第36話 槇さんの部屋で


 旅館の経営者が正式に変わり、住まいを失った槇さんの引っ越し先は島の外、遠い町だった。

 新しく喫茶店を開くという。そこに槇さんがいるのかウサギおじさんがいるのか、それはわからない。


 もしほしいものがあったら自由にもって帰っていいぞ、そう電話がかかってきたのは九月の終わりだ。

 ボタンと一緒に、杏は槙さんの部屋を訪ねた。色々作ったり改造したり、好きなように作業して過ごす部屋だった。


「結構なんでも作れるもんなんだ」

 縫い物の道具から木工の機械まで、ありとあらゆる手作りの道具が整然と片付いたようでごちゃついた部屋の片隅に、槇さんは収まっている。


「でも、どうしても作れないものは、やっぱりある。そういうものには、なる、って 方法があるんだ。なるのは、自由だ。簡単じゃないけど、なれる」


 もしこの部屋をウサギおじさんに会う前に訪れたなら槇さんを危険人物リストに加えただろう。けれど今、槇さんは杏の中で、レッドリストの方に加えられている。

「応接室にいるおじさん、知ってるか」

 おじさん、と呼ぶ相手が槇さんにいるのが新鮮だった。

「あれ、オレの父親だ」

「…、あの、ラビットランドの、からくりオジさん?」

「ああ。学校に行くと応接室に寄ってボタンを色々押して父の声を聞く。まるでこどものおもちゃだろ。つい、聞いてしまう。あんなに嫌いだった父の声」


 コレハ セリフ ダヨ


「父はラビットランドで働いていた。みんなが勝手にそう呼ぶからそう呼ぶけれど、本当は実験施設だ。動物実験をする場所だ」

槇さんが、ウサギおじさんとしてしか語れなかった話を杏は振り返る。


「父は、施設が閉鎖されて仕事も辞めてしまった。それからは家で一日中人形を作っていた。とり憑かれたように」

 槇さんは遠い目をする。

「今ならわかるんだ。あれ、作る、じゃなくてほんとうは、なる、だったんじゃないのかな」

「人形に、なる?」


「さあ、なりたかったのが人形なのか人間なのかわからない」

「何かを探していたのかもしれない。何だろう。何か、いれもの。そうだ。入っているうちに自分じゃなくなるいれもの」


 槇さんは釘がたくさん入ったお弁当箱のフタを両手に持っている。多分フタを探している。でもそれはフタだから、さらにそのフタとなると見つからないんじゃないか、と杏は言えない。

「最中屋は、最中屋になる時、どうしてそうなろうと思ったんだ?あわおまえは、まだ最中屋の娘でしかないのか。まあ、しかしおまえ、これからまず大人になるんだよな。おれ、大人になるより、ウサギになりたかったんだ。大人になってからだって、ウサギになれそうな気持ちだけはずっと持っていた。誰かの、気持ちになる方が難しかったりする。おれの、ウサギになりたいっていう、気持ちに、想像力を駆使してなってみる。おれの、幼い頃のそういう気持ちに」


 夕日が真横になって窓ガラスの四角形を突き抜けいくつものウサギの耳を影絵にする。紛れ込んだ槇さんの影、境界線がみあたらない。一枚になった絵がやがて夕日に沈んでいく。


 ここは旅館の山側一階。海は見えない。




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