夢に溺れる
四葉 六華
夢に溺れる
──嗚呼、夢ならば、見なければ良かったのだ。
★
俺の家はマンションの5階にある。玄関からリビングの間にドアはなく、リビングにあるドアは直接個人の部屋や浴室、トイレに繋がっている。大家さんによると、廊下をなくしてその分部屋を広くしたとのことだ。
俺は玄関に居た。横には妹が自由研究で獲った賞状が額縁に入れられ壁に掛けられていて、自分の家だとすぐにわかった。いつものようにリビングに進むが、暗くて誰も居ない。壁のスイッチを押してみたけれど、電気はつかなかった。
リビングにはテレビと食卓と、椅子が四つある。それから、昔金魚を飼っていた水槽。水槽の中には墓があって、金魚を弔っている。あまり見たくなくて、水槽から視線を逸らした。
机の下に何かが転がっていることに気が付き、右手を伸ばして取る。それは懐中電灯だった。かちりとスイッチを押すと、ライトが点く。しかし、そろそろ電池切れが近いのか、点いたり消えたりする。それでも無いよりはマシだと思い、懐中電灯を片手に自分の部屋の前に立った。
俺の部屋は左奥のドアの向こう。懐中電灯を左手に持ち替えて、ドアノブを回した。そのとき、なにか不自然だと感じたが、それがなにかまではわからなかった。
ドアをゆっくりと開ける。少しずつ部屋の中が見えてくる。部屋はやっぱり暗くて、ぼんやりとしかわからない。それでも、いつもどおりの自分の部屋であることはなんとなくわかった。
ドアを開けきって、部屋の中に入る。部屋は教科書やノートで散らかっていた。歩くたびに紙を踏みつけた。
壁には妹からもらった俺の似顔絵を飾っている。にっこりと笑っているその顔が好きだった。
机の上には、下部が少し膨らんだ封筒が置いてあった。開け口は蝋で封がしてあって、凸凹としていた。封蝋には犬が描かれていた。
ハサミで上を切り、封筒を開ける。中には一枚の便箋があった。便箋には、「さよなら」と、液体──血で書かれていた。
封筒を逆さまにすると、立体物が机の上に落ちた。それは、自分の、
中指だった。
懐中電灯を握っている手を見ると、たしかに中指がない。さっき感じた違和感はこれだったらしい。思わず懐中電灯を落とした。悲鳴は聞こえなかった。
部屋をよく見ると、壁一面が刃物のような金属のものに変わっていた。壁の一部がめくれていて、サメの歯のように鋭く飛び出していた。銀に光っているその面は黒く汚れていた。何かを壊されたような気がした。
自室を飛び出すと、さっきまで何もなかったリビングの机の上に折り紙があることに気がつく。四つ葉のクローバーの形のそれは、ずっと前に妹が俺の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。それを丁寧にポケットにしまうと、キッチンに誰かが居るのが見えた。近づくと、足音に気づいたのかその誰かが振り向く。見知った顔に姿かたち。なんだかあさんか、と安堵したのも束の間。
かあさんが恐ろしい形相で向かってきた。髪を振り乱し、前へ前へと伸ばしてくる両手の五指は突き出されている。まるで恨みがこもっているかのようだ。口を大きく開けていて、真っ白な歯が見える。目の部分には何もなく、闇が詰まっているかのようだ。顔がおかしいのに服はいつもの白いワンピースにチェック柄の赤いエプロンだというのがとても怖くて、ヒッと情けない声を漏らした。
慌てて玄関までいき、靴をつっかけて外に飛び出す。エレベーターを待っている暇はなく、階段を駆け下りた。足音は聞こえなかった。
外は暗く、街灯が夜道を照らし出している。あてもなく歩道を歩いていると、また足音が聞こえた。振り向くと、今度はとうさんが追いかけてきていた。顔は恐ろしく歪んでいて、目の部分が黒いクレヨンか何かでぐちゃぐちゃに塗りつぶされているかのように感じた。鞄を片手に持ち、帰りがけのようだった。服はスーツだが、ネクタイは乱れ、ジャケットを着崩している。鞄を持っていない手はかあさんと同じように突き出されていた。
本能が警鐘を鳴らす。捕まってはいけないと、直感で察した。
必死に逃げるが、何時まで経っても振り切れない。角を曲がり、見えたスーパーの売り棚の影に身を隠す。とうさんはスーパーの前を横切り、明後日の方向に走っていった。
一息ついて、立ち上がる。スーパーには誰もおらず、商品もあまり無かった。電気もついていない。活気のないスーパーの外に出るが、やはり帰る場所はない。元々あの家に居るのを許されていたのは、妹のおかげだった。
また、夜道を歩く。道の傍らに見えるのはゴミ捨て場だ。夜にゴミを出すのは本当は駄目なことなのだが、そのゴミ捨て場には既に物があった。
ゴミ捨て場には、ペンチと乾電池、幼い頃に遊んだゲーム機が捨てられていた。懐かしくて思わずしゃがみこみ、手をのばす。しかし電池が切れているようで点かなかった。充電式のゲーム機は、乾電池では点かない。乾電池をポケットに入れ、ゲーム機を持ち帰ろうとする。妹もやりたいと言っていたことを思い出したから。
いつからか傍らに浮かんでいたしゃぼん玉が、ぱちんと弾けた。
『ゲームばっかしてないで勉強しなさい』
かあさんの声がする。仕方なく、ゲーム機を手放した。代わりのように、ペンチをポケットの中に突っ込む。
小さく、さよなら、と呟いて、ゴミ捨て場に背を向ける。
歩き始めた俺の後ろで、何かが壊れた音がした。
いつの間にか、マフラーとコートを身に着けていた。
家族で行った動物園。図鑑で知っては居たけれど、キリンが想像よりずっと大きくて感動したことを覚えている。手を伸ばしたら、触ってはいけないよと諭されたっけ。
妹はペンギンが好きで、動物園でも水族館でもペンギンを見ていた。誕生日にペンギンのぬいぐるみを渡したとき、とても喜んでくれたのを覚えている。
ペンチで動物園を取り囲むフェンスに穴を開けて中に入ると、あの日見たキリンが暴れていた。檻を攻撃し、痛そうにしながらも出たがっている。人間用の扉からはとてもじゃないが出せそうにない。
仕方なくキリンを宥め、落ち着かせると、またしゃぼん玉が弾けた。
『私立は受けるな。学費が高いんだから』
とうさんの声。わざわざ取り寄せた資料を取り上げられ、捨てられた。
キリンに背を向けて、別れを告げる。汽笛のような低い鳴き声が聞こえてきた。それでも、俺は振り向かなかった。
また一つ、何かが壊れた音がした。
風景が変わって、服も学校の制服になった。
授業中なのに、廊下を歩いている。先生たちの声が教室から漏れて聞こえる。あの先生は教えるのが上手くて、この先生は下手で。だから、その先生が教えている教科はよく質問された。
『教えるの上手いね! 教師になったら良さそう』
自分のクラスを通りかかったとき、そんな声が聞こえた。自習の時間だった。
自分の声を聞きたくなくて、耳を塞ぐ。なんて答えたかは知っていた。それは昔のことじゃなくて、もっと最近のことだったから、覚えていた。
しゃぼん玉が浮かんだ。消そうと手を伸ばすと、しゃぼん玉の中に風景が映っているのが見えた。
リビングの机に妹が座っていて、なにか問題を解いている。その隣で、俺は問題の解き方を教えていた。わかんない、と嘆く妹に、問題を噛み砕いて説明していた。
──その日、親は居なかった。確か、商店街の福引でペアチケットを当てて、温泉旅行に出かけていた。彼らはいつもそうだった。ペアなら夫婦で、三人なら妹を連れて。余分が無ければ、俺は、俺らはずっと放って置かれていた。
彼らは子供を愛さなかった。ずっと自分たちの世界に閉じこもっていた。
世間を気にしないのは正しいことだったが、子育てだけは間違っていた。
彼らにとって、俺らは道具だった。自分たちの幸せを手に入れるために、俺らを使っていた。俺に良い高校、良い大学に行くことを強要し、妹をあちこちに連れ回した。妹は、異常に運が良かったから、連れて歩けば絶対に事故には遭わなかった。
風景を見ているうちに、しゃぼん玉は俺の手に吸い付いた。しゅるりと身体の中に吸い込まれる。
ドクリと心臓が音を立てて、気持ち悪い感覚がした。自分が自分じゃなくなる感覚。自分自身を否定される感覚。
自分自身が壊れた音がした。
周囲が変わる。巨人のように俺を見下ろす先生、キラキラとした目で見上げてくるクラスメイト。廊下はいつの間にかステージになっていて、俺は壇上に立っている。
逃げ出したいのに逃げられない。俺を刺すように全員の目線が集中する。
嫌だ、嫌で、壇上から降りたいのに、身体は一向に動かない。それならば、いっそのこと殺してくれたら良い。誰かの言いなりになるなんて嫌だ。
殺して、ころして、コロして──……
ハッと目を覚ます。足元は砂利で、服は家を出たときと同じものになっていた。顔をあげると、石で作られたものが規則的に並んでいる。黒く深みのある、つるつるとした石。
墓地に来ていた。
入り口に置いてあった線香とライターを拝借し墓へ向かう。他の墓が黒い石でできている中、一つだけは可愛らしい墓があることに気がつく。
それは妹が作った墓だった。死んでしまった金魚の墓。妹が手作りした墓には、マッキーペンで「すみれ」と金魚の名前が書かれていた。それは妹の名前と同じだ。
手向け代わりに線香を供え、四つ葉のクローバーの折り紙を切り花代わりに添える。するとどこからか水音がした。
景色が変わる。
ぱしゃんと音がする。汚れた水槽の上から、自分が覗き込んでいた。
俺の手で餌がばらまかれる。食いつくが、食べきれないほどの餌が水槽に浮かんでいた。餌はやがて水を汚し、エラに入っていく。いきができなくて暴れるが、このとき家に居たのは俺一人だけだった。苦しくてもがいて、ヒレをばたばたとさせる。
やだ、嫌だって示したって、自分ではどうにもならない。結末を知っていても、俺は足掻くことを強いられた。足掻いていた「すみれ」を見ているから。
そのうち力も入らなくなって、水槽の底に落ちる。呪うように俺を見た。
水で歪んだ俺の目も、ここには居ない誰かを呪っていた。
ばしゃりと水をかけられる。生ぬるい感覚がした。
前を見ると、赤く光った「すみれ」が居た。宙に浮かびキラキラと輝く「すみれ」は、俺を睨みつけると、尾を長く伸ばして俺の首を締め付けた。思わず首を触るが、そこには何もない。じわじわと首を圧迫されて、いきが詰まる。は、と、いきを吐き出すと、さらに苦しくなった。酸素を取り込もうと空気を吸うが、口の中に入ってきたのは水だった。
だんだんいきができなくなっていく。
目の前がぼやける。「すみれ」の形もわからなくなって、体の力が抜けた。
目の前に赤い光がキラキラとして、瞼を閉ざされる。それに抗えず、俺は意識を落とした。
☆
ポケットに入っていた乾電池が、カランと音を立てて地面に落ちた。
どこか遠く、再生されなかったレコーダーは、その音を永久に封印した。
ただ、そのレコーダーを再生したとしても、何も変わることはなかっただろう。
☆
『お昼のニュースです。──県──市在住の、
「あら、またニュース見てるの?」
「おかーさん、見て! あたしと同い年なのに死んじゃったの」
「あら……お若いのに」
女性はテレビを見ていた少女の隣に座ると、テレビに視線を向けた。
『遺体は浴室で発見され、栄君は洗面器に顔をつけた状態で、すみれちゃんは浴槽に沈んだ状態で発見されました。日記によりますと、栄君は志した夢を両親に否定されうつ状態になっていたようです。また、飼っていた金魚を殺してしまったこともうつ状態を進行させた原因であるとのことです。すみれちゃんは自分だけが親に優遇されていることに疑問を感じていたようで、日記にはそのことが書いてあるとともに兄に依存しているような言動も記されています。日本の法律には差別罪というものは存在せず──』
「おかーさん、さべつってなーに?」
「誰かを……そうね、例えるなら、みぃちゃんは泥棒しても許されるけど、お母さんは許されないみたいなことよ」
「ドロボウはいけないことだよ!」
「ふふ、そうね。けど、それをしても許される人が居たら駄目でしょう?」
「うん! ドロボウはいけないことだもん!」
「泥棒をしても許される人が居ることが”差別”……同じじゃない、平等でないって言うのよ」
「へー!」
おそらく理解していない我が子の顔に女性は苦笑し、少女の頭を撫でた。
もうそろそろ兄が帰ってくる頃だろうから、玄関を開けておかなくちゃ、と女性は立ち上がる。再びテレビに視線を戻した少女をちらりと見て、女性は玄関へと向かった。
それは、日常の一コマにすぎない、とてもとても幸せな光景だった。
誰もが夢を見たとして、誰もが夢を掴めるわけではない。
現実を見ることを強いられるか、夢を諦めず馬鹿にされるか。
現実を受け入れ、そして夢を願った少女。
現実を受け入れられず、夢に願った少年。
どちらにしても、その心は夢に溺れていたと言って差し支えない。
そして、それが夢だろうが現実だろうが、
誰かに知られなければ、何をしたって無駄なのだ。
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