第32話・勇気

『貴方達が言うところの、獄夢……拷問屋敷での悪夢を、私が終わらせることはできない。それは本当なの』


 病室で。杏樹たちに“愚者の行軍”のサンプル本を差し出しながら、三池愛弓は言った。


『悪夢は繰り返し見るたびに難易度が上がり、段々と逃げ切るのが難しくなっていく。無理矢理眠ってしまうことも増えていくわ。館の主は不思議な第六感で、屋敷の中で逃げている人間の大体の位置を把握して追ってくる。だから、一箇所にとどまり続けての籠城は悪手。可能な限り移動を続けながら、屋敷の中にある“門の鍵”を見つけて脱出を目指さないといけない。悪夢は人の噂や意識に影響されて変化していくから、次第に屋敷の姿や内装も本来の姿を留めなくなってしまう。……鍵を見つけるなら、そういう意味でも早い方が良い』


 それらは、愛弓がそう設定したわけではなく。そもそも愚者の行軍という物語の中で、そのように設定されているからだと言っていた。彼女は呪いを使って、ただ本の世界をそのまま具現化したに過ぎないという。

 どんな呪いなのかまでは教えてくれなかった。本人いわく、“知らない方が良い”とのこと。どういう意味なのかまでは、杏樹も追及しきることができなかった。


「結局、私とエミシさんが夢の中に入って、鍵を見つけるしかないんだね」


 車に病院の駐車場に停めた車の中。杏樹はエミシと共に大急ぎで本を読み(エミシは速読ができるらしく、彼が読み終わるのは非常に早かった)、現在に至る。愛弓が言ったことは本当であるようだった。愚者の行軍の主人公は、最初に怨霊に殺された少女・鞠子まりこに導かれて、屋敷の地下にある鍵を見つけて門から脱出する。それにより、呪いが解けて、屋敷に囚われていた全員が解放されるのだという。

 屋敷に同時に閉じ込められる人間の数は、十人まで。広い屋敷であるせいで、杏樹とエミシはなかなか他の人間達と遭遇することができなかったというわけだ。


「庭では、館の主が呪術で作り上げた猿の化け物がうろついている……けど、鍵を使って門を開ける者を襲ってくることはない。エミシさんが見かけた女の子は門をよじのぼったから襲われた、っていうのは間違ってなかったんだね」

「ええ、そのようです」

「三池愛弓の言うことが本当なら、このまま放置すると拷問屋敷の話を知った全員が、遅かれ早かれ屋敷に招かれることになるわ。現在、あたしも含めて順番待ち中だって推測は正しかったようね。そして、最新式のパソコンが部屋にあったりと、屋敷の内装はうわさが広がるごとにどんどん人々の願望を取り込んで変わっていってしまうというのも事実みたい。……だったら、まだ屋敷が原型を留めているうちに、鍵を見つけて誰かが脱出し、呪いを解くしかない」


 運転席に座り、こちらを振り向く朝は言う。


「……信じて、二人に任せてもいいのね?今はまだ、そういう呪術を解く専門家を探すって選択肢もないわけじゃないけど?」


 杏樹の怖がりな性格をわかっているからこその言葉だろう。なんだかんだで朝は面倒見が良いし、優しい。杏樹は首を横に振って、私達がやるよ、と言った。


「それで……鍵を探すのは、サポートがあるエミシさんがやった方が良い。鞠子ちゃんは、エミシさん=主人公が自分のお父さんになんとなく似てるから助けてくれるんでしょ?……私が、館の主を引きつけて逃げるよ」


 そう言うと、エミシはなんとも言えない顔をした。本来ならば逆の立場を買って出るつもりだったのだろう。実際、前回の夢の最後で、杏樹を助けて追われそうになっていたのはエミシの方だったのだから。


「……本当に良いんですか。地下といっても、ヒントがありません。どれくらいの時間がかかるかわからないんですよ」


 二人ともで地下を散策できた方が本来早かっただろうが、前回の流れでそれは難しいだろう。時間稼ぎ。それが、どれほど絶望的なものかは杏樹もよくわかっているつもりだ。

 だが、今までとは状況が違う。

 悪夢を打ち破るための希望が、自分達にはある。だったら、それを掴みとるまで足掻くことだってきっとできるはずだ。


「それでも、やってみます」


 杏樹は、まっすぐにエミシを見つめて言った。


「私、貴方を信じます、エミシさん」




 ***




「エミシさん、逃げてええええええええ!」


 まさに。杏樹が叫んだところで、悪夢は再開された。黒い影は杏樹に背を向けて、今にもエミシの方へと駆けだそうとしている。

 前に夢を見たのは、まさに今日の昼のことであったはず。実質的に、時間は一日も経っていない。それでも、あの時と大きく違うことが一つあった。

 それは、杏樹が完全に腹を括っていること。もう、怯えてへたりこんでいるばかりの自分ではない。

 そうではいけないと、心に誓った。守られヒロインになって、ヒーローがただやられているのを見るだけなんて絶対にごめんだ。


「こんの、やろおおおおおおお!」


 杏樹は飛び上がると、走り出そうとした男の足首にしがみついた。タイミングがどんびしゃりだったということもあるのだろう。駆けだした直後だった男はもろに前のめりになり、転倒する。バターン!とまるでコメディ映画のような大きな音が鳴った。


「エミシさん、今のうちに地下へ!」

「ああ、ありがとう杏樹さん!」


 エミシの姿が廊下の向こうに消えていくのを見て、杏樹は男の足を離した。男が立ち上がるよりも前に、自分も踵を返して走り出す。

 この屋敷には、階段が三か所あるようだ。エミシが降りていった方向と別の階段を降りる寸前、杏樹は振り向いた。立ち上がった黒い影が、怒りをにじませた真っ赤な目でこちらを見ている。


――怖くない、わけじゃない。


 杏樹はそいつを一睨みすると、そいつがこちらへ歩み出したのを見て階段を駆け下りはじめた。


――でも、怖がってるだけじゃだめだ。運命を変えたいなら……勇気をもって踏み出さなくちゃいけない時がきっとある。人生って、そういうものなんだから。


 もし。

 今の仕事に就く前――普通の事務をやっていた時。感染症が広がっているのに、何が何でもテレワークをさせない職場に一言言えていたら。お局様にぐちぐちと責められて涙目になっている同僚を助けられていたら。トイレ掃除を押しつけてくる先輩に理不尽だと言えていたら。締切をまったく守らずに仕事をサボってばかりの後輩に注意できていたら。

 小さなことばかりかもしれない。でも、もしそういうことができていたなら、もっと自分は今でも笑って会社で仕事ができていたかもしれない、なんて思うこともあるのだ。あの会社でなかったとしても。別の会社であったとしても。嫌なことを嫌だという勇気が、間違っていることを間違っていると言える勇気がもしも自分にあったなら。

 いいや、会社だけではない。学校生活だってそう。

 自分は今までどれだけ、人の目ばかりを気にして逃げていたのだろう。流されて、へらへら笑って、誰かが苦しんでいても見て見ぬフリをして。

 そんな人間だから、朝のようにやりたいことも見つからず、緩慢と日々を過ごすばかりになっていたのではないか。ほんの少しの勇気があれば、もっとたくさんキラキラとしたものに気づくこともできたかもしれないというのに。


――変わるんだ、私も。……変われるはずなんだ、今からだって。私だって!


 三階の部屋に飛び込むと、杏樹は鍵をかけた。ここも、どこぞの書斎か何かの部屋であったらしい。まだ、戦後すぐの御屋敷、という設定を保った内装である。古びた本棚に囲まれた、立派な机がある部屋。窓は嵌め殺しになっているようなので、袋のネズミと言えばその通りだ。

 しかし、裏を返せばまず相手はドアからやってくるということである。杏樹は書斎の椅子を掴んで、身構えた。いざとなったらこいつを奴にぶつけてやるつもりである。籠城しない方が良いと愛弓が言ったのを、あえて館の主を引きつけるためにこの部屋に閉じこもったのだ。

 無論、あの黒い影がエミシの方に行かない保証はない。過去には同時に出現したこともあるので、必ずしもひきつけ作戦が成功している保証はないだろう。だが、それでも少しは役に立っている可能性があるのなら、やらないよりはマシなのである。


――かかってこいや、クソ野郎!


 杏樹は怯える膝を叩いて、ドアを睨みつけた。死にさえしなければ、夢の中で多少手傷を負っても現実の体は無事で済むはずだ。


――負けないんだから。絶対絶対絶対……負けてたまるかってんだ!


 やがて。ドアに向かって何かが叩きつけられるような音が響き――木製のドアに、大きな穴が空くのが見えたのである。




 ***




 急がなければいけない。エミシは地下への階段を、息を切らして駆け下りた。全てが終わったら、きっちりとジムでトレーニングをして体を鍛えよう、なんてことを考えながら。


――本の物語を忠実に再現しているっていうなら。この階段を駆け下りて右手に折れて、突き当りまで一気に走って、一番奥の左手のドアのはず……!


 この屋敷の世界が、まだ本の世界の原型を保っているならそうなるはずだ。同時に、ゲームはクリアする条件があってこそ成立するもの。愚者の行軍の内容が、獄夢を調べる人達に殆ど広まっていない状況からしても、そのクリア条件が変化しているなんてことはないはずだ。


――頼む!見つかってくれ、鍵……!


 最下層まで階段を降りて、右手に曲がったところで。エミシは、廊下にぼんやりと立っている人影に気づいた。あのおかっぱの女の子――小説の中に登場した、亡霊の少女・鞠子である。

 鍵を見つけてエミシが脱出するということは、この屋敷に囚われた全ての魂を解放することにもなるらしい。幽霊として再現された彼女もまた、エミシに救済を求める一人だったということだろう。


『逃げないでくれて、ありがとう。主人公さん』


 彼女は微笑むと、奥のドアの方を指さした。


『これで終わらせて。全ての悲しい事を、悪い夢を』

「……ああ!」


 あと少し。エミシは息を整えると、再び彼女の方へと走り出したのだった。

 最後の希望を掴みとり、杏樹と自分と、囚われた全ての者を救うために。

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