第30話 未来

 学校の宿題はやっと終わり、あとは塾の課題や高校入試の過去問をこなす。「夏を制するものは受験を制す」を心の合言葉に、時にはスマホを母に預けて勉強に精を出す。行きたい高校があるといえばあるし、ないといえば別になく、なりたいものに至ってはただ漠然と都会のタワーマンションで生活してみたい、という夢というか憧れ、妄想があるだけだ。          

本当はもっと未来への展望があればそれに越したことはない、と、杏は自分でも思う。でも、ないものはない、のだ。


 ボタンと喫茶店でお鈴を鳴らした。同じ音があるかどうかなんて、もうどうでもよかった。体中が響きで満たされる。ふたつの違う音で、たった今鳴らしたふたつの音で、ふたりが同じ響きで満たされていることだけは確かだ。


 この喫茶ウミナリで、ボタンがほとんど消えかかっていた。ユリになんて、なれっこない。ただ、消えていく。それが確信じゃないだろうか。思いついて言わないのがいつもの杏なのに、なぜその日、いつもなら言わない心の内側でしゃべった言葉が、なぜ口から出たのか、自分でもわからない。いつも通り、コーヒーを注がれたお鈴カップを前に、周波数の乱れたラジオから、ボタンにしか聞こえない幻のユリの声を、アンテナにした手であてもなく探し続けるボタンが、聴きたいように音を歪めつつあるボタンが、そこに在ることに耐えられなくなった。


「ボタンがユリになったら?そしたらボタンはどうなるん?そこから先のボタンはおらんようなるん?そしたらユリさんはどうなるん?そこから先のユリさんはボタンになるん?どうゆうことなん?」


 もう止まらなくなった。わたしは何が言いたい?何をどう伝えたい?そう自問してただ、他人を理解したくてもできない「自分自身」にこそ、耐えられないだけなのかもしれないと思い当たってむやみに絶望する。


 どんなセリフだろう。まだない余白に、どんなに探したって誰のセリフもまだ書かれていない。用意できていない。もうちょっと、待ってください。必ず、いつか。

「もう未来」

 ボタンがつぶやく。まだ、そんなこと言わなくていいのに。そんなセリフはまだ誰にも用意したくないのに。

 どうか、わたしを、その誰かにしてください。空っぽのまま舟を送り出す「誰か」に。

 

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