第8話・水没
もしやこれは、と
――もしや、これが獄夢か?
気分が高揚した。オカルト系ユーチューバーとして情報を発信してきたものの、実のところ現実では一度も怪奇現象に遭遇したことがなかったのである。幼い頃からホラーが好きで、本物の幽霊を見てみたいとずっと思ってきた。しかし、自分自身には霊感の類がまったくないのか、友人達と行った肝試しでみんなが“人魂を見た”だの騒いでいるところに自分だけ何も見ていなかったりするし、田舎のジイちゃんの家のラップ現象にも一人だけ気づいていなかったりと散々だったのである。
今回、獄夢について取り上げることにしたのは、リクエストがいくつも寄せられたというのもあるが、今度こそ自分も怪奇現象を体験できるかもしれないとわくわくさせられたからというのもあるのだ。
知っただけで危害を加える系の怪異は時々見かけるが、本当に危険なものは非常に少ない。猿夢でさえ、いくら調べても自分のところには現れてくれなかった。無論、世の中にはもっと危ない怪異はたくさんあって、自分がたまたまそれらを回避してきてしまっただけなのかもしれないが。
――今度こそ、本物を見られるかもしれない。
動画にしておいてなんだが、エミシはこの拷問屋敷についての話をかなり疑ってかかっていた。設定に粗が多いからである。日本の若い男の全てが赤紙で徴兵されたわけではなく、ものすごい重病の患者だったり住所不定だったりした場合は届かないケースもあったとは知っているが――だからといって、田舎の農村にド派手な館を建てているような人間が戦後まで元気に生きているというのはなかなか不自然なのだ。
そして、一人暮らしで職業も謎めいているのに妙に羽振りが良かったこと。
それで何人も拷問にかけられて殺して、捨て台詞を吐いて死刑になったはずなのに、調べてもそれらしい過去の事件が全然出てこなかったこと。
まるで誰かが作った架空の物語を、面白がって広めたようだと感じたのだ。あるいは、本来はまったく別の話だったのが、尾ヒレがつきまくって別物になってしまったか、である。
――が、架空の話なら本来幽霊なんてものは出ない。出るはずがない。ということはこれは怨霊の仕業ではなく、生きた人間の呪いってケースもある。どっちにしろ、放置しておくのはまずい。俺の手で調べて、明らかにしてやるべきだろう。
物は言いようだ、自分でもわかっている。この怪異の謎を明らかにして、元凶を食い止めるという大義名分。それで、危険かもしれない話で動画を作って、大々的に広めてしまったのだから。
本当に獄夢が現実のものとなり、他の人も巻き込まれるようなことになったなら、自分は間違いなく大炎上だろう。ここまで築いてきた、ユーチューバーとしての地位をも失うことになるかもしれない。法律で裁かれることはないとしても、多額の広告料が全部パーになる可能性はある。
それでも、やりたいと思ってしまったのだ。まるで、何かに誘われるように。
こいつを突き止めて、食い止める。その過程で自分は本物の怪異を体験できる。それが、己の使命であるかのように。
――いや、まだ獄夢と決まったわけじゃない。俺も結構妄想逞しい方だからな。
慢心は禁物。まずは、冷静にこの夢が本物かどうかを確かめなければ。
胸を高鳴らせつつ、当たりを観察する。自分が立っているのは、廊下の突き当たりのようだった。すぐ後ろには、上へ繋がると思しき階段がある。窓がないということは、この場所は地下なのだろうか。上の階段を上ってみるべきか廊下を進むべきか――悩んだ末、エミシは前に進むことを決める。
話の内容からして、この館の主に出逢って捕まってしまったら終わりだ。自分もいっぱしの男だから簡単に捕まる気はないが、相手が武器を持っていたり薬を使ってくることも充分有りうる。一番良いのは、とにかくその相手に見つからずに逃げ続けることだ。
勿論、この館から脱出するためにその男を倒す必要があるというのなら、相対することも考えなければいけないが。
――あるいは、普通に出口があるって可能性もあるな。出来る限り長く逃げて、この屋敷の中をじっくり探索したいところだ。
面白いものが見られれば、次の動画のネタにもなる。獄夢のあんな簡単な紹介動画でさえものすごく回ってくれたのだ、実際に獄夢の世界を取材して動画にしたらどれほど皆の興味を惹けるだろう。そんなちょっとした野心も抱きつつ、エミシはゆっくりと廊下を歩いていった。
暫く進んだところで、ばしゃ、ばしゃ、と奇妙な水音が聞こえてくることに気づく。廊下にはいくつも鋼鉄製のドアが並んでいて、そのどれも開く気配がなかったが、どうやら突き当りの部屋だけは様子が違うようだった。
否、開くドアがあったいうわけではない。T字型になった廊下の、真正面。その壁の一部分だけが、硝子張りになっていたのである。最初はその向こうにプールでもあるのかと思った。硝子の向こう部分だけ、妙に明るかったからだ。
その予想は正しかった。実際、硝子の向こうにあるものは大きな水槽であるようだった。狭くて明るい部屋に、水が半分ほど満たされている。だが、それはエミシがよく知る市民プールやお風呂とはまったく様子が異なるものであったのだ。
「な、なんだこりゃ……?」
硝子の向こう。半分水が満たされたその部屋の中で、女性が正座するような姿で座り込んでいる。両手両足を手錠のようなもので拘束されているようだった。彼女は衣服を着たまま水に浸かっており、首から上部分だけが水の上から出ている状態だった。ゆえに、溺れる心配はない。だが。
「!」
いつから水に浸かっていたのだろう。ぐったりしたその女性が、はっとした様子で顔を上げた。硝子の向こうにいるエミシに気が付いたらしい。そして鬼気迫る様子で、“助けて!”と叫んだ。硝子は相当分厚いようだが、それでも声は充分に届いたからである。
『お願い、助けてエミシさん!こ、ここにもう何時間も繋がれて放置されてるの……!』
「なんだって!?」
『水もちょっと冷たくなってきたし、とにかくずっと浸かりっぱなしで……!お、お腹も痛くなってきて……!手足も全部繋がれてて動けないの!』
エミシより少し年上だろうか。中高年らしきその女性は、豊満な体を揺らして必死で手錠から逃れようとしているようだった。しかし、がっしりとした鋼鉄製に見える黒い手錠と鎖はまったく動く気配がない。いくら彼女が暴れてもびくともしないようだった。
「待ってください、今、エミシさんって言いました?」
思わず硝子に近づいてエミシは叫ぶ。
「ってことは、貴女は私の動画を見てくださった方なのです?」
『そう……そうです!貴方のファンなんです。動画を見て、最初の晩は逃げ切ったんだけど今夜は駄目で捕まってしまって……!そ、それでこんな水槽の中に入れられてしまって!すぐに殺されなかったから、なんとか逃げるチャンスはあるはずと思って耐えてたんですけど……!』
不謹慎なのはわかっているが。その瞬間、エミシの心に沸き上がったのはまごうことなき歓喜だった。やはり、拷問屋敷の話は本物だった。自分の動画で、獄夢を見た人間がいたのだ。そして、これが自分の妄想ではないのなら、自分も本物の獄夢の中に入ることができたということになる。生まれて初めて、本物の怪異をリアルタイムで体験しているのだ!
「……落ち着いてください」
が、勿論そんな顔を、今まさに助けを求めているファンの前でしていいはずがない。こちとら百戦錬磨のユーチューバー、良い人を取り繕うことには慣れているのだ。真剣な顔を作り、女性を宥めようとする。
「とりあえず、貴女がその部屋に入れられた経緯をよく思い出してください。私から見える範囲では、出口らしいものがあるかどうかがわからないのですが……そこに貴女が入れられたということは必ず、その部屋に出入りできる場所があるはずなのです」
彼女が天井から突き落とされて水にドボンさせられたというのなら、簡単に脱出できないかもしれないが。彼女は水の中で両手両足を手錠で拘束されているのである。さすがに、ロボットのようにオートで手錠が動いてきて彼女を捕まえた、なんてことはないだろう。不通に考えるなら、主が一つずつ自らの手で手錠をはめていったはずである。
ならば、主が出入りできる出口が必ずどこかにあるはずだ。
「貴女のお名前を伺ってもいいですか?私はエミシ……ってご存知でしょうが」
『は、
「……ああ」
そりゃ、冷たい水に何時間もつけられていたら、窒息の心配はなくてもお腹を壊してしまうだろう。そうでなかったとしても、人間には生理現象がある。いつまでもトイレを我慢できるわけではない。が、この状況では真っ当にトイレに行けるはずもなく。
――……ここは夢の世界であるはず。しかし、普通に排泄欲求はあるのか。現実の体とリンクしているのか、それともこの空間では時間の流れが別の方向に流れているのか。……食事や水の心配もする必要があるのか?
『こ、この部屋の上の方に出口があるみたいで。真っ黒な影みたいな人に抱えられて、この部屋に入れられたんです。梯子を降りてきていたみたいだから、多分、一階からこの部屋に繋がる出入り口があるんじゃないかって……』
彼女が真っ青な顔でそこまで話した、直後。
『う、うううう!も、もう、もうだめ……だめ……!』
果たして、何時間耐えていたのだろう。ぶちゅうう、と何かが潰れるような濁った音が聞こえてきた。彼女の尻の方から、茶色い液体のようなものが噴出される。あまりにも気の毒な光景だった。よりにもよって、ファンであるユーチューバーの前で大きな方を漏らしてしまったのだから。
『うう、うううう……!』
青ざめた顔でぼろぼろと涙を零す女性。最悪なのは漏らしたのみならず、彼女が水に浸かっているという事実である。下痢便の茶色い水は、ゆっくりと霧のように広がって水の中に拡散していく。彼女は解放されるまでの間、ずっと自分が漏らした汚水の中に浸かっていなければいけないのだ。硝子の向こうの臭いと不衛生な環境を想像すると背筋が凍る思いである。
「必ず、助けますから」
引いた顔をしてはいけない。どうにか自分を戒めて、エミシは彼女に呼びかけた。
「その拷問の内容からして、少なくともすぐに殺されるわけではないはずです。もう少し、もう少しだけ耐えてください」
『お、お願いします。お願いします。ごめんなさい、ごめんなさい……!』
「大丈夫です、私を信じて……」
その時、エミシはまるでヒーローになったような気分だった。自分は今から、自分を慕ってくれるファンを助けに行くのだ。そのために異性に優しく声をかけ、危険を顧みずその部屋の出口を探しに行こうとしている。一種、ヒロイズムに酔いしれていたのは否定できない。
だが。
「!」
その気持ちは、唐突に霧散した。再三になるが、硝子張りの壁はT字路の真正面に存在している。その壁に向かい合う形で、エミシは女性と話していたのだ。
つまり、左右にはまた別の廊下が伸びているわけで。
――今、何か、音が。
右の方。明らかに、足音のようなものが聞こえてきた。エミシは恐る恐る右の方へと首を向ける。
そして、見てしまうことになる。
「ひっ」
闇に染まった廊下の奥。
それよりも暗い、不自然に黒い人影が。真っ赤に爛々と輝く目で、こちらを睨んで立っていることに。
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