に証明されていた。しかし、正体が何であるかまでは解き明かされていなかった。謎の発光現象とか称するよりかは、シンプルにオーロラと呼んだほうが伝わりやすい。東京上空の謎の光は、今後もオーロラと呼ばれ続けることになる。
スマホで時刻を確認し、そろそろだな、と足を動かす。近場の自動販売機でミネラルウォーターとスポーツドリンクを買う。二本のボトルを纏めて取り出したところで、背後から聞こえてくる乱雑な足音へと意識を向ける。
振り返ると、猛烈な勢いで突っ走ってくる人影が目に入る。その人物は私の姿を認識すると、「そこの人!」と叫んで進路をこちら側へと微修正。私はペットボトルをアスファルトの上へと置いてから、重心を落として身構えた。
段差の手前に差しかかかったところで、そいつはコケた。綺麗にコケた。なまじ勢いがついているせいで、スカイダイビングしてきやがった。すかさず両手を出して受け止める。ぐらついたけど、二人揃っての転倒はどうにか免れる。
「あのさあのさ、今ここにオーロラ落ちたよね⁉ 稲妻みたいにピカって! 貴方、それ見なかった⁉」
銀縁の丸眼鏡を掛けた若い女が、顔面をグイグイと近づけながら訊いてくる。頬が真っ赤に染まっているけど、その理由が興奮ではなく単に泥酔しているからだろう。ゼロ距離で浴びせられる安っぽいアルコール臭からして、察するに余りある。
「見たよ。すぐ目の前に落ちらから、びっくりしたけど」
「そ、それっ、どんな感じだった⁉ 熱かったりした⁉ 音とか風は⁉ というか、見た目こんなんじゃなかった⁉」
突きつけられたスマホに映っていたのは、バック・トゥ・ザ・フューチャーのワンシーン。丁度、デロリアンがタイムトラベルする場面の画像だった。演出として青白い光が放たれているから、まあ、似てると言えないこともない。
曖昧に肯定すると、その子はスマホを握り締めながらガッツポーズし、キタコレと大声で叫んだ。
「ほぅら見たか! やっぱりあれはタイムマシンだ! 未来から過去へと突き進むタキオンが撒き散らすチェレンコフ光なんだ……! あ、というかもしかして! 貴方、実は未来からやってきたタイムトラベラーだったりしな――」
ゆでダコみたいに真っ赤だった顔面が、唐突に血の気を失う。う、と低い声を漏らして両手で口を抑えるその子。
私は素早く彼女の身体を引き剥がした。肩に手を添えてしゃがませて、顔を側溝の辺りに向けさせる。背中を何度か擦ってあげると、出た。それはもう、でろっでろ出た。照明を当ててあげたら虹でもかかるんじゃないかってくらい、ものすごい勢いで。
「ケホッ、ケホッ! ……き、気持ち悪ぅ」
「大丈夫? 取り敢えず、これで口ゆすいで」
蓋を開けたミネラルウォーターを差し出す。何度か口をゆすがせたあとで、今度はスポーツドリンクを手渡した。
ちびちびと水分を補給するその子を横目に、ミネラルウォーターの残りで吐瀉物を洗い流す。固形物は殆どないから、汚物はサラサラと排水口に吸い込まれていく。
「落ち着いた? じゃ、人が集まってくる前に移動しよう」
「……んー? 無理だよぉ。立てないし、気分悪いし」
「肩貸してあげるから、とにかく立って。ほら、せーの」
肯定だか否定だかわからない唸り声を上げるその子を、半ば引きずるような形で歩かせる。
これが私と朝川空の、記念すべき百回目の出会いだった。何十回も前から取り立てて変わるところのない、でも、それでいて実に刺激的な出来事だった。
主に、刺激臭的な意味合いで。
今から一週間前の昼下がり、東京東部の上空に突如として現れたオーロラは、日本全国にちょっとした騒ぎを引き起こした。SNSに上げられた画像はあっという間に拡散されて、トレンドはオーロラ関連の語句で埋め尽くされた。マスコミも午後や夕方のニュースで取り上げたから、その日の夜には日本中の誰もが知るところになっていた。
SNSではたちまち、オーロラの正体についての考察合戦が展開された。陰謀論じみたものも含めればものすごい数の憶測が飛び交ったけど、最も有力視されたのはかねてから危険視されていた太陽フレア。次点が、地磁気に何らかの異常が起きて太陽風が東京上空まで流されてきた、という説だった。
大規模な太陽フレアや地磁気の変動は、インターネットや電力網に甚大な影響を及ぼす。首都のど真ん中でそのような事態が勃発すれば、被害は途轍もないものになる。都民の多くは漠然とした不安を胸中に抱きつつ、幻想的でありながらもあまりに異様な夜空を見上げて、一晩を明かした。
だが人々の懸念に反して、翌日になっても社会インフラに障害が起きたりはしなかった。ネットも電気もGPSも、全て正常。夕方の記者会見で、国立天文台は太陽活動に異常はないと発表した。気象庁も地磁気の変動は見られないと説明し、原因は不明だが生活に影響が及ぶことはないだろう、とお墨付きを与えた。
危険性がないとわかるな否や、人々はオーロラに対する態度を一変させた。オーロラは恐怖の対称から、新しい東京名物へと立ち所に生まれ変わった。いつ消えてしまうかわからないからと、わざわざ首都圏外から足を運ぶ人も少なくなかった。とくに、環状に広がるオーロラのちょうど中心に位置する空の大学には、大量の見物客が押し寄せるようになっていた。三日前から一般人の立ち入りが制限されるようになってはいるが、大学周辺の人通りは今も多い。昨夜も、空を引きずって歩く姿を何人かの見物客にジロジロと観察された。
オーロラ関連のニュースを表示させていたスマホをスリープにして、脇に置く。同時にベッドから、ゾンビの呻き声みたいな音が聞こえ始める。
声の持ち主は頭をボリボリと掻きながら、気怠げに上半身を起こした。徹夜三日目と見紛うような酷い顔つき。右目を擦る動作さえスローモーションみたいに緩慢だけど、「おはよう」と声をかけると「え、何誰不審あ痛ぁっ⁉」奇声を発しながらベッド上を飛ぶように後ずさり、壁に頭をぶつけて豪快な音を響かせた。
「山田哀。一応、昨日名乗ったんだけど、覚えてない?」
酩酊していた貴方をどうにか家まで送り届けて、一旦は部屋を出たけど、鍵を開けっ放しにしておくのも問題あるなと思い直して、起きるまでは家にいることにした。昨夜の経緯を端的に語って聞かせると、朧気ながらも記憶が蘇ってきたらしく、ひとまず不審者疑惑は取り下げてくれた。
だが、不法侵入されたわけではないとわかったところで、空の表情が晴れることはなかった。むしろ陰が濃くなった。すこぶる気まずそうな顔を脇へ向け、えっと、その、と歯切れ悪く何度も何度も言い淀む。
「と、とにかくごめんなさい、迷惑かけて。取り敢えずお茶でも……って、うちにお茶なんて置いてないじゃん。お菓子もちょうど、切らしてたし。うわ、どうしよ……」
「別に、饗応なんてしてくれなくていいよ。座ってスマホいじってただけなんだから」
「だけど、そういうわけには。あ、でも、こんな汚部屋にお引き止めするほうが失礼か……?」
否定はしない。教科書、本、脱ぎ散らかした服、縛ったまま放置してあるゴミ袋、空になったカップ麺の容器などなど。おびただしい数の物品が床一面に広がって、漂着物まみれの汚れた浜辺みたいな様相を呈していた。
惨状をなんとかしようと思ってか、空が慌ててベッドから出る。でもすぐに体勢を崩して、くら、と倒れ込みそうになる。私は素早く立ち上がり、空の身体を支えた。昨日とは打って変わって、空は素早く私から離れた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、目眩がしちゃって」
「二日酔い? 私のことはいいから、しばらく休んでなよ。あとこれ、よかったら食べて」
脇に置いておいたコンビニの袋を差し出す。
「もらえないよ。ただでさえ迷惑かけたのに」
「でも、もう買っちゃったからさ。一人じゃ食べ切れないし、持ち帰るのも面倒だし」
空はなおも遠慮したけど、私が半ば押し付けるようにビニール袋を手渡すと、最終的には折れてくれた。
「先に選んでくれていいよ。私、好き嫌いとかないから」
「だけど、ご馳走になる分際で選択権まで貰うのは」
「そう? じゃ、おかかとお茶貰うから、こっちはどうぞ」
残ったツナマヨとスポーツドリンクを差し出す。空は、壇上で表彰される小学生みたいな恭しい態度で受け取った。空の纏う雰囲気は、昨夜の破茶滅茶っぷりが信じられないほどに重苦しかった。
おにぎりを食べてる間も、警戒心を露わにする草食動物みたいに、ちらちらと顔色を窺ってきた。そこから読み取れる心の声は、今度改めて謝罪したほうがいいのかなとか、いつまで居座るつもりなんだろうとか、ありがたいけど気まずいから帰ってくれないかなとか、そんなところ。少なくとも、友好的な心象を抱かれてないことは確実だった。
でも、私は知っている。どんな話題を振ったなら、空が警戒を緩和してくれるのか。
「ところでさ。昨日のあれ、どういうこと?」
「あれって?」
「私がタイムトラベラーだ、とかいう話」
喉にものが詰まったみたいに、空が一瞬、呼吸を止める。
「……ただの世迷い言だから。気にしないで」
「そう? 私は、面白いと思ったけどな」
興味津々と言った体を装って、話を促す。空は苦い表情を浮かべるばかりだったけど、介抱された後ろめたさがあるからか、結局は説明をし始めた。
「まず、チェレンコフ光が何かはわかる?」
「名前は聞いたことあるけど、詳しくは」
「端的に言えば、チェレンコフ光は光の衝撃波なの。衝撃波っていうのは、そうだな。洋画とかで、ジェット戦闘機が地上付近を飛んでいくシーンがあるでしょ? あのとき、戦闘機が通った後に地表付近で巻き起こる強い風。あれが、戦闘機が音速を超えた結果生じる、音の衝撃波なの。チェレンコフ光はそれの光バージョンで、つまりは物質が光速を超える速度で動いたときに観測される、光の衝撃波なんだけど――」
「あ、わかった。つまり朝川さんは、東京の上空を光よりも速い物質が飛んでるんじゃないか、って言いたいんだ」
我が意を得たりと言わんばかりに「そう!」と威勢よく相槌を打つ空。喋っている内に調子が出てきたのか、物憂げだった瞳にはいつの間にか生気が宿り、表情も溌溂とし始めていた。
「オーロラの発生場所は真空の宇宙空間だから、あれがチェレンコフ光だとすれば、光速の壁を突破した未知の物質が私達の頭上で円運動してることになる。そして超光速の物質を用いれば、私たちは過去へと情報を送ることが出来る。あれがタイムマシンの証拠かも知れないっていうのは、そういう理屈で……っ!」
「へぇ。ただ単に、バック・トゥ・ザ・フューチャーっぽいってだけじゃなかったんだ」
「勿論それもあるけど――、あ」
空が突然、ハッとした顔をした。大きく振り回していた両腕を勢いよく引っ込めて、居心地悪そうに肩を縮める。
「ご、ごめん。なんか、一人で勝手に盛り上がっちゃって。……馬鹿みたい、だったでしょ」
「ううん、そんなことない。馬鹿どころかすごく面白かったよ。私今、本気でタイムマシン説を信じそうになってる」
「……そう? だったら、嬉しいんだけど」
あ、こいつ、私の言うこと信じてないな。それが分かる程度には、ぎこちのない微笑みだった。
私は次の話題を振った。そもそも、なんで泥酔して吐くくらいまで酒をあおる羽目になったのか、と。
しばしの逡巡の後、空は訥々と経緯を語り始めた。
「私、物理学科の四年なの。今年から研究室に配属で、昨日が歓迎会だった。自己紹介の後、話は当然のようにオーロラの正体についてになって。そこで私はタイムマシン説を唱えたんだけど、全員から一笑に付されちゃって」
「なるほど。それでヤケ酒ね」
「そりゃ、突飛な話だって自分でもわかってた。だけど、可能性はなくはないじゃん。あんなふうに、みんなして笑わなくたって、いいのに」
「でも、私は笑わないよ」
「ん、そうだね。ありがとう、山田さん」
空が顔を上げる。口の端に浮かぶ微かな笑みは、やっぱり、どこかよそよそしかった。
そろそろ帰るね、と口にして立ち上がる。玄関で靴を履いていると、ややあって空が来た。これ、と言って突き出してきた右手には、五千円札が握られていた。
「今更だけど、迷惑かけて本当にごめんなさい。少ないけど、せめてものお詫びってことで」
これは多分、空なりの縁切り宣言なのだと思う。色々と迷惑はかけたけど、そのぶんの対価は支払った。だからチャラ。何もかもなかったことにして、という意思表示。
つくづく思うのだけど、お金というのは興味深い概念だ。各々が独立して、別個の生命として存在しているからこそ発明された共通単位。共通であるが故に、そこに個人の感性が入り込む余地はない。どこまでも透明でどこまでも純粋な、無色透明な価値の結晶。
だから、いらない。
そんなものには、吐瀉物ほどの価値もない。
「そんなのいいよ。朝川さんにはこれからも、よろしくしてもらうことになるんだし」
「よろしくって、何が?」
「私、今度この隣の部屋に引っ越す予定なの。お金はいいから、引っ越しのときに手伝いしてくれないかな。家具とか組み立てるの、一人だけだと面倒だから」
五千円札を丁重に押し返す。ぽかんと口を半開きにする空に、お願いねと一方的に告げて、踵を返す。錆びついた外階段に足を置いたところで、背中で声を受けとめた。
「あ、あの! ……えっと。よろしく、お願いします
ん、と返事をしながら右手を振って、ギシギシ言う階段を下っていく。胸にあるのは、一抹の安堵と達成感だった。
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