第5話・相談

「――!」


 がばり、と布団から飛び起きていた。最初に目に入ったのは、汗をたっぷりかいた自分の手と、見慣れたピンク色の毛布だった。


「はあっ……はあ、はあ、はあ」


 ぜえぜえと肩で息をしながら、杏樹は周囲を見回した。いつの間にか、ベージュのカーテンの向こうからは明るい陽射しが差し込んできている。自分がいつも作業する小さな机と、その上に乗っている青いパソコンがある。――いつもの己の部屋だ。何一つ変わらない、いつも通りの。


「ゆ、夢……っ」


 そう、夢だ。最初は夢の中でもそれがわかっていたはずなのに、途中からすっかり忘れていた。ひとまず、夢の世界から戻ってこれたことに心の底から安堵する。


「さ、最悪……」


 一人暮らしの部屋である。誰もいない、聞いていないのがわかっていてもぼやかずにはいられなかった。

 最低最悪の夢だった。屋敷に閉じ込められて、女性がリアルタイムで拷問されているところを見せつけられて、しかも自分も犯人に追われそうになっただなんて。奴が部屋から出てくるよりも前に目を覚ますことができて本当に良かったと思う。夢の中とはいえ、捕まって酷い目になど遭いたくはないのだから。


「あ、はは……わ、私の想像力もマジですごいっていうか、ほんと馬鹿にならないっていうか。これ、小説にしたら結構生々しくて怖いの書けそうっていうか、あはは……」


 自分を鼓舞するために、わざと笑いながら口にしてみた。しかし、悪寒がやむことはない。ユーチューバー、エミシの言葉が頭の中でぐるぐると回っている。




『男はいつの間にか、遠くにいる人間をも見つけて襲うという術を会得したようです!目をつけた人間を悪夢の世界に閉じ込めて、そこで捕まえて拷問するのだと……!そう、狙われるのは、自分のことを知ったすべての人間だと言われています。その中から、己が気に入った順に次々と人を浚うのです』





『私もいずれ危ないかもしれません。男に狙われて、悪夢の世界……うーんかっこよく名前つけたいですね、地獄の夢……獄夢ごくむの世界とでもしましょうか!その世界に引きずり込まれて、拷問されて殺されるのかも?恐ろしくて今夜眠れる気がしません』




 獄夢。

 地獄の、夢。

 確かに自分はあの動画を見た、まさにその晩に奇妙な屋敷の夢を見た。夢だとわかっていたのにやけにリアリティがあって恐怖を感じたのは事実だ。しかし、だからといって。


――な、ないない。ないってば。あれは、私があの動画を見ちゃったから、それでうっかり影響されてそれっぽい夢を見ただけで……!


 必死で自分に言い聞かせるものの、吐き気は止まらなかった。あれが、ありきたりな拷問だったならまだわかる。それこそアイアンメイデンの名前を出されていたことからして、あれにつっこまれて穴だらけにされる女性の夢なんかを見たならば、まさにそれらしいものを自分が想像したと納得できただろう。

 しかし実際は、謎の装置で関節をねじり切らて拷問される女性である。あんなもの、自分の力で本当に想像できるだろうか。本当に、あれが全て杏樹自身が作り出した夢?

 もし今夜、あの夢の続きなんかを見てしまったら。


「ど、どうしよう」


 杞憂だと思う。むしろそうであってなくては困るけれど。

 寝坊してしまったこともあって、時刻は既に八時を過ぎている。杏樹はそろりそろりと、枕元で充電器にさしっぱなしのスマートフォンに手を伸ばしたのだった。




 ***




「ああうん。そりゃそうだって」


 突然の呼び出しに応じてくれた友人の井口朝いぐちあさは、呆れたように杏樹に言った。


「もうすぐお盆なんだよ?お寺も神社も大忙しだってば。急にお祓いの予約なんか取れないわよ」

「うう、でも、三ヶ月後って言われちゃ……」

「ま、確かにいくらなんでも三ヶ月はないわーってあたしも思うけどさ」


 学生時代からの友人である朝は、雑誌記者をしている。それも、結構怖い系の類だ。仕事中だろうと思っていてダメ元で電話をかけてみたのだが、意外にもあっさり“すぐに行くわ”と返事をくれた。多分これも、取材の一環にするんだろうなということは容易く予想がつくが。

 本当は、怖くなって寺か神社にお祓いを頼もうと思っていたのである。何も憑いてないです、と言って貰えたらそれでいい。あれは自分が作ったただの夢だと安心することもできるからだ。が、そもそも見て貰えないのではどうしようもない。

 ネットで見つけた近場の寺や神社にかたっぱしから電話をかけたものの、殆どのところはいつまで過ぎても話し中。やっとつながった場所は、お祓いの予約が三ヶ月待ちか四ヶ月待ちだった。今すぐなんとかしてほしい身からすれば本末転倒としか言いようがない。

 で、やむなく。霊能力者とかではないが、こういうことに詳しそうな友人を召喚したというわけである。


「案外、あんたと同じ用件でお祓いに駆け込んだ人がいっぱいいたりしてねー」


 そしてその友人の朝は、カフェの席でレモンティーをちゅーちゅーと吸いながら言ったのだった。それも、随分呑気な口調で。


「だって、エミシの動画でしょ?さっきあんたが見たっていう動画の回転数確かめたら、もう百万回転超えてたわよ。いや凄いねー売れっ子ユーチューバーは。影響力マジぱないっていうか?」

「ああ、そっか。同じ動画を見た人はたくさんいるのか」

「そうそう。で、もし獄夢ってのが本当にあるなら、あんたと同じような夢を見た人がたくさんいてもおかしくないでしょ。で、その人たちがみーんな同じことを考えたなら、そりゃ……お祓いにも殺到するわよね?」

「ああああ……」


 思わず頭を抱えるしかない。朝がここまで詳しいということは、つまり。


「朝の会社でも、記事作ろうとしてます?もしや?」

「うん」


 あっさりと、既にオカルト雑誌記者として六年目になる友人は頷いた。


「だってうちに問い合わせ来てんだもん。獄夢、について何か知りませんかーみたいなの。雑誌としても息が長いし、オカルト系知識豊富だしね。そりゃ、何か知っててもおかしくないって思って編集部を頼ってくる読者もいるんだろうっていうか?」


 ただ、と彼女は首を傾げる。


「あたしはまだ、集団ヒステリーの線も疑ってんだけどね。だってさ、あの動画を見た人間が何人いると思ってんの?」

「え、そりゃいっぱい……でしょ?だから」

「ちーがーう。あたしが言いたいのは、少なくとも何万人見たってわりには影響力が少ないなってこと!見た人間全員が夢に浚われてたっていうなら、もっとネットとかで大きな騒ぎになってるはずでしょーが。あたしが見た限り、確かに獄夢の話をしてる奴はいたけど、実際に夢を見たって人間は動画を見た人間の数からするとまだ全然少ないのよ」


 言われてみればそうかもしれない。というのも、此処に来るまでの間に杏樹も、獄夢と拷問屋敷について何かわからないかと多少調べてはみたのである。すると、ツイッターやブログでそれっぽい話をしている人はいたが、そのほとんどが“本当に夢を見たら怖い”とか“夢を見たらどうしよう”だとか、そういう類のものだった。

 つまり、実際に夢を見てしまったんだけど、という声は極めて少なかったのである。昨日の夜になる前に動画を見た人があれだけの数いたはずで、一晩を多くの人が超えているはずだというのに。


「だから、集団ヒステリーかもしれないってこと?怪異にしては、実際に夢を見た人が少ないから」


 杏樹の言葉に、うんうん、と朝は頷く。


「けど、まだ怪異じゃないとも言い切れないかな。だってまだ、あんたが夢を見たのも一回だけでしょ?今夜夢の続きを見るとも限らないわけで」

「オカルト雑誌の記者なんかしてるわりに、朝って結構現実的だよね……」

「そりゃそうでしょ。むしろ、こういう取材してるとデマとかも多いんだって。あとは、科学現象だとかを人魂と見間違えたとか、廃屋から夜な夜な音がすると思って調べたら不良のガキどもがこっそり出入りしてたとか。意外と、ガチの幽霊とかの話って少ないんだなーってがっかりするわよ。あたしみたいに、ホラーが好きでこの業界に入った人間は特に」

「あはは……」


 そういえば、高校の頃から彼女とはちょいちょい一緒にホラー映画を見に行っていたが。隣でびびっている私に対して、彼女は見たあとで冷静に映画の内容を分析できてしまう人だった。あそこは幽霊二人がかりじゃなければもっと怖かったのに、とか。もう少しボンヤリした姿で出た方がリアリティあったのに、とか。実は、今でもあんまり幽霊を信じていなかったりするのだろうか。


「とりあえず、あんたに何かあっても寝覚め悪いからさ。あたしの知り合いの霊能者に、話聞いて貰えないかって相談してあげるわよ」


 アイスレモンティーをすっかり飲み切った朝は、まだ全然手をつけられてない杏樹のカフェラテを見て苦笑いする。


「ほら、せっかく冷たいの頼んだんだからさっさと飲んじゃいなよって。……あと、あたしが引っかかってるのは、ユーチューバーのエミシだよ。本来、真っ先に獄夢に浚われてもおかしくないはずなのに、まだ見てないっぽいでしょ?エミシの動向をチェックしとくと、ヒントも見つかるかもよ?」


 それはごもっとも。

 杏樹は慌てて、自分のスマホを取り出したのだった。

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