第4話
結局一睡もできないまま朝になった。学校を休みたかったが、母さんが許してくれるはずもない。僕は携帯を持っていく気にもなれず、部屋に転がしたまま憂鬱な気持ちで学校へ向かった。
学校に着いても昨日の事で頭がいっぱいだった。授業なんて全然耳に入って来ない。
昼休みにいつものメンバーが話を聞きに来たが、思い出したくもないので適当に言い訳して逃げ出した。誰とも話す気になれず、放課後はさっさと荷物をまとめて、そそくさと教室を出た。
校門を出てしばらく歩いていると、後ろから声をかけられた。
「ねえ、ちょっと!」
「ひっ! な、なんだ。斎藤さんか……」
「はあ? なにそんなビビってんの? ウケるんだけど」
まったくウケていないような口調で言いながら、斎藤さんは僕のほうに近づいてきた。
「ご、ごめん……。何か用?」
斎藤さんは学生鞄から携帯を取り出すと色とりどりに塗られた長い爪で器用に操作し、何かを高速で打ち込みだした。
「いやなんか、今日全然元気なさげだったし、どしたん? と思って」
「ああ、うん……」
妄想で作った彼女から連絡が来る、なんて言えるわけもない——。小さくため息をつきながら、僕は力なく俯いた。
「もしかして、カノジョと喧嘩した?」
相変わらず携帯に視線を落としたまま、斎藤さんは続けてそう言った。
「えっと……まあ、そんな感じ……」なんと言えばいいか分からずあいまいに相槌をうつ。
「やっぱりー! 恋人と喧嘩すると、マジでテンションガン萎えだよねぇ、わかるー」
「はあ……」
「ちょっ! マジムカつく!!」
突然の大声に視線を上げると、斎藤さんは携帯の画面をものすごい目で睨んでいた。
「ど、どうしたの?」
「カレシが今日のデートすっぽかしやがった。忘れてたとかマジありえねぇ」
彼女はそう言いながら、さっきよりもさらにすごい勢いで何かを打ち込み、そのままの流れで乱暴に携帯を鞄に投げ入れた。
「ああ~、マジさがる~。せっかく今日メイクもばっちりキメて、下着もおニューのやつ着けて来たのにー!!」
「ざ、残念だったね。それじゃ、僕はこれで……」
不機嫌そうに天を仰いで騒ぐ斎藤さんをしり目に、僕は再び歩き出した。触らぬ神にたたりなし、今僕が何か言っても、彼女の怒りがさらに増すだけだろう。
僕が帰り道に向かおうと少し進んだところで、後ろからぐいっと腕を掴まれた。
見ると斎藤さんが釣り目気味の目をさらに吊り上げてこちらを睨んでいる。本人曰くメイクばっちりのその顔は、怒りとメイクの力が融合してそれはもうとんでもない迫力だった。
「テメエ、なに勝手に帰ろうとしてんだよ」
「いや、僕にできる事もないし、そっとしておいた方が良いかと思って……」
「は? 落ち込んでる女の子置いてくとかマジありえないんだけど。そんなんだから童貞なんだよ」
「ど、童貞は関係ないでしょ!」
「じゃあ違うっての?」
そう言われて思わず黙ってしまった。確かにそうかもしれない。しれないがそれを認めるのはどうにも悔しかった。
斎藤さんは僕の答えなんて待たずに続けた。
「アンタもカノジョと喧嘩してもやもやしてんでしょ? ならちょっとアタシに付き合えよ」
「つ、付き合うって?」
「むしゃくしゃした時は、ぱぁーっと遊んでいやな事忘れるしかないっしょ!」
言うが早いか、斎藤さんは僕の手を掴むと、帰り道とは逆方向にずんずん歩き出した。
僕は初めて現実の女の子と手を繋いだことにびっくりしながら、引きずられるように彼女の後を追った。掴まれた彼女の手は、とても温かかった。
それから僕は、斎藤さんの後を追うように色んな所を周った。
僕が普段いかないようなおしゃれなパンケーキ屋さんや、ファンシーグッズショップ。
途中ランジェリーショップに入っていってしまい、どうしようかと店の外でうろうろしていたら店に入っていくお客さんからものすごい目で見られた。
ゲームセンターでは「アンタこういうの得意でしょ」という偏見に満ちた理由でプライズコーナーをうろうろした。僕が得意な筐体で彼女が好きだというキャラクターの人形を取ると、思いのほか喜んでくれた。
「これ前から欲しかったんだよねぇ。ありがとー! 大事にするわ」
女の子から感謝された事なんてなかったので、思わずニヤついていたら斎藤さんから「キモっ」と言われてしまった。
目が回るほどせわしなく色んな場所を巡っている間に、僕はまなみとの出来事を、ほんの少しだけ忘れる事ができた。
気がつけば空も茜色に染まり始め、街も夜へ向けての準備が始まりだした。僕と斎藤さんは並んで帰路に着いていた。
「はあ~! めっちゃ遊んだらマジすっきりしたー!」
「そ、そうだね」
「アンタも多少気分まぎれたっしょ?」
「うん、だいぶ楽になった」
「でしょー!?」
斎藤さんは満足そうに笑う。実際、だいぶ心が軽くなった気がする。朝の重たい気持ちが嘘のようだ。誘ってくれた斎藤さんには感謝しかない。
僕は斎藤さんにお礼を言おうとした。その時——。
ぴんぽんぽんぽんぽん、ぽろん
あの音が聞こえてきた。
僕は思わず立ち止まり、鞄の中を漁った。しかし携帯は家に電源を切って家に置いてきているのに、どうして。
焦っている僕の横で、斎藤さんが携帯を取り出しディスプレイを見た。
「は? まなみって誰?」
その言葉に僕は自分の耳を疑った。なぜ名前も知らないはずの斎藤さんからあいつの名前が出てくるんだ。斎藤さんはいぶかしそうにしながら携帯を操作し、耳に当てた。
「誰? ……はあ? いるけどなんで知ってんの? ……てかまず名乗れし!」
苛立ちのせいか語気がどんどん強くなってくる。そして、小さく舌打ちをしてから携帯を僕の方へ投げてよこした。
「これ、アンタの彼女? アンタに代われって」
斎藤さんはそれだけ言うと、不機嫌そうに少し離れた場所へ行ってしまった。僕は震える手を必死で抑えながら携帯を耳に当てた。
「今日はずいぶん楽しそうだったね」
電話越しのまなみの声は、変わらず優しく穏やかだ。しかし、その奥に重く冷たいものが明らかに見える。まるで背筋に冷水を流し込まれたように、すーっと血の気が引いていった。
「私以外の女の子とあんなに楽しそうに遊んでる君はじめて見たから、驚いちゃった」
間違いなく、まなみは怒っている。僕も知らない彼女の声色が僕の耳に突き刺さる。
「いつ、から……」
「ずっとだよ? 君が学校を出て、あの子に呼び止められた時からずーっと」
まなみの声がどんどん低く、重くなっていく。身体はがくがく震え、歯が全然かみ合わない。
「でもその子、君の好みとずいぶん違うね? どっちかって言うと苦手なタイプのはずなのに、どうしちゃったのかな?」
「斎藤さんは、違うんだ……」
「へえー、斎藤さんっていうんだ! 名前も覚えちゃって、もうすっかり仲良しなんだね」
「彼女は関係ないんだよ!」
思わず叫んでいた。こいつが何をしようとしているかはわからない。でも、絶対に怖ろしい事になる。そう思った。
僕が叫んでも、電話の向こうは不気味なほど静かだった。静寂の中で、まなみはくすくすと嗤いながら言った。
「そんなに怒らなくても大丈夫。斎藤さん? には何にもしないよ。でも、あんまり君がその子にデレデレしてると、ちょっとやきもち焼いちゃうな」
「ふざけるな! どこで見てるんだ! 姿を見せろよ!!」
僕は無我夢中で辺りを見回した。見つかるはずはないとわかっているのに、そうせずにはいられなかった。
「私はいつも、君のすぐ側にいるよ。すぐ側に、ね……」
耳元の声が頭の中をぐるぐると回る。どろりとした何かが耳から脳みそに入り込み、中を好き勝手に這いまわっているみたいに感じる。僕は耐えきれずその場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫? そんなに怖がって、かわいそう……」
「もう、許してくれ……」
「安心して、今、私が起こしてあげるね」
その瞬間、何かが僕の肩をがっと掴んだ。
今まで我慢していたものがはじけ飛び、僕は携帯を地面に投げつけると、泣き叫びながら駆け出した。
背後からは誰かが「おい! 待てよ!」と呼び止めているような気がしたが、振り返る事は決してしなかった。
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