第35話 ウサギを連れて



 同じ日の午後、突然家の電話が鳴って、受話器をとったら槇さんだった。

「もしもし、灯の従業員の槇です。杏さんいらっしゃいますか。ちょっと力仕事で人が要りましてできれば力をお借りしたい、と」

「あああ、杏です」

「なんだ。そうならそうと、」

「行ったらいいんですか。旅館ですか」

「あおおう、来てくれ。運ぶの、手伝ってくれんか」

 そのあと一瞬の間があって、言った。


「その、できれば、ウサギに会いたい。できれば、な」


 自転車の後ろの荷台に、今日は最中ではなく、ウサギを連れていた。柚子を収穫するための大きなカゴの中でウサギは不思議そうに外を眺めて丸まっている。なんだかおとぎ話の主人公になった気分、と杏はひとり微笑む。

 自転車置き場にはすでに先生の自転車があった。先を歩く先生の隣にはボタンもいた。

「みんな呼ばれたんですか」

 杏が大きなカゴを抱えて尋ねた。振り返った二人はぽかんとして言った。

「あれ、ウサギさんも呼ばれたんですか」

「懇意、だからかな」

 懇意の使い方はもちろん間違っている。だってひとつ確かなこと。本人は(本ウサギは)これから会うオジさんを、まだ、知らない。


 夏の終わりの浜通りはいつになく人通りがあった。まだ思い出の足りない人たちがここで何かしらの思い出を製作する。

 子供連れの旅行者夫婦がウサギを見て、会話している。「あら、ウサギさん」「白兎海岸ってあるものね」「それは鳥取だろ」「ここにもあるのかも」「ウサギは白波の象徴だからな」「でもここ、日本海ほど波が荒くないでしょ。白波なんてめったに立たないはずよ」「ウサギの方は自分が波に似てるなんて知らないよ」

 子どもはただじっと、カゴの中のウサギを見つめる。

 莉子先生を筆頭に、三人は黙って歩く。槇さんの知り合いの範囲は狭い。もしかしたらウサギおじさんの知り合いの範囲なのかもしれない。みんな、なんとなく嬉しそうではあった。力を必要とされただけで嬉しいものだ。


 旅館の前で槇さんが手を振る。

「槇さん、ほら、連れてきましたよ」

 ウサギの重量はそれほどでもないが、案外バランスがとりにくくて、杏はカゴを槇さんに押し付ける格好になる。

「おおう?おおう?」

 しっかり両手で抱えた槇さんは、中にいる真っ白に、ちゃんと目や鼻、そして立派な耳があり、愛おしく思う。

「来てくれたんだな」

 小さな黒目勝ちのおじさんの目は笑顔で顔に埋まってしまう。そうなるともう、泣いていたって笑っていたってわからないから得だな、と杏は思う。

 旅館のリフォームはまだ手付かずで、看板が外された他、何一つ変わっていないはずだった。けれど誰かの日常が断たれた、その気配だけは隠しようがない。

「何をお手伝いいたしましょう?わたし、こう見えて結構ちからはあるんです」

 そこはかとなくしんみりする中、莉子先生だけは鼻息を荒げ意気込む。


 槇さんが案内したのは旅館の隅っこ、資材置き場だ。

 お鈴が転がっていた。旅館玄関に堂々と据えられていた巨大なお鈴が、無残にも野晒しだった。


「これを至急、喫茶ウミナリ…にはきっと入らないから、音楽堂へ。ここにあると明日、始末されてしまう」

「はいアイサ」

 おどけたのは杏だけで皆真剣だ。

 先生がお鈴の底に腕を回しスカートのすそをたくし上げ、両足を踏ん張る。すかざず槇さんも反対側から持ち上げる。ふっとお鈴が浮かんだ瞬間杏とボタンが底から持ち上げる。コロが敷かれた軽トラの荷台にそのまま滑らせ、向こう側に敷いた分厚い毛布で受け止めた。

 槇さんはその毛布でお鈴をくるみながら言う。

「じゃあ、音楽堂で会おう。乗せてあげたいのは山々だけど重量オーバーだからな。あ、ウサギは助手席へどうぞ」

 残された三人は旅館から学校へ行き、裏手の登り口へ急ぐ。


 校庭には先日の台風で欠けたという時計塔の鐘が、ぽろん、と転がっていた。

一応、といった感じで、大事そうな雰囲気を醸し出す分厚い毛布が掛けられていた。


「あれ?」

「ん?」

「なんか、デジャヴ」

「ああ。ほんとだ。おんなじ」

「毛布の中身」

「お鈴も、鐘も、今ちょうど毛布の中」

 転がった鐘を凝視しつつ、杏とボタンと先生は音楽堂へ向かう。


 もうすでに槇さんは到着していた。四人でさっきと逆のことをして、お鈴は無事音楽堂のなかに収まる。

 槇さんは嬉しそうに、愛おしそうに、カゴから出されたウサギを両手で包む。


 音楽堂に、運び込まれたウサギとお鈴。もうすでに予感はあった。


「鳴らす?」

「鳴らしたい?」

 ばちはたくさんあった。喫茶ウミナリから持ってきて、五人で囲む。

せーの、で打つ。耳が八つと、足すウサギの二つ、全部で十、聞いた。みんな聞いて、みんな同じだと気づいた。あったんだ。ずっと前からあったんだ。


「このお鈴の響きは同じ。学校の鐘、すなわちラビットランドの鐘と。あの鐘、元はお鈴だったの?」


 理解が追い付かない。お鈴はさかさまに吊るすと、鐘にならなくも、ない。

 と、ウサギの耳が、ゆったりとゆらめく。前に伏せてじっと音を感じる。たとえ聞こえなくても音の波動は体全体で感じられる。


「ウサギはかみさま。時計はウサギにつきもの。時を知らせる。時間には二種類あって」

 莉子先生の声はいつまでもことばには成りきれない。ただのリズムみたいに羅列したことばは誰にも理解されない。けれどそれでよかった。とりあえず、探し物は見つかった。それでもうみんな安心していたから。


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