第30話・愛弓
この人には才能がある。そう気づいたのはきっと、自分だけではなかったはずだ。そうでなければ、吾妻ホラー賞なんて大きな賞をあの人が受賞できるはずがなかったのだから。
『受賞おめでとう、優さん!』
『ありがとう、愛弓』
夫の優は、事務の仕事をしながらずっと一人で小説を書き続けていた人だった。高校時代に付き合い始めた時にはもう、彼は黙々とノートに文章を綴るような人間であったのである。話を聞けば、なんと小学生の時から細々と小説を書き続けていたのだそうだ。家には、誰にも見せてないノートが大量にあると聞かされて驚いたものである。
『それ、どこかに応募したりしないの?もしくは、ネットにアップして誰かに読んでほしいとか思わないの?』
愛弓の素朴な疑問に、恥ずかしがりやの彼は頬を染めて言ったものだ。
『い、いいよそんなの。僕は、自分が読みたい物語を自分で生産してるだけだからさ。僕が一番読みたい物語は、やっぱり僕の中にしかないから。読みたいから書いてるだけで、人に読ませるほどの技量なんかないよ』
『ええっ。そんなの勿体無い。そんなにたくさん書いてるのに。私も読みたけど、駄目なの?』
『……は、恥ずかしいなあ……。そう言ってくれるのは嬉しいけど』
彼は評価されたり、自分が認められたくて小説を書いているわけではなかった。むしろ、物語を書き上げる行為そのものに満足していたからこそ、幼い頃からひたすらノートを積み上げることが出来ていたのだろう。文字通り、それが彼の最大の強さだったと言っていい。
高校のクラスメートだった愛弓は彼の物語の、最初の読者だった。
そして一目で惚れ込んだ。一冊読み終わるまでそうそう時間は必要なく、続きはどうなるの?とすぐに読み終わってしまって彼に続きをせがんだほどだ。学生の頃の彼の力量は当然今ほど技術があるものではなく、とてもシンプルな表現に留まっていたが、彼の本領はそこではなかった。純粋に物語が面白く、何より登場人物に魅力があったのである。
ぐいぐいと押したのは愛弓の方で、彼は常に受け身の体制だった。でも、少なからずそんな愛弓を、彼も歓迎してくれていたように思うのだ。自分の物語は自分以外にとっても面白いのだ、と自信を持つのにつながったことだろう。そうでなければ、大学生の頃から公募に応募しようなんてきっと思わなかったことだろうから。
無論、最初から彼の物語が世間に評価されたわけではない。
カドクラ新人賞は一次落ち。
ライトニングノベル賞も一次落ち。
江口ミステリー賞は二次まで行ったが、評価シートの内容はズタズタのボロボロ。他にもスバルスター賞や、吾川新人賞、やれ加隈ノベル賞やらスターライツ大賞なんかにも応募したが、ほとんどが一次落ちであっても二次落ちだった。まともな小説の形になっていれば一次は通る、なんて言う人もいるが嘘っぱちだと心の底から思う。なんでこんなに面白いのに通らないのだと、本気で悩んたほどだ。
はっきり言って、愛弓自身だったらとっくに心が折れていたと思うのである。何がだめなのかさっぱりわからなかったからだ。今思うと、カテゴリーエラーが大きかったのでは?なんて少しばかり心当たりもあるが。
『僕が賞に応募するのは、誰かに認められるためじゃないんだ』
本人より、遥かに落ち込んでいる愛弓の背を撫でて、優は笑った。
『少しでも多く、一生物語を書いていきたいからなんだよ。そのためには、プロの小説家にならないとなーって。はっきり言って、事務の仕事をやりながらだと執筆の時間が削られて辛いんだよねえ』
『……書かせてもらえさえすれば、評価されなくてもいいの?』
『うん。僕には毎日君がいて、君と一緒に食べていけるだけのお金があって、小説を書ける環境さえあれば他に何も要らないんだ』
彼の、何年にも渡る戦いが実を結んだのは。結婚して四年、愛弓と優が三十二歳になった年のことだった。
吾妻ホラー賞。ホラー作家の登竜門であり、受賞作はそのまま書籍化が約束された賞。これで、彼は本当にプロの小説家を名乗ることができる。
その夜はちょっと高いビールで乾杯した。愛弓よりお酒が弱い彼は、真っ赤になった顔でそれでも笑っていた。
今でもあの夜のことは、ありありと思い出すことができる。まさに、人生で最も幸せな夜だったと言っても過言ではないのだから。
『“七鏡の呪い歌”ならきっと賞を取るって信じてた!』
愛弓は我がことのように胸を張り、グラスを掲げて断言した。
『私ね、特にクライマックスの……
『“このまま鏡を割れば、お前の汚名を雪ぐことができるぞ。奴等の命とともに、奴等が奪ったお前の名誉を取り返すことができるぞ”って囁かれるシーン?』
『そうそう。私だったら、あそこで頷いちゃうかも。だって、あの遺産は本来ならば一耶に受け取る権利があったわけでしょ。それを、父親のお金を持ち逃げしようとしたって兄弟に誤解されて遺産相続の権利を放棄させられて……それで貧乏な暮らしを強いられたんだもの。兄弟に悪意はなかったとはいえ、いくらでも恨めたはず。それこそ、鏡を割って、兄弟の命を奪って財産を取り戻してもおかしくなかったのに、彼はそうしなかったわ』
ホラーでありながら、人間の心の強さも優しさも描いたあの作品。多分、主人公である一耶の魅力もまた評価されて受賞に至ったのだろう。
ホラーとは、ただ怖いだけの物語ではない。そう誤解している人も少なくはないようだが、このジャンルでもまた人の優しさや美しさ、感動を描くことはできるのだと愛弓は知ったのだ。
『一耶は、“確かに誤解によって自分は貧乏になった、そのことを恨んでないわけじゃない”と言った。でも、“兄さんたちに悪気があったわけではないし、何よりその兄さんたちにも今は新しい家族がいて、それを必死で守っている。僕は僕の名誉を守るためだけに、罪もない家族を不幸にしたいなんて思わない”って。……ああ、それでこそ一耶!って思ったもの。彼は、貴方にそっくりだわ、優』
名誉より何より、ただ少しでも多くの愛を届けたい。ただ、愛を綴り続けたい。高価な品もお金も名声も何も要らない――まさに、そんな優の良さがぎゅっと詰まった作品だった。
優は学生の頃と変わらない、照れた顔で“ありがとう”と笑って言ったのだった。
『凄く、嬉しいよ。僕が伝えたかったことは、あの物語に全部込めたつもりだったから。それが君に、そして君以外の誰かにも伝わったなら、それ以上の名誉はないね』
あの夜の乾杯を。グラスが鳴った音を。ちょっと甘く感じたビールの味を。いつもより饒舌だった彼の言葉を、笑顔を、愛弓は生涯忘れはしないだろう。
その後、“七鏡の呪い歌”は書店に並び、さらには映画化や漫画化、ゲーム化までされるメガヒットとなった。自分達は幸せの絶頂にいた――彼が二作目の“赤い鴉の時計台”を発表するまでは。
その本が書店に並んだ直後、大御所のホラー作家である
『盗作なわけない!鯨井先生とは会ったこともないし、原稿を見ることなんてできるわけないじゃないですか!』
愛弓は激怒した。彼との共通点なんて、同じ細川出版から本を出したことくらいである。確かに少しばかりネタは似ていた。主人公が若い女性であったこと、呪われた時計台がモチーフであったこと、鳥が随所に登場すること――などなど。
が、似てるところなんて精々その程度。主人公か若い女性だなんて珍しいことでもなんでもないし、向こうが巨乳の美人な大人設定であるのに対してこちらは地味で細身の女子高校生だ。時計台の場所も違う。鳥だって、こちらは謎の赤い鴉が出るのに対して向こうは殺人事件の現場に毎回鳩の死骸があるというパターン。これでパクリ呼ばわりなんて無茶がすぎるではないか。
そもそも、もしも本当に似てるのなら、プロット段階で止めなかった出版社側に非があるはず。なんで優が何もかも悪いみたいなんてことになるのか。
しまいには。
『すまんね。流石に、大御所先生の作品をパクるような人の作品を出すのはちょっとね……』
優の“赤い鴉の時計台”は、絶版に追い込まれた。売り出されてから、僅か一ヶ月のことである。
恐らく、出版社側も本当はわかっていたのだろう――盗作などではなく、鯨井が嫉妬と被害妄想で喚いているだけのことは。たが、ここで彼の機嫌を損ねて自分達のところから本を出してくれなくなっては困る。それで、新人だった優を切り捨てる選択をしたのだ。
最悪なのは、その不名誉な噂が業界全体に広まってしまったこと。
優は、やってもいない盗作をやった作家として、細川出版以外からも干される結果となってしまったのだ。特に、鯨井の本を一冊でも出している出版社の忖度ぶりは露骨だった。華々しい受賞でデビューしたはずだったのに、優の本はあっという間にどこの出版社も出してくれなくなってしまったのである。
『こんな酷いことなんてない!こんなことってない!優は何も悪くないのに!!』
涙を流す愛弓の背中を撫でて、優はそれでも笑顔を絶やさなかった。
『確かに、凄く悔しいよ。でも、僕は諦めない。何も悪いことなんかしてないんだ、堂々としていよう。大丈夫、信じて書き続ければきっと……神様は僕達を見ていてくれるはずさ』
愛すべき、性善説の人だった。
調べてみたところ、鯨井は吾妻ホラー賞に何年も応募し続けて結局受賞できないまま別口でデビューした作家であったこと、若くしてデビューした(無論、優よりも若い作家などいくらでもいるだろうが、同じホラー作家であり鯨井本人が五十代でようやくデビューできた作家だったというのも大きいのだろう)優のことを酷く嫌っていたという話を知る。完全な嫉妬、そして嫌がらせでしかなかった。あるいはそれによる被害妄想だろうか。愛弓がその事実を伝えても、優は鯨井を訴えるようなことはせず、ただ地道にバイトをしながら小説を書き続けたのである。
愛弓はそんな彼を、黙って支えるしかなかった。そしてついに三年前、救世主が現れたと思ったのである。小さな出版社が、優の小説を出したいと言ってくれたのだ。もちろん、企画出版でいいと。
積極的な宣伝、一定の発行部数、続編も出せるようにサポートを惜しまないと言ってくれた。自分たちにとっては、さながら救いの手に他ならなかったのである。
それが、詐欺だとは夢にも思わずに。
再起を賭けて彼が執筆した長編、『愚者の行軍』は――まともに本屋に並ぶこともなく、電子書籍さえ発行されず、夢幻と消えた。そして他ならぬイヅナ出版は、夜逃げ同然で社長共々消えた。彼らが自費出版を使って、さながら詐欺同然のやり方で荒稼ぎし、多くの作家を騙していたと知ったのは暫く後のことである。
――何で?どうしてこうなるの?
流石の優も、ショックを隠しきれない様子だった。そして失意のまま交通事故に遭い――昏睡状態へと陥ったのである。
もう、三年になる。三年もの間、彼は眠り続けたまま。ひょっとしたら一生目覚めないかもしれないと、医者にはそう言われていた。
――この人が、一体何をしたっていうの?何で、こんな目に遭わないといけなかったの?何がいけなかったっていうのよ?
ああ、この世界に。
神様も仏様もいないのだと、愛弓は思い知らされたのである。
――ゆるさない。
この人を、汚いやり方で追い込んだ鯨井も。大御所作家の圧力に負けて優を切り捨てた出版社の連中も。そして、再起を賭けた優の作品を、その希望を踏みにじったイヅナ出版の奴らも、みんなみんなみんな。
そして、優の作品を、想いを、少しずつ忘れていこうとしている世間も。
思い出させなければいけないと思ったのである。この国に、こんな力のある小説家がいるのだと。彼の物語は正当に評価されるべきだと。
だが、もう一度優の小説を出版してくれと頼んだところで、多くの出版社は首を縦に振ることなどないだろう。あの鯨井をいっそ殺してしまえばいいのかもしれないが、あんな男のために殺人犯になるのは癪であるし、何より悲劇の作家ぶられてより彼の本が売れるのも許せない。
何か無いものか。彼の物語を皆が思い出してくれる方法を。そして、“愚者の行軍”の素晴らしさを皆が知ってくれる方法を。
愛弓はインターネットを駆使して、あらゆる呪いの手段を調べたのである。そして、ニ年以上をかけてようやく見つけたのだ。彼の本の世界を、現実のものとする魔術を。
――“愚者の行軍”に出てくる、拷問屋敷。こいつに、世間の奴らを連れ込んでしまえばいいんだわ。
最初は自分の手で、拷問屋敷の都市伝説の噂を流す。オカルト番組や雑誌、ユーチューバーを利用してやるのもいいだろう。呪いは、拷問屋敷とそれに纏わる恐ろしい夢の話を知った人間すべてに伝染する。拷問屋敷の収容人数には制限があるので、知った人間すべてが死ぬまではかなり時間がかかるだろうがそれでいい。
恐ろしい夢と、次々と現れる拷問された死体。そして順番待ちではないかと気づいた人々は恐怖しパニックになる。そこで、折を見て愛弓自ら、この事件が逆打優の“愚者の行軍”そっくりのものだと暴露すればいい。
みんな、血眼になって本を探すし、逆打優のことを思い出すだろう。
そして、彼が見舞われた悲劇を知り、出版業界を非難する。出版業界も掌を返して、逆打優の本を出したがるようになるはず。なんて完璧なプランであることか!
――何人死んだって構わないわ。あの人の物語をみんなが知ってくれるなら……!あの人のことを、みんなが思い出してくれるなら!
愛弓がバラすよりも前に、別の人が逆打優の小説に気づいてくれた。ならば、もう計画は達成されたも同然。
愛弓は、幸せだった。みんなが恐れ慄き、あの人を崇めればいい。彼を忘れていた罪に気付き、悔悟しながら。
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