第31話・嗚咽

 三池愛弓。逆打優――本名、三池優の妻。

 夫婦の間に子供はおらず、優の両親は既に他界しているという。そして彼は、一人っ子。ならば優の名誉を回復させようと最も奔走する人物は、彼女以外にあり得ないだろうというのが杏樹たちの共通見解だった。

 無論、その愛弓が簡単に見つからない可能性もあったし、見つけても証拠があるわけではない。しらばっくれられる可能性は十分あると思っていたが――優が入院する病室でお見舞いに来ていた彼女は、あっさりと己のやったことを白状したのだった。

 まったく、悪びれる気配もなく。


「何故、何もかもぺらぺら喋ったのかと不思議に思う?」


 まだ三十代であるはずの彼女は、実年齢よりもずっと老けて見えた。恐らく、語っていない苦労が山ほどあったことだろう。

 愛する夫が、言われもない罪を着せられ、望んだ夢の舞台をあっさりと引きずりおろされ。希望を与えられては奪われ、そして今はもう小説を書くこともさえままならずベットに横たわっている。彼女の絶望は、普通の人生を生きてきた杏樹には想像するに余りあるものだった。


「理由は簡単よ。もう、私の目的は達成された。今更自分がどうなろうと、誰かに殺されようと、私にはどうだっていいの」


 彼女は愛おしそうに、ベッドの上で眠り続ける夫の手を撫でる。優の枕元には、彼が再起をかけて執筆した本――あの“愚者の行軍”が。真っ暗な闇の中、それでも光を手へと手を伸ばす男の姿が印象的だった。なるほど、イラストだけ見ても――どこか、エミシに似ている、かもしれないと思う。


「理解できないでしょ、あんた達には。ここまでたどり着いたのは凄いけど、でも結局あんた達も他人だもの。私達の本当の苦しみなんか理解できるはずもない。理解してくれとも期待してないわ。罪もない人をたくさん巻き込んで酷い、早くなんとか終わらせてくれと思ってるんでしょ。お生憎様、これが発動したら最後私にも止められないわ。そういうおまじないだったんだもの。私もプロじゃないし、仕組みも正確にわかってないし」

「愛弓さん……」

「この人と、この人が描き出す物語が私の人生のすべてだった。それを奪われたらもう、私には何も残ってないの。この人と一緒に死ぬ選択も考えたけど、このまま死んだらこの人が描いた世界も一緒に忘れ去られてしまうことになる。七鏡はまだ売ってるけど、それだっていつ書店から消えるかわかったもんじゃないわ。……だったら、そうなる前に、もう一度世界にこの人の存在を思い出してもらいたかった。他に方法なんて思いつかなかった、私には」


 やつれた彼女の目には、明確な狂気があった。追い詰められ、他に失うものなど何もないと思ってしまった人間は強いのだろう。何もないから、何も怖くない。無敵の人、という言葉が一時ニュースで流れていたが、彼女はそれに近いのかもしれなかった。

 否、彼女は本当に何も失うものがないわけではない。むしろ、失いたくないものがあったからこそ狂ったのだ。だから、ニュースで言われる無敵の人、とは本質的には大きく異なるのだろうけれど――少なくとも本人は、自分はそうなのだと思い込んでしまったのだろう。

 そうでもしなければ、己を保つことができなかったがゆえに。

 誰かを恨まずに生きられるほど、強い人間ではなかったがゆえに。


――……この人の境遇に、同情はする。でも。


 ギリ、と杏樹は拳を握りしめる。


――だからって。……獄夢に巻き込まれて死んだ人達はみんな、逆打優を出版業界で干した人でもなければ盗作だと騒いだ人でもなく、そしてこの人を騙したり事故に遭わせた人でもない。……この人は結局、無関係の人を巻き込んで憂さ晴らしをしただけじゃないか。


 彼女にも事情はあった。しかし、だからといって罪もない人を大量に苦しめて殺していい理由がどこにあるだろう。自分達だってそうだ、どれほどあの夢のせいで恐ろしい思いをしたことか。それらを“仕方ないですね”で済ませてしまえるほど、自分は大人になることなどできないのである。

 懐の深い心で、怒りを抑えこんで上手に取り繕うのが大人だという人もいるけれど。それで、我慢できる怒りは誰しも限度というものがあるのだ。本当に嫌なことを、本当にトラウマになったことを、本当に悲しかったことを。無かったようにして笑うのが大人なら、杏樹は大人になんてなりたくないしなる必要もないと思うのである。

 そんな風にしなければ生きていけない世の中なんて、そんなもの世の中の方が間違っているのだから。


「絶対許さない、そういう顔をしてるわね」


 愛弓はうっすらと笑みを浮かべて、杏樹を見る。


「私を殺したい?そう思うなら好きにすればいいわ。どうせ、この人はもう目覚めてはくれない……私は独りぼっち。最後にこの人の存在をみんなに思い出して貰えたなら、もうそれで充分満足だもの。言ったでしょ、もう私はどうなってもいいって」

「……罪を償うつもりはないってこと?」

「罪だと思っていないことを一体どうやって償うっていうの」

「――っ!」


 目の前が一瞬真っ赤になった。自分には、こいつをぶん殴る権利があるはずだ。杏樹が怒りのまま一歩前に進み出ようとした、その時だ。


「私、逆打優さんのファンなんです」


 そんな杏樹を制した人物がいた。エミシだ。彼は先に前に進み出ると、椅子に座ったままの愛弓の前にしゃがみこんで告げた。


「七鏡の呪い歌、読みました。映画も見ました。すごく面白かったです」

「……そう、ありがと」

「話の展開も好きなんですけど、私が一番好きなのはやっぱり主人公の一耶なんですよね。私も、彼のような人間になりたいって強く思いました。特に……七鏡に、願いを叶えてやるぞと誘われるシーンが好きで」


 そういえば、七鏡の呪い歌ってどんな作品なんだろう。杏樹はインターネットで調べたあらすじを思い出していた。

 確か、遺産争いによるトラブルで家を追い出された男が、自宅の屋敷の中で呪いの鏡を見つけてしまった弟を救うため十数年ぶりに家に戻るという話、だったはずだ。呪いの鏡のせいで屋敷の使用人たちはばたばたと死んでいき、怪奇現象が次々と起こるというホラー小説。表紙が怖くて自分には読めなさそう、という理由でヒット作であるにも関わらず手を出してこなかったのだが。


「ホラー小説であっても、人の想いやりや強さ、優しさを描くことはできる。私は、逆打優さんの小説のそういうところが好きです」

「!」


 愛弓の顔色が変わった。そんな彼女に視線を合わせて、エミシは続ける。


「特に、例のシーンには……一耶の魅力がいっぱい詰まってました。一耶はかつて、誤解によって家を追い出されて、現在まで貧乏な暮らしを強いられた。いくら悪意がなかったとはいえ、兄弟を恨んでいなかったはずがない。でも彼は、そんな兄弟の命を救うため気まずいはずの家に自らの意思で戻り、家族を助ける為に奔走するんですよね。そして、七鏡の精霊と最後に退治して契約を持ちかけられた時。自分の名誉や、お金を回復するために、自分を追いだした兄弟たちの命を差し出せと言われて即座に拒否できる強さを持っている。まったく迷わないんです。私だったらきっと、少し悩んでしまったと思います」


 エミシは彼女の目をまっすぐに見つめた。


「“確かに誤解によって自分は貧乏になった、そのことを恨んでないわけじゃない。だけどね、兄さんたちに悪気があったわけではないってことを僕は知ってるんだ。何よりその兄さんたちにも今は新しい家族がいて、それを必死で守っている。僕は僕の名誉を守るためだけに、罪もない家族を不幸にしたいなんて思わない”。誰かの幸せを、誰かの痛みを、どんな恐ろしい状況であっても考え続けられる人間。きっと私は、作者の逆打優さんもそんな人なんだろうなって思ったんです」

「……!」

「その上で、愛弓さんにお尋ねしたいんです。……彼は、自分の名誉を回復するために、無関係の人を呪うことを良しとする人なんでしょうか」


 愛弓の目が、動揺したように逸らされる。その顔で、杏樹はとてもやりきれない気持ちになった。

 愛弓だって、わかっているのだと気づいたからだ。己がやっていることが、どれほど独りよがりだったかということくらいは。きっと、本人だって望まないことをしているのだろうということくらいは。

 それでも、セカイを呪わずにはいられなかったのだろう。それが、どれほど許されないことであったとしても。


「……人を恨むな、なんて私には言えません。私が貴女の立場であったならもっと酷いことをしたかもしれない。私もとても心が弱いニンゲンだから、想像することくらいはできます」


 でも、とエミシは女性に訴えかける。


「でも。……貴女は、失うものが何もない人ではないですよね。失いたくないものがあるからこそ許せなかったのですよね。……貴女の最大の罪は、呪いを撒いたこと以上に……愛する人を諦めようとしたことではないですか。だってそうでしょう、貴女はさっき自分が殺されてもいいと言った。そうされても仕方ないことをしたと自分でもわかっていた。自殺することも考えたと言った。……それって、優さんが目覚めてまた新しい物語を書くのを、そのセカイを見るのを、諦めて放棄したってことではないのですか」

「……綺麗事を言わないで。それがどんだけっ……」

「どれだけ辛くても、貴女は生きて彼を待たなければいけなかったのではないのですか。……もし、彼が目覚めた時。貴女がやったことを知り、貴女が自分のせいで死んだことを知ったらどう思うか」


 自分でも、理想論を言っているのはエミシだってわかっているはずだ。言うほど簡単でないことも。

 けれど、杏樹は。きっとその言葉は、逆打優の物語をよく知っていた彼にしか言えない言葉であったと思うから。思うからこそ。




「貴女は彼が目覚めた時……その心をもう一度殺すつもりですか。貴女自身でトドメを刺すつもりですか。……違うでしょう、貴女が一番に望んだ世界は」




 ひょっとしたら。心のどこかで、愛弓も自分を止めてくれる人を待っていたのだろうか。彼女の頬を透明な雫が伝っていくのを見て、杏樹はそう思ったのだった。

 何もかも捨ててしまえたら、壊してしまったら、なかったことにしてしまえたら。本当に苦しい時、人は自暴自棄になってそう願ってしまうことは少なくない。でも。

 例えば突然神様が“何もかも捨てて、望んだ夢と希望の世界に異世界転生させてあげるよ”と現れた時。あっさりとその提案を受託できる人間は、現実にはそうそういないと思うのである。

 何故なら多くの人は、辛い思いや環境を抱えていてもなお、人生のすべてが“それだけ”だと思っていないから。捨てられない自分自身の心があって、忘れたくない楽しい思い出があって、かけがえのない愛しい人がいて。そのどれか、あるいは全部を抱えているからこそ苦しんでいる。

 全部なかったことにしたいなんて、本気で思える人はそう多くはない。


「……エミシさん、悪夢の世界で言われたそうなんです。自分を助けてくれた、女の子に。あの女の子も、“愚者の行軍”のキャラクターの一人ですよね」


 杏樹は一歩進み出た。もうエミシも、その後ろに立つ朝も杏樹を止めなかった。


「その子が、エミシさんに言ったらしいんです。“お願い、主人公さん。この物語を終わらせて”って。……それが、逆打優さんの意思なんじゃないでしょうか」

「あ、ああ……」


 愛弓は顔を覆って、呻いた。


「優……優!ああ、あああああ、あああああああ……!」


 窓から吹きこんできた風が、パラパラと“愚者の行軍”のページを捲る。三池愛弓の、嗚咽と共に。

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