第34話 砂丘にて
ボタンに、「明日砂丘へ行こう」と誘われた。明日は八月三十一日。塾のない火曜日。夏休み最後の日。
「真夏に砂丘?もっと涼しくなってからにしたら?」
行き先を告げると母はやんわり引き留めた。無理もない。観光でもない限り真夏に好んで砂丘に足を踏み入れる物好きな人はいない。かといって、砂丘へ行く理由は他に、観光以外に、見当たらない。
「あれ?じゃあ島の人はいつ砂丘へ行くんだ?」
返事を期待しないでいたら、母は洗い物の手を止め、杏をちょっとだけにらんだ。
「今でしょ、って言ってほしいんじゃろ」
「いやいや、そんなこと思っとらん」
母は濡れた手の水を切って、布巾で包んだ。
「魔物が住んでる。不審者がいる。サソリに噛まれる。そうやって、島の大人たちは昔から、こどもをおどかして引き留めたんよ。だって結局あそこは海とひと続きじゃろう」
ラジオからはつい最近最終回を迎えたドラマの主題歌が流れていた。
「あ、ねえこれ、いい曲」
唐突に母が言う。杏はうなずいたけれど題名を思い出せなかった。
「もう中学生だから、いちいち言わないけど、冒険は死と隣り合わせ」
「かわいい子には旅をさせよ」
「世の母親はその狭間で苦しむ」
全然苦しくなさそう。
ふと、関係ないことを思い出した。生け贄の娘の母親の気持ち。そのかわいい子が行く旅はもう、二度と帰れない。
『どうしても行くってことなら、必ず朝』と母はかわいい娘に時間指定した。
忠実に守って、杏とボタンは朝六時、砂丘観光案内所で待ち合わせた。
大きな鳥が頭上すれすれを通り過ぎる。おなかのふわふわした真っ白い羽毛が杏のふわふわの髪の毛に当たった気がした。そんな野暮な鳥はいないから気がしただけだ。
「今ハイタッチする勢いだった。なんて名前の鳥じゃろう」
こっちはハイタッチでもむこうはボトムタッチだな、と思いつつ、杏はボタンに尋ねた。
「オオミズナギドリ、に似てる。でもこんなところにいるかな。確か、無人島にいる鳥」
予想外にも図鑑並みの知識だったので驚いた。
「お詳しいこと」
「うん。海鳥のことはなんかもう、色々覚えた」
砂に足をねじこむようにずんずん歩きながらボタンは続けた。
「そのとき、ユリのこと、探してたから」
一歩一歩、進む。
「一番ユリのこと知っているのは海の上を飛ぶ、渡り鳥だったらいいと思ったの。魚じゃなくて」
杏の知らない遠い北の浜辺で、ボタンが上ばかり見ている景色を思った。
「海でするさがしものを、空にいる鳥に尋ねるのは、道理にかなっとる。うん」
杏はひとりごとのように言う。
「杏ちゃん、知ってる?渡り鳥以外に、海を渡るもの」
ボタンは空を見ている。杏は「ううん」と首を振る。
「ちょうちょ」
「え。蝶?」
「うん。蝶はね、海を渡っていて、疲れ果ててこれ以上もう飛べない時、わざと海に落っこちるんだって。それで海にぷかぷか浮いて、これ以上濡れたらもう飛べないという時に、また飛び立つんだって」
これ以上もう飛べない時を判断する蝶の姿と、そのあと静かに羽を閉じて、波に揺られる蝶の姿を二人は思い浮かべる。空に、蝶の影はひとつもなかったけれど、「これ以上濡れたらもう飛べない」を判断し、再び空へ舞う蝶がどこかにいる気がしていつまでもボタンは空を見続ける。
杏はボタンの視線を追うのをやめて、まっすぐ前を見る。
まさかと思ったけれど、砂丘のまんなかに人がいた。
「え?あれ、もしかして、」
「先生じゃ、」
ふたりは顔を見合わせ駆け寄る。砂に足を取られてなかなか思うようにスピードが出ない。一向に近づかない。
「せーんせー」
「せーん、せーー」
ようやく振り向いた莉子先生はわざとらしく驚いた顔をした。これは多分杏たちよりもずっと前からこっちに気付いていたんだ。
お互い根気よく前進し、普通に会話ができる距離になる。
「みなさん。ええっと。おはようございます」
「何してるんですか」
「観光よ」
当然というように遠くに視点を定めて周りを見渡す。おもむろに写真を撮る。
「スマホじゃないんですね」
「スマホ?ああ、これだってきれいな写真が撮れるのよ」
先生が持っているのは一眼レフカメラだ。
「そりゃ、カメラだから、写真しか撮れないですよね」
杏は当たり前のこと言わされた格好になる。
「電話しかできない携帯電話も、ちゃんと持っているわ」
先生はポケットを探るが、忘れたらしい。
「音しか出ないピアノも、いずれ存在する意味がなくなるのかしら」
呟いた先生自身は、けれど全くそれを信じていないようだった。と、急にボタンのかばんから音楽が始まる。
♬
『さあラジオ体操の時間です。今日は〇△市…°◎§…』
風が吹く。ラジオからの雑音が知らぬ間に、聞きなれたラジオ体操のメロディーに変換される。
先生が歌い始める。宙で鍵盤をたたく。サンダルを脱いで踊り出す。
先生のラジオ体操は、控え目に言っても、第二から始まって創作ダンスに変わる。 砂を巻き上げながら、踊りながら、海の方へ向かう。先生以外誰も続かないのに、先生が長い行列の中にいるような錯覚に陥る。朝日を浴びて人型の影は砂地に伸び、まだ誰も踏みつけない風紋に光と影の模様を加える。
丘を登り、先生は点になり、青空と砂の間に見失う。
ラジオはニュースに変わっていた。
追いかけるつもりなどなかったけれど、帰ってこないから心配になってふたりは先生の足跡をたどる。
波打ち際で足を浸してじっとうずくまる先生がいた。
「聴いてもらってるの」
「今まで聴いた音全部」
さっきとは別の鳥が、空高く旋回している。
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