第5話
気がつくと、僕は家の前にいた。
空はさっきよりもその赤みを増し、壁も屋根も自分自身も、まるで鮮やかな血のように世界を真赤に染めている。
ふらふらと玄関を開ける。声を出す気力もなく、僕はその場に座り込んだ。すると、扉の音を聞いてなのか母さんがリビングから玄関に出てきた。
「遅かったじゃない。なにしてたのよ」
「うるさいな……」
能天気な母さんの声につい苛立ってしまう。こっちはさっきまであんな怖ろしい目にあっていたのに——。直接八つ当たりする代わりに靴を乱暴に脱ぎ捨て、二階の自室に上がろうとすると、母さんに止められた。
「そうそう、今あんたのお友達が来てるわよ」
「友達?」
「ええ、今あんたの部屋で待ってもらってるから」
「誰だよ?」
「新条まなみさんっていう可愛らしい女の子よ」
思考が停止した。
新条まなみが、僕の部屋に来ている?
「あんな素敵なお嬢さんと知り合いなんて、あんたも隅に置けないわねぇ——」
母さんの言葉はもう僕の耳に届かない。僕は知らず二階の自室の扉に視線を向けた。
夕闇に沈む薄暗い二階の廊下の先、ぴたりと閉められた僕の部屋の扉。
その扉が。
ゆっくりと。
開いていく————。
その様を見るや否や、僕はわけのわからない事を叫びながら家の外へ素足のまま駆け出した。とにかく逃げなきゃ、あれから逃げなきゃ。もうそれしか考えられなかった。
どれくらい走っただろう。気がつくと僕は、小さな公園に来ていた。
空は間もなく夜に差し掛かろうとしている。夜闇の中、ほのかに残る夕日の残滓が木々の影を一層濃く映し出している。
走り疲れて足はもう棒のようになっていた。しかも素足で走ったものだから、あちこち切ってしまったのだろう、足の裏からは血がにじんでいた。
僕は倒れるように目の前にあるベンチに座り、乱れる息をゆっくりと整えた。喉はカラカラに乾いて、息を吸うたびに空気の通り道が張り付くような感じがする。
走り疲れて頭が少しおかしくなっているんだろう、面白くもないのに僕の口から自然と引きつったような笑いが漏れ出した。逢魔が時の公園に、乾いた笑い声がこだました。
少し休んだら家に帰ろう、きっと母さんも心配している。帰って夕飯を食べて、ベッドでゆっくり寝よう。そういえば昨日は全然寝られなかった。これだけ走ったんだから、きっとぐっすり寝られるだろう……——。そんなとりとめもない事を考えながら、僕はベンチの背もたれにもたれかかった。
不意に、視界が遮られる。
さっきまで夕闇の中にはっきりと公園が見えていたのに、突然真っ暗闇になってしまった。まるで、誰かに手で目を隠されたみたいだ。
「捕まえた」
背後から、熱のこもった吐息が吹きかけられる。溶けてしまそうなほど熱いその吐息は、何故か全身を凍り付かせ、僕は指先すら動かせなくなった。
「ねえ、覚えてる? ここ、この前来た公園だよ」
耳にかかる吐息はどこまでも甘ったるくじっとりとねばついている。なにか得体の知れない薬を耳から注がれているような錯覚を覚える。思考がどんどん濁り、白濁としていく。
「ここで私を抱きしめながら君が言ってくれたよね。好きだよって。愛してるって……」
混濁する意識の中で、助けを呼ばなきゃと声を出そうとした。しかし、喉から声が出る事はなく、ひゅーひゅーというか細い息遣いの音がわずかに出るだけだった。
「すっごく嬉しかったなぁ。こんなに愛されて、幸せだなって思ったの。もう絶対に離れたくないって、ずっと君と一緒にいたいって……そう思ったの」
彼女の言葉が耳に入るたび、鼓動が早くなる。全速力で走った時より、さらに早く……まるで、全身の血液をすべて消費しているみたいに。
「だからね、ずっと一緒にいよう? 私と二人きりで、ずーっと。そうすれば、君が他の女の子に目移りすることもないもんね。二人だけの、誰もいない世界……」
そこまで言い終えると、彼女は僕の耳にぬらぬらと濡れる唇を押し当て、一際大きく息を吸い込んだ。真っ暗闇の中、僕の意識が、彼女の中に吸い込まれて行くような気がした。彼女と一つになる——。そう思った時、心臓が一際大きくどくりと脈打ち、それきりぴたりと動かなかくなった。身体はどんどん冷たくなり、もはや身を震わせる事も出来ない。
誰かが僕の身体を優しく抱きしめる。もう目の前は真っ暗で何も見えないけど、確かに彼女はそこにいる。
触れ合う頬は氷のように冷たく、砂のようにざらりと乾燥していた。
「まなみ……」
薄れゆく意識の中で、僕は彼女の耳元でその名を呼んだ。
彼女は僕の存在を確かめるように一層強く抱き絡みつき、熱く爛れきった吐息を吹きかけながら、僕の耳にささやいた。
「君の事好き。大好き。愛してる。ずっと、一緒にいてね……」
妄想彼女 飛烏龍Fei Oolong @tak-8
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