第4話・捻転

 さっきから通り過ぎるドア通り過ぎるドアみんな鍵がかかっていて入れなかったのだが、そのドアは少しだけ様子が違っていた。

 というのも、上部に硝子の窓がついていて、中が覗きこめるようになっていたのである。


――な、何?この部屋?


 そこは、床がお風呂のようにタイル張りになっている奇妙な部屋だった。奥には排水溝のようなものもあるし、水道の蛇口のようなものも見える。シャワールームなのか、と最初は思ったがシャワーらしきものはないし、そもそもこんなところに中から覗きこめるシャワールームがあるなんて変だ。

 何より、何もない部屋の中心に、ぽつんと置かれている異物が目立つ。

 それは、十字架のように組まれた板に磔にされている女性だった。彼女は両手両足や腰、首などの様々な場所を黒光りする手錠で固定されている。その全てが、彼女の後ろにある大きな機会にパイプで繋がっているようだった。

 女性はまだ二十代前半かそこら、杏樹よりも年下であるように見える。猿轡をされ、目にいっぱい涙を貯めながら何かを訴えているようだった。


「んんんん、んんんんんんん!」


 そしてその前に立っているのは――謎の黒い影。

 部屋の中は、月明かりで照らされている。窓が大きいこともあって、闇に慣れた目からすれば中を確認するのはけして難しいことではなかった。そう、女性の前に立っている人物も、明かりの中でもう少しはっきり姿が見えて然るべきであるはずなのである。

 ところが、その人物はまったく顔が見えない。

 否、顔だけではない。髪型も、服装も、性別さえまったくわからないのだ。体格や体型からして成人した男だろうとは思うのだが、それだけである。不自然なほど男の姿だけが、真っ黒に塗りつぶされていて見えない。まるで、黒い光でも発しているかのように。


――な、何あれ。何しようとしてるの?


 黒い男(?)はゆっくりと女性の口元に手を伸ばす。そして、猿轡を外しにかかった。女性は口が自由になると、すぐさま声を発して助けを求める。


「お、お願い、やめて!助けて!」

「…………」

「わ、私、本当に何もしないから!た、ただちょっと拷問の屋敷に興味持っちゃっただけなの……それで少し調べただけ!村にも自分から行こうとしないし、警察に通報しようとか、お祓い呼ぼうとか全然しない!しないからお願い、許して!」

「…………」

「し、死にたくないの、お願い。こ、怖い、怖いの、お願い、やめて……」

「…………」

「やめて、やめてよお……」


 いくら訴えても、影が何か言葉を発することはない。命乞いをしてもまったく意味がないと気づいたのか、段々と女性の声はすすり泣きに変わっていった。


――ご、拷問の屋敷って言ったよね今……!?ま、まさか、本当に?


 いや。まだこれが、自分があの動画に影響されて見ているだけの普通の夢という可能性もある。否、そうであってほしい。そうだ、ちょっと妄想が逞しいだけなのだ。だって漫画とか動画とか大好きだし、ホラー映画も見たし、酔っぱらって寝たのだから悪夢を見てもおかしくはない。

 誰が聞いているわけでもないのに、杏樹は必死で自分に言い分けをする。が、そうこうしているうちに部屋の中の状況は動いていた。黒い影が、その手に何かを持っていることに気づいたのである。

 それは、リモコンのようなものだった。テレビのリモコンなどでないのは明らかである。彼が何かボタンを押した途端、女性の後ろの機械が大きな音を立てて動き始めたのだから。


「な、何するの!?や、う、腕がっ……」


 異変はすぐに始まった。彼女の左手首のあたりからぎぎぎぎ、と機械が動く音がし始めたからである。彼女の腕は手首から先もがっつりと固定されている。五本の指は、機械の手袋のようなものに通され、前腕部分、上腕部分もまたぴったりとした黒い鋼の装置でがちがちに固められているようだ。

 その、黒い鋼の手袋が、掌部分を固定した台座が回転し始めたのである。下回転だ。彼女の掌を下に向けて、さらに裏返すように。

 だが、彼女の上腕、前腕は共にがっしりと固定されている。一切動く気配はない。つまり彼女はその回転に、手首だけで対応しなければいけないのである。

 無論、人間の手首は、上下に動かすことは得意でも左右に回転させられるようにはできていない。全体の可動域もたかが知れている。そのように固定されたまま回転していけば、何が起きるかは必然で。


「痛い痛い痛い痛い!て、手首がちぎれちゃう、やめて、やめてええええ!」


 杏樹はぞっとした。その装置がどういうものか理解したからだ。

 あれは、彼女の関節を機械の力でねじって破壊するためのものだ。彼女は今まさに、手首をひきちぎられそうになっている!


「いやあああああああああやめてやめてやめてやめて!ごめんなさい、許して、許して、ゆるしっ」


 ぼぎり。

 終焉はあっさりと訪れた。彼女の喉から、引き絞るような絶叫が溢れだす。手首が360度回転させられた。関節の骨は砕け、筋は引きちぎれ、肉は潰れ、まともな機能が失われている。

 それは、機械が彼女の手首から先を解放したことで明確となった。ぶらん、と、皮一枚で繋がる女性の手首。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 彼女は全身をがたがたと震わせながら、激痛から逃れようと暴れる。ミニスカートを履いた股間部分が、じわり、と色を変えるのを見た。ぼたぼたぼたぼた、とあまりの苦痛に失禁した雫が彼女の足を伝い、床に黄色い水たまりを作っていく。


「腕が、わ、私の腕、腕っ……」

「…………」

「いやああああああああや、やめて、お願い許して、許して!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」


 男の手が、ふたたびリモコンを動かす。次に機械音が鳴り始めたのは、彼女の右手首だった。人間の体は、杏樹が想像する以上に脆かったというのか。あるいは、それだけ装置のパワーが大きなものだったというのか。

 ぼくん、ぶちり。嫌な音とともに、今度は彼女の右手首がだらん、と千切れかかった状態で垂れ下がる。ふぎゅうううう、と彼女は踏み潰された蛙のような声をあげて喉を逸らせた。


「いだい、いだ……もうやだ、だずげで、おねが、もう」

「…………」

「もういだいのやだ、ごろじで、ごろじ……」


 びくびくと痙攣させながら、さっきまで死にたくないと言っていた女性は殺してと懇願してくる。杏樹が想像できるより遥かに耐えがたい苦痛が彼女を襲っているということらしい。

 ぶくぶくと泡を吹く彼女の顔は、涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになり、血の気も引いて真っ青になっている。人間は、あまり長く強い痛みに耐えられるようにはできていない生き物だ。血が出ていないので大量出血による死亡はないだろうが、激痛によりショック死というのは大いにあり得るものである。

 それがわかっているのか、男はポケット?らしき場所から何やらケースを取り出して開いた。そして、注射器を取り出すと、彼女のちぎれかけた右手首の根元あたりに押し当てる。

 そしてじゅううう、と押しこまれるなんらかの液体。安楽死させるためのものや麻酔でないのは明らかだった。その液体が注射されてなお、彼女はうわごとのように痛い、殺して、を繰り返し続けたのだから。


――強心剤、とか?……どれだけ苦しめて殺したいんだこいつ……!


 少しでも長く、獲物が苦痛に満ちた生を楽しむようにということだろうか。あまりにも常軌を逸している。しかも男は、空になった注射器をぽいっとその場に捨てると、再びリモコンを取り出してスイッチを入れたのだ。今度音が鳴り始めたのは、彼女の足元からだった。ゆっくり、ゆっくりと左足首が回転を始めている。


「いやあああああ、も、もういやああああ!痛いのいや、痛いのいや、いや、いやああああああああああああああああああああああああああ!」


 ごきり。ぶちぶちぶちぶち。


「もうごろじで、おねがい、ごろぢでよおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


 ぼくり。ぎゅちぎゅちぎゅち。

 左足首が砕け、あらぬ方向にねじまがるやいなや。今度は休ませる間もなく、右足首も同じようになった。女性は白目を向き、足を尿のみならずどろどろとした茶色の固形物までもで汚している。白目をむいて意味不明な呻きを漏らすばかりになった女を見て頃合いと感じたのか、今度は彼女の下半身そのものが動き始めた。

 つまり、下腹部から下が、ゆっくりと反対向きに回転し始めたのである。彼女の上半身と下半身をねじりきろうとしているようだった。


「ひぎゅ、ぎゅ、ぎゅううっ」


 バキリ!ぶちゅううううううううううう!

 手足を破壊した時とは比較にならない、おぞましい轟音が鳴り響いた。腰骨や背骨が、力技で砕ける音。同時に、彼女の腹の中で内臓がねじられ、肉と混ぜられて引きちぎられるような音が響いた。彼女の尻だったものが、完全に真正面を向いた時。涎に塗れていた口から、彼女はどろどろとドス黒い血液を漏らして体を痙攣させていた。


「だ、だず、だずげ、だ」


 なんて恐ろしいことなんだろう。彼女はまだ、死んでいないというのか。そういえば、上半身と下半身で真っ二つになっても人はすぐに死なないことがあると聞いたことがある。


――あ、ありえない。ありえない、こんなの、こんなこと……!


 がくがくと震えるしかない杏樹。瀕死の女性に飽きてきたのか、それともようやく気配を察知したのか。黒い影らしきものが、ゆっくりとこちらを振り向くのが見えた。


「!!」


 頭も、首も、胴体も、手足も黒いその人影の中。唯一見えたのは、頭の中心にぎょろんと蠢く、真っ赤な一対の眼球である。

 人ではない者の目が、今。はっきりと、ドアの外から室内を覗いていた杏樹を捉えていた。


――に、に、逃げなきゃ、逃げなきゃ!


 本当に怖い時、人は声も出せなくなるのだと知った。がくがくと震える足を叱咤して、後ろに下がる杏樹。ゆっくりと人影が、ドアの方に歩いて来るのが見えた。


――い、いや、いやいやいや、いやああああああああああああああ!!


 そして。パニックを起こしながらも、どうにか杏樹はその場から逃げ出したのである。

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