第23話・悲鳴

 まずい、とエミシは冷や汗を掻いた。

 車で杏樹、朝と共にみぞる村のモデルとなった場所に移動していたところまでは覚えている。しかし、そこから寝落ちた記憶がまったくなかった。眠るのがまずい、というのは三人の共通認識であったはず。飴やガム、それからお喋りを続けるという工夫もしていた。眠る隙なんてそうそうなかったはずだ。それが、いつの間に眠ってしまっていたのだろうか。一時間ほど問題なく車が進んで、そこで油断していたのは否定できないが。


――ここは、確実に獄夢の中だ……!


 二階の廊下、窓の前。窓の向こう、月明かりに照らされた庭では門の前に大量の血がぶちまけられたようになっている。恐らく、死体は食われたか現実に帰ったかしたかでなくなったのだろう。血まみれになった猿たちがうろうろしているのを見て、エミシは吐き気を覚えた。


――もしや、獄夢を何日か見続けると、その進行を早めるために本人の意思を問わず眠りに落ちやすくなるのか?もしくは、俺達が獄夢の謎に迫ろうとしているせいで、何者かの妨害が入っている?


 唯一の幸いは、自分達が車の運転手ではなかったことか。今のところ、朝はまだ獄夢を見てはいない。自分達の異変に気づいてもちゃんと車を走らせてくれるか、もしくは適当なところで起こしてくれるだろう。無論、高速に乗った状態のままだと、サービスエリアに行くか高速を降りるまでは彼女に出来ることは少ないだろうが。

 何にせよ、もし本当に獄夢を見続ければ見続けるほど問答無用で夢に落ちる可能性が高まるなら、もしくは謎に近づくと妨害が入るなら大変危険である。既に、自分達に残された時間は想像以上に少ないということになる。夢の中においても、暢気に探索に徹している場合ではないかもしれない。


――落ち着け、落ち着け。やるべきことはたくさんある。俺が、しっかりしていなくてどうする……!


 杏樹は自分が責任を持って守らなければ。そう、せめて彼女だけでも。

 それから、結局昨晩は原安江のことも助けに行けていない。エミシは周囲に人の気配がないことを確認すると、足早に近くの階段を降りた。一階だ。とりあえず、杏樹と合流するよりも先に安江を救出する方法を考えなければ。汚水に長く浸かり続けているだけでも危険なのに、もし彼女がその汚水を飲むような状況になっていたら確実に病気になってしまう。感染症はもちろん、恐らくそれよりも前に食中毒になる。人間、汚い水で生きていけるようにはできていないのだ。

 それに、自分の排泄物まみれの水の中に浸かり続けるというのは、いくら昼間は現実の世界に戻れるとしても相当な精神的ダメージがあるはずである。場合によっては、あの壁に潰されて死んだ男性のように自ら現実で命を絶つ選択をしてしまいかねない。


――くそっ……どこだ、どこなんだ!?


 地下に水槽があったということは、ほぼ確実に一階のどこかの部屋があの場所に繋がっているはずなのである。そして、そろそろ相当な臭いがこもっているはず。一階の部屋までそれが流れ込んできていてもおかしくはない。

 ゲーム実況で鍛えたマッピング能力を頼りに、地下で彼女を見つけた部屋の真上――そのあたりを探索しようと決める。急がなければいけない。この夢がどのタイミングで醒めるかも、あの黒い影がいつ出現するかもわからないのだ。少なくとも、庭にあの猿の怪物がいたということは、庭にいないことだけは確かなのだから。


――多分、この廊下をまっすぐ言って、突き当りの部屋あたり……くそ、なんだこの屋敷の奇妙な構造は!


 なんで、T字型みたいな変な形をしているのだろう。おかげで方向感覚が狂ってしょうがない。エミシは、丁度安江がいたであろう部屋の、真上にあたる部屋のドアに飛びついた。もし、その奥にあの黒幕がいたら即座に飛び退いて逃げようと決めて。

 幸い、そこには誰もいなかった。その部屋は明かりがつけっぱなしの状態で、苔が生えたタイル張りの床に、隅っこに排水溝とシャワーがあるというまったく用途が分からない部屋である。地下へ入る入口なんてものは見つからない。この部屋ではなかっただろうか。床を調べながらそう思った時、ふと、タイルのいくつかが剥がれていることに気づく。

 否、剥がれているのではない。真ん中付近のいくつかだけ、タイルではなく硝子がはめ込まれているのだ。


――まさか……!


 エミシは慌ててしゃがみこみ、その小さな正方形を覗きこんでいた。そして、おもわずウッと呻くことになる。この部屋からは、臭いはしない。しかし、その硝子の向こうに見える光景は充分すぎるほど凄まじいことになっていたのだ。

 水の中に、女性がいた。間違いなく、あの日自分が助けると約束した原安江である。彼女はふー、ふー、と水面が動くほど肩で息をしながら必死で上を向いて息をしている。その顔は赤く、頬にはあちこちにできものが浮いていた。その眼は充血し、うつろになっている。明らかに、体調に異変を来しているのが見て取れる。

 そしてその体が浸かっている水は――最後に見た時よりも、遥かに茶色く濁っていた。ひょっとしたら、本人が漏らした排泄物だけではないかもしれない。後で、あの黒幕が汚物をさらに追加投入した可能性もある。いずれにせよ、あまりにも惨たらしい状況がそこには広がっていたのだった。


「原さん!原さん!しっかりしてください!」


 思わずタイルを叩いて叫ぶものの、エミシの声は彼女に聞こえないようだった。それが、彼女の意識が朦朧としているからなのか、この場所からでは遠くて聞こえないのかは定かでないが。

 彼女の体は、ぐらぐらと揺れていた。意識を保つだけで精一杯になっているらしい。恐らく、気を失ったら最後何が起きるかわかっているがゆえ、死ぬ気で抵抗しているのだろう。彼女は、ほぼ首から上だけが水の上に出ている状態である。その状態でもし首ががくんと傾くことになれば、ただ溺れるだけでは済まない。


「原さん!しっかり、しっかりして……!」


 そして、恐れていたことが起きた。彼女の体が大きく前のめりになり――そのまま、ばしゃり!と水の中に顔をつけてしまったのである。


『――!んんんん、んんんんんんんんん!!』


 彼女はすぐに目覚めて、ばしゃばしゃともがいた。そしてすぐに顔を再び上げたものの、その顔面と髪は汚れきって酷い有様になっている。茶色の固形物がこびりつき、瞼の上も、唇も上もどろどろに汚して流れているような状態だった。

 あまりにも悲惨がすぎる。エミシは唇を噛み締めて、近くのタイルを探り始めた。この部屋から覗けるということは、やっぱりこの部屋に地下への入口があってもおかしくないはずだ。どこか、どこかにタイルの切れ目はないか。押したり引っ張ったりできるギミックは――?


「もう諦めた方がいいと思う」

「!」


 はっとして振り向けば。そこに、いつの間に立っていたのか、あのおかっぱ頭の少女が立っていた。


「もう諦めた方がいい」


 女の子は、悲しそうな顔で繰り返す。


「一度捕まっちゃうと、助けられないの。あるじは、一度捕まえた獲物は逃がしたくないから。助けようとすると、あるじが来るよ。あるじがきて、あなたも捕まっちゃうよ」

「じゃあ、見捨てろっていうのか」


 彼女はきっと、自分の味方なのだろう。それがわかっていても、エミシは言わずにはいられなかった。


「安江さんは、俺に助けを求めていた。俺の動画のせいでこうなったんだ。俺には彼女を助ける責任がある!」

「……あなたは知らないだけ。あなたが何かをしても、何もしなくても、この屋敷にはたくさんの人が来てたんだよ。もともと、そう言う風に作られたところだったんだよ」

「……どういう意味だ」


 確か彼女は、この屋敷から出る方法も、自分がどうして此処にいるのかもわからないと言ってはいなかったか。てっきり、そういう情報は殆ど知らないとばかり思っていたが。


「わたし、自分がなんなのか知らない。でも、ここが、たくさんの人を呼ぶための場所だってことは知ってる。ここは、たくさんの人に、ここを知ってもらうための場所。そうしたいと思って、そうしたいと願われて、つくられた場所なの。誰かを攫うのも、閉じ込めるのも、傷つけるのも、ぜんぶぜんぶ手段でしかないの。わたし、なんとなくそれだけはわかるの」


 彼女は大きな瞳で、真っ直ぐにエミシを見て言った。




「お願い、主人公さん。この物語を終わらせて」




 それは、一体どういう意味だ。

 主人公って、それは自分のことなのか?エミシがさらに彼女を問い詰めようとした、その時だった。




「うぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」




 天をつんざくばかりの悲鳴が、上の階から聞こえてきた。距離はやや遠い。それでも、誰かが命の危機に瀕しているとはっきりわかるほどの悲鳴。それも、女性の。


「杏樹さん!?」

「!」

「ご、ごめんよまりこちゃん!」


 彼女にはまだ尋ねたいことがある。しかし、まだ話をする機会はあると信じよう。安江のことも気の毒だが、まず最優先は杏樹だ。今の悲鳴。もし彼女なら、今まさに捕まったところである可能性も否めない。もしくは、捕まりそうになって助けを求めているのかもしれない。

 だとしたら、救えるのは自分だけだ。


「お、おじさん……!」


 背後からまりこの声が追いかけてくるのを無視して、エミシはそのタイル張りの部屋を飛び出した。じっくり索敵している余裕はない。一刻も早く、杏樹のところへ向かわなければ。自分が、彼女には四階になるべく留まるようにと言ってしまったのだから。

 エミシはそのまま廊下へ駆け出し、一番近くの階段を駆け上がり始めたのである。

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