第29話 からっぽの舟

 杏は母と「白兎屋」に行った。


 ガスの元栓をねじり、鉄板に火を入れる。おもむろにガラスケースを開け、ひょいっとふたつ古めかしい型を取り出した。


「昔の型はずっと使ってないから、ちょっと磨こうや」

 頷いた杏は流しでジャージャー流した水に型をくぐらせ、ゆすぐ。

「型に油を塗って、水溶きしたこの粉を流して」

 普段はウサギが十、連なった型で一度にいくつも作るから、こんな型を使うと勝手が違って、何か、違うものを作っているよう、と桃子は新鮮な気持ちだ。


「いい香り」

「うん」

 型はひとつが上下に分かれているから二羽分、全部で四つ、鉄板に等間隔に並んでいる。

「ほうら、もうすぐ」

 ふつふつと表面に立っていた細かな泡が落ち着き、やがてきつね色に染まる。

 素早い手つきでそれらをあらかじめ広げておいた濡れ布巾の上に並べ、しばらく冷ます。

「はずそ」

 桃子に習って、杏も最中の皮を型から外してみる。


「あ、ウサギ」

「なった?」

「うん」

 ふたりで、それぞれ両手に持っている皮を合わせてひとつのウサギを作る。

「ほら、今、そこに閉じ込めた」

「からっぽ?」

「そう。でも、確かにそこに、在るんよ。何か、は」

「何か、がなかったら、からっぽはできんの」

「からっぽを作る時、何かを守るための空間だと、思って作るの。思いはそこに、どうしたって入り込む」

「からっぽに?」

「そう。その、杏のノートの、まだ文字の載らない、余白。そこに、これから載るもっと素敵な言葉が生まれる余地」

 杏は幼児のように繰り返す。

「生まれる余地」

 母はゆったりとうなずく。


「聞き遂げられなかった耳がこの島には積もってて。わたしらはその上に生きている。母さんも杏も」

 エプロンの裾をぴんと張って伸びあがり声高々に。

「不覚にも生きている。生きている側である」

 何だ。哲学か。論語か。

「なら、手を動かして作るしか、ないが。その余白に、耳を澄まして聞いた、言葉にならない言葉を、埋めていくしかないが」

 杏は母の手を見る。皺の増えた手だ。母の手の皺がだんだん増えていくのを、杏は知っている。最中を作る手。柚子を育てる手。杏を心配する手。とても好きな手。

「これからの人生、杏は、島を出ると思うんよ。どうしたって一度は出て、世の中を見るべきだと思うん」

 べき、とかいう言葉を普段どちらかというと避ける母が、珍しく断定した。

「そうしたらたくさん、ウサギがおるのを目の当たりにするん。ウサギみたいになんも言わん、言えん人たち、生き物たち、杏を引き留めることさえできん存在」

 桃子は杏の目をじっと見つめて言った。

「からっぽの中で守ってあげよ」

「からっぽ」

「舟はほんとはそうやって、使ってあげたかった。ご先祖のうちの、誰かはそう思ってた。誰かはそれを言わなかった。誰かは、聞かないふりをした」

 母はそこで一息ついて、そして気が付く。

「あ、窓。開けてなかった」

(母さんがいつも開けておく窓はここにもある)

 海側に小さな窓。母はぱたぱたと行って小さな四角い窓を開ける。


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