第9話・続行
覚悟していたとはいえ、やはり恐怖は拭えない。
「きゃあっ!」
夜。眠りについたと思った途端、杏樹は再びあの夢の中にいた。息を切らして走り始めてすぐ、足がもつれて派手に転んでしまう。
見覚えのある赤いカーペットに顔面から打ち付ける羽目になり、思わず呻く。
――これ、これ……!やっぱり、昨日の夢の続きだ……!
だとしたら、自分は館の主から逃げ始めた直後であるはず。振り返ろうか迷った一瞬、後ろの方でがちゃりとドアノブが回る音がした。追いかけてくるつもりだ。痛みを堪えて、どうにか立ち上がる杏樹。
――に、に、逃げなきゃ!早く逃げなきゃ、どこかに!
体力を気にしている場合ではない。全力でその場からの逃走を図った。息を切らして、月明かりが照らす廊下を疾走する。
後ろから、どたどたと追いかけてくる足音が聞こえた。もし自分も捕まったらどうなってしまうのだろう。昨夜見た光景が、頭の中にフラッシュバックする。
『いやあああああ、も、もういやああああ!痛いのいや、痛いのいや、いや、いやああああああああああああああああああああああああああ!』
『もうごろじで、おねがい、ごろぢでよおおおおおおおおおおおおおおおお!!』
人が、殺してくれと懇願するほどの苦痛とはどれほどのものだろう。両手両足の関節を捩じり砕かれ、筋を千切られ、しまいには腰を捻られて背骨も内臓も潰されて。それでもまだ、最後に見た時あの女性はまだ生きていた。死ぬことができないでいた。
最終的に死体として発見されたということは、あのあと程なくして息絶えたのだろうが――それでも最期の数分がどれほど長く、地獄であったかは想像に難くない。きっと何もかもを恨んだはずだ、自分はこんなに惨い死に方をしなくちゃいけないほど罪を犯したのか、と。
――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!
今はまだ死にたくないと思える。
この心が“早く殺して”に変わったらもう、その時は。
――いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
心の中で絶叫しながら、見つけた階段を駆け上がった。足音からして相手が追ってくる速度はそれなりに速い。平均的な成人女性の体力しかない杏樹では、いずれ追いつかれてしまうことだろう。
そもそも、今日を逃れられても明日も明後日も逃げなければいけない可能性が高い。もし体力の状態が翌日に引き継がれてしまうなら、今夜だけで疲労困憊になるのも極めてまずい。
頭の隅の冷静な部分でどうにか探し出した答えは、どこかに隠れてやり過ごすしかない、だった。
――ど、どこか開いてる部屋は……!
階段を駆け上がった直後、一番近くにあった部屋のドアに飛びつく。もしここが開かなかったならお手上げだと思った。既に緊張と恐怖で体力が尽きかけていたからだ。
――お願い、開いてっ……!
ガチャリ、とノブが回った。慌ててその中に滑り込む。
――こ、ここは……寝室?
ベッドが二つあるということは、きっとそうなのだろう。詳しく観察している暇はない。すぐに振り返り、ドアに飛びついて鍵をかけた。もし鍵がかかる部屋でなかったら、あのベッドを持ってきてバリケードにでもするしかない。が、幸い、この部屋には内鍵が存在していたようだ。小さなツマミをがちゃりと回し、ふう、とその場にへたりこむ。
いや、まだ安心することはできない。直後、あの黒い影が階段を登ってくる音が聞こえた。この階にやってくる。一応鍵をかけたが、この部屋にいることがバレたら無理やりドアをぶち破ってくる可能性もあるだろう。
――ていうか、今気がついたけど、下手に鍵かけたらそこに私がいるって言うようなもんじゃない……!?
さぁぁ、と血の気が引いた。しかし、もうそこに相手がいるかもしれない以上、今から再び鍵を開けるような度胸もあるはずがない。鍵を開ける音でバレてしまうかもしれないから尚更だ。
とにかく、この部屋のどこかに隠れなければ、と周囲を見回す。もともとは夫婦の寝室であったのかもしれなかった。戦後日本の洋館――とかいう設定にしては随分と豪華な寝具が二つ。それも、綺麗に白いシーツがベットメイクされている。二つ並んだベッドの中心には女性物の鏡台のようなものが。汗だくになって真っ青な顔をした杏樹がはっきりと映し出されている。
――変な部屋。寝室なのに、クローゼットの一つもない……。
いや、ツッコミしている場合ではない。隠れられる場所は、残念ながらベッドの下しかないようだった。成人女性の杏樹の体格では少々狭かったが、半ば強引に体を滑り込ませる。
その直後。ドアのすぐ前で足音が。そして。
ガチャッ!
「!」
ノブを勢いよく、誰かが回した。誰か。決まっている、杏樹を追いかけてきたあの黒い影だ。
開かないことに苛立ったようで、何度も何度もガチャガチャとしつこくノブを回し始める。
ガチャッ。
ガチャガチャガチャ。
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ――!
――や、やめて!鍵が壊れちゃうっ……!
そいつが外から開く鍵を持っていたらそもそも終わっていたが。そうでなくても鍵を壊されて突入されたら、見つかるのは時間の問題だ。杏樹はぎゅっと目を瞑って、ひたすら祈り続けた。
――お願い、お願い、お願い!この部屋には私はいないって思って……諦めて!
自分の心臓の音が煩い。ドアの向こうの人物に聞かれてしまったらどうしようかと思うほどに。恐怖と混乱で頭がおかしくなりそうになった、その時だった。
ふわり、と体が浮かび上がるような奇妙な感触。そして。
「いやぁっ!?」
飛び起きていた。瞳を突き刺す朝の光。見慣れた自分の部屋の景色、毛布の感触。
「ああ、あ……っ」
助かった。自分はあの部屋から抜け出すことに成功したのだ。安堵と同時に襲ってきたのは底知れぬ絶望だった。
昨夜の夢の続きだった。
あの影に自分は追いかけられた。今回はどうにかにげきれたけど、次は。
「いや、嫌だぁ……っ」
杏樹は顔を覆い、しばし声を殺して嗚咽を漏らすことしかできなかったのである。
***
起きた時間は、朝の七時だった。どうやらあの夢を見て何時に目が覚めるかは特に法則性も何もないらしい。
どうにか気持ちが少し落ち着いたところで洗面所に立ち、顔を洗って歯を磨いた。どれほど恐ろしい夢を見たとしても、お腹が減っては戦はできない。とりあえず杏樹はキッチンに立ち、朝ごはんを作りにかかる。
一人暮らしをして長いが、あまり料理のスキルは達者とは言えなかった。理由は単純明快、ものすごいモノグサな性格だからである。卵やレンジでチンできるご飯と、あとはカップラーメンでもあればいいや、という人間。カップラーメンは体に悪いなんて言う人もいるが、大抵のラーメンはお弁当を買うより余程安上がりなのが魅力だ。まあ、ゴミが増える難点はあるが。
――うう、目がショボショボする……。
正直、やっと涙が収まった程度の心境。本当はこのままずっと何もかもから逃げていなくなってさまいたいほどだった。しかし、眠ったらまた悪夢を見るかもしれない以上そういうわけにもいかない。大好きな睡眠が怖くなってしまうのだから、獄夢とはなんと罪深いものであるのだろうか。
ため息まじりに油をしいたフライパンに割った卵を落とし、ついでにベーコンも焼く。バラバラに焼いたほうが良いと朝にも指摘されたことがあるが、自分としてはベーコンの油まみれになった目玉焼きが大好きなのだから仕方ない。邪道と言いたければ言え。
万が一にも二度寝はしたくない。疲れてはいたものの、今日もコーヒーを入れることにした。これで少しは頭がすっきりしてくれるといいが。
「!」
目玉焼きとベーコンを皿にひっくりかえし、電気ポットのお湯が沸くのを待っている間。スマホを見た杏樹は、目を見開くことになるのである。
ツイッターに、通知が来ている。あの、エミシからのメールが。
――お返事だ……!
何か新しくわかることがあるかもしれない。杏樹は慌てて、手紙マークのアイコンをクリックした。そして、予想外の事実を知ることになるのである。
『はじめまして、アールさん。こんにちは、エミシと申します。今回は貴重な情報提供ありがとうございます。お返事が一晩経ってしまってごめんなさい。その夢は、今夜も見られましたでしょうか?
実は私も今夜、まさに獄夢らしきものを見たばかりです。アールさんと同じものかもしれないし、まったく違う内容かもしれません。いずれにせよ、お話をすり合わせればさらに細かいことがわかるかも。
私の動画のせいで、巻き込んでしまって本当に申し訳ないです。
共に、あの夢を脱出する方法を考えましょう。二人で協力すれば、道が開けるかもしれません』
昨晩、ついにエミシ本人も獄夢を見ていたのだ。杏樹が、与り知らぬところで。
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