第16話・化物

「え、何?なんなの?」


 突然聞こえてきた声に、芽亜里は辺りをキョロキョロと見回した。まさか、この屋敷には番犬でもいるのか。あるいは、森の中に野犬がいて唸ってきているのか?


――な、なんかよくわからないけどヤバい気がする……!


 さっさと門を超えてしまった方が良い気がする。芽亜里はさっと門に足をかけ、登り始めた。

 しかし、三段分ほど登ったところで。


 ヒュオッ!


 何か風を切るような音、が。


「んぎゃっ!?」


 突然、何かに強く髪の毛をひっぱられた。芽亜里は小さな頃から、腰まで届く長い長い髪が自慢の人間である。毎日、母に丁寧にブローしてもはって、お花の髪飾りをつけてもらうのが日課となっていた。ウェーブした、大人の女性のような艶やかな美しい髪。それが背後にいる何者かに、無遠慮に引っ張られているのだ。


「な、な、何すんのっ!?やめてよ、髪の毛が傷んじゃうじゃないっ!誰よアンタっ!!」


 ジタバタと藻掻く芽亜里。しかし、相手はすぐ後ろにいるので姿を確認することはできないし、しかも凄まじい力で芽亜里の髪の毛をひっぱり続けているのである。

 自慢の髪の毛が傷んじゃう、なんて気にしていられた時間は僅かなものだった。段々と、洒落にならない激痛に悲鳴を上げるしかなくなってくる。


「痛い痛い痛い!やめてっ!お願いやめてっ!」


 相手は言葉が通じない生物なんだろうか。しかし頭に触れるそれは、人間の手とさほど変わらない感触に思える。フー、フー、と生臭い息が耳元にかかった。強い獣の臭いに思わず吐き気を覚える。獣の臭いというからには、人間ではないのか?


「いやぁっ!」


 やがて、芽亜里は門から引きずり落とされる。せっかく脱出できるところだったのに――ずるずると石畳を引き摺られて、絶望的な面持ちになる芽亜里。だが、事態はそれだけでは済まなかった。謎の存在は芽亜里の頭をがっしりと掴むと、さらに髪の毛を強く引っ張り始めたのである。

 数十本程度を同時に引っ張るくらいなら、その分の髪の毛が引き抜けるだけで話は終わっていただろう。しかしその生物は、髪の毛全体を鷲掴みにして物凄い力で引っ張るのである。悲鳴を上げたのは髪よりも、その根本――頭皮だった。

 びりり、とおぞましい音が聞こえた。次の瞬間、先程までとは比較にならない凄まじい痛みが芽亜里の頭を襲う。


「ひぐぅ、ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」


 びりりりりりり、と紙でも破けるような音とともに、頭皮が勢いよく剥がされたのがわかった。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!痛いいいいい!」


 頭を押さえ、転げ回って苦しむ芽亜里。泣き叫びながら見たものは、月明かりを背に立つ二足歩行の怪物の姿だった。芽亜里の自慢の髪は、皮とくっついたままだらん、とその怪物の腕から垂れ下がっている。まるで、カツラでも作ったかのように。


――わ、わ、私のっ、私のぉっ!?


 わけがわからない。何で自分はこんな目に遭っているのか。痛みと恐怖と、髪を失った絶望で頭の中がぐちゃぐちゃだった。額をだらだらと血が伝っていき、目元にまで垂れてきて視界を遮る。己の頭蓋が今どんな状態になっているのか、想像するだけで恐ろしかった。


――に、に、逃げなきゃ!逃げなきゃ!


 激痛に泣きながら、それでもどうにか這いずって逃げようとした。あの門の向こうに行けば、きっと怪物からは逃れられる。そうだ、忘れかけていたがこれは夢、あくまで夢なのだ。この凄まじい痛みだってきっと“そんな気がしているだけ”に違いない。この門を超えればきっと目覚めることが出来る。そうすれば、いつもどおりの完璧で美しい自分に戻れるのだ。

 髪の毛はいつもと変わらず綺麗なまま、いつものようにママにきれいに整えて貰うのである。そう、これは夢。悪い夢、夢、夢、夢――。

 しかし芽亜里が、再び門にたどり着くことはできなかった。その前に、芽亜里の髪をぽいっと捨てた怪物が立ちはだかってきたのである。

 今度こそ、そいつの姿がはっきり見えた。

 それは、猿だった。ニホンザルやゴリラ、オラウータン――動物園で見たどれとも違う顔だが。二足歩行ができ、ゴリラのような屈強な体躯を持ち、人間のように手足を器用に扱うその姿は猿以外の何者でもない。

 そいつは皺だらけの顔で、不快そうに芽亜里を見下ろしている。そして、逃げようとする芽亜里の腕を掴んで持ち上げたのだった。


「や、やめて!離して!」


 そいつは芽亜里の言葉も抵抗もまったく意に介さない様子である。芽亜里の右腕を握りしめたまま、しけしげと芽亜里の顔を観察している。何をするのかと思った次の瞬間、掴まれている右腕に激痛が走った。


「うぎゅっ」


 みしみしと骨が軋む音がする。凄まじい握力で、芽亜里の肘の辺りを握りつぶそうとしているのだと気がついた。気がついて、しまった。


「やめてやめてやめてやめて!折れちゃう、う、腕折れちゃうから、やめっ」


 ボギボギボキ、だの。ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、だの。とにかく形容しがたい主が同時に鳴った。化け物の屈強な肉体に対して、女子小学生の体はあまりにも華奢で貧弱だった。


「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」


 今度は芽亜里の腕が、骨も肉もごっちゃまぜになったミンチになってしまった。ぶしゅううう、と股間から勢いよく尿が吹き出す。ついさっきまで、尿意何か全然感じていなかったはずだというのに。


――わだしの、う、うで、うっでがっ……!


 乱暴に地面に落とされる。見れば芽亜里の右腕は、肘部分を中心にぐちゃくちゃに握りつぶされていた。もはや、おかしな方向に曲がっている肘から先は皮一枚でだらんと垂れ下がり、まともに動かすことさえできない。

 びくびくと痛みに体を痙攣させる芽亜里の視界に、次々と黒い影が叢から飛び出してくる。あの猿のような怪物は一匹ではなかったらしい。さっき芽亜里が通った時は、まったく気配なんかなかった。一体、どこに潜んでいたというのだろう?


「も、もう、やべでっ……」


 腕が破壊されては、もうまともに立つことはもちろん、這いずることさえままならない。激痛に泣き叫びながら、尻もちをついて後退ろうとする。しかし、そんな気休めの逃避さえ、彼らは許すつもりがないようだった。

 二匹の怪物が、じり、とにじり寄ってくる。そして顔を見合わせ、オウオウオウ、と呻くような鳴き声を出した。人間のように、なんらかの会話を交わしているとでも言うのだろうか。

 次の瞬間。


「ひゃあっ!」


 芽亜里の体が、思い切り浮かび上がった。魔法のような力で浮遊しているわけではない。二匹の化け物が、それぞれ芽亜里の左足と右足を掴んで釣り上げたのだった。化け物の大きさは、目算で2メートルをゆうに超えていた。小柄な芽亜里はスカートがめくれあがり、パンツを丸出しにした状態で逆さ吊りにされてしまうことになる。

 きっと、化け物たちにはウサギのアップリケがついた子供パンツを凝視されていることだろう。しかも、先程漏らした尿で黄色に汚れているのだ。が、正直今は羞恥心を感じる余裕さえなかった。わかってしまったからだ、ここから何をされるのかということが。


「や、やめて。お願い、許してっ」


 ぶらぶらと揺れる、潰された右腕と頭皮を剥がされた頭が痛む。掠れた声で、必死になって懇願するしかない芽亜里。


「や、やめてっ……もう、痛いのはいや……ゆ、ゆふし」


 命乞いが、聞き届けられることはなかった。みしり、と軋む股関節。ぎしぎしぎし、と音を立てて両足が大きく開かれ、左右に強烈な力で引っ張られ始める。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!もうやめて、やめて、やめ、いぎ、ぎっ」


 ぼくん、とおぞましい音が腹の下から聞こえた。片足か、あるいは両足か。股関節が脱臼した音だとわかった。

 しかも、その痛みを嘆く暇さえない。骨が外れてもなお、怪物は足をひっぱり続けている。みちみちみち、と筋肉が裂け、筋が千切れる音がした。そして。


「ぎ、ぎゃ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」


 ぶちぶちぶち、ずるんっ!

 両足が引きちぎれる、だけでは済まなかった。がっぽり開いた“足が繋がっていたはずの場所”にあった穴から、道連れになるかのように内臓が引きずり出されていくのを感じる。


「あ、がが、が」


 痛い。もはやどこまで痛いのかもわからない。それなのに、芽亜里の引きちぎられた両足と、それにくっついている肉片を玩具のように弄びながら怪物は笑っている。


――なんで、私まだ、生きてるの。


 じわり、と涙が滲んだ。痛い、痛い、痛い、痛い、怖い。せめて早く、この意識がなくなって苦痛から開放されたいと願うしかない。


――はやく、ころし、て。だれ、か。




 ***




「あ、あああ、あ……」


 少女が猿のような怪物に嬲り殺しにされるのを、エミシは二階の窓から見ていた。がくがくと全身が震えるのを止められない。嫌な汗が体中から吹き出してくる。それは、小学生くらいの女の子が無惨に殺されたことだけではない。――自分がしてしまった決断の重さを、思い知ったがゆえのことでもあった。


――お、俺は……俺はあの子を見殺しに……!


 玄関から飛び出していく彼女に声をかけたのは確かだ。そんなエミシの声を無視して、少女が庭へ駆け出して行ってしまったのも。

 だが、飛び出してすぐ追いかけていって捕まえたなら間に合ったかもしれない。エミシはそこで迷ってしまった――彼女の行動によって、何故“庭に行ってはいけないのか”がわかるかもしれないと。

 そして、人として最低な決断をしたのだ。つまり、彼女を追いかけて引き止めることをせず、二階へ上がって何が起こるか観察することを選んだのである。

 確かに、庭にいるという怪物の正体を知ることは出来た。無闇に脱出しようとすると何が起きるのかも。だが。


――……みんなのために、この獄夢を終わらせる責任がある?正義のヒーロー?……そんなんじゃない。俺は結局……臆病者でしかないんだ。


 彼女を追いかけるリスクを避けて、小学生くらいの女の子を見殺しにしてしまった。得られた情報は大きいが、その代償として一つの命が失われてしまった。自分が、そうしたのだ。


――最低だ。最低だ、最低だ、俺は……!


 暫しの間。エミシはその場に蹲り、自己嫌悪に喘ぐしかなかったのである。

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