第26話 灯旅館にて

 台風は旅館にも打撃を与えた。


 瓦屋根の一部が飛んで、雨漏りの苦情処理で、女将さんが四苦八苦している、と母から聞き、杏は配達もないのに旅館へ向かった。


 自転車置き場へ向かう道すがら、地面に瓦が散乱しているのが目に入る。周りに三角錐が並び、立ち入り禁止の札がぶらさがる。

(こんなに古かったっけ?)

 杏には、一瞬廃墟に見えた。目を背け、自転車置き場へ急ぐ。


 女将さんの家族が暮らす離れの玄関は、旅館裏手、勝手口のさらに奥にある。

表札が幾つかかかっている。どれも日焼けしたかまぼこ板のように見える。右端の一枚は先代のフルネーム。寄り添うように掛かる小さなかまぼこ板は数年前に亡くなった女将さんの義母。複数の名前が並んだ手のひら大の薄い板の表札の中に書かれているのは、順番に、昨年亡くなった女将さんの旦那さん。家を出た長男、次男、三男、長女。どの人がどの人か、子供のころにはみんないたからなんとなくわかっていたのに、大きくなってお正月やお盆だけに帰省する存在になったらもう、誰がどの人だったかわからない。

 ただ、はっきりしているのはここに今も暮らすのは女将さんひとりだけだ。

 銀行員の長男は、結婚して本土の市街地に家を建てたと聞いたことがある。次男はコンビニ経営で独身。三男は別の旅館で修行中だった、かな。いや、それは次男の方かな。長男が旅館を継がないという嘆きを女将さんが母にしていたのを耳にしたことがある。では長女は。


 女の子?いたっけ?


 玄関で呆けていると旅館のお勝手の扉が開いて女将さんが出てきた。

「ごめんなあ、開いとらんかったね。両手ふさがってて開けられんかったじゃろう」

いつもは槇さんが事前に開け、迎えに出てくれている。今日は槇さんが留守らしいし、第一、配達ではない。

「いえ、今日は大丈夫です。ちょっと、台風、大丈夫だったかなって思って来ただけで、」

 普段入らない番台の内側に入れてもらって杏は少し落ち着かない気持ちになる。女将さんはそんな杏を知ってか知らぬか、冷たい麦茶を運んできてくれた。


 勧めてくれた椅子からちょうど玄関の大きなお鈴が見える。

 ふいに番台の電話が鳴る。

 女将さんは手を合わせて、ごめん、と合図すると電話に出た。会話の内容が、瓦だとか足場だとかだから多分、屋根の工事業者だろう。


 杏はお茶を全部飲み干すと、流しを探した。女将さんがどこからお茶を運んだのかわからなかった。電話の会話は思いのほか込み入っているようだ。番台から離れて食堂に入る。

家庭的な木のテーブルが三つ、等間隔に並び、その表面はどれも艶やかに拭き清められていた。食事時ではないからか、椅子は端に寄せられ、誰もいなかった。

カウンターにやかんと、湯飲みが見えた。

(使用済みの湯飲みはここ、か。ああそういえば、ここではお茶を飲むのにお鈴を使わないんだな)

 今改めて手のなかの湯飲みを見て、杏は思った。


 遠目で廊下を挟んだ番台の様子を窺う。まだ電話は続いている。

 (もう帰ろうか)

 出口はもちろんさっき入ったところだとわかっていた。

けれどふいに、旅館の中を探検してみたくなった。

「配達の時は慎ましい態度でね。楽しい旅している人ばっかりじゃないから」常々母から言い含められている言葉。わかっている。鎮魂の旅をする旅人の旅館。つまり、慎ましく探検すればいい。探検という言葉は相応しくない。見学だ。どういう場所でどういう人たちが店の商品を消費しているのか。


ひとりにふたつずつの最中。ひとつは旅行者本人用。餡子が入った最中。もうひとつはこの旅館に立ち寄る死出の旅人用。空っぽの最中。


 ここは、色々手順を踏んで宗教的な儀式をいくつ済ましても、近しい人の死を受け入れられない人が宿泊するところだ。いや、だった、と言った方が正しいかもしれない。近頃のお客は「そんな由縁のある」この地域の旅館の風情をただ楽しみたい人が大半だと聞く。そうだとしても受け入れる。そうしないと成り立たない。儲けが出ない。そうして敷居を低くしたからお客は近頃増えているらしい。


「砂丘っていうから期待しすぎちゃった」

「うん、ほんとに。横の廃棄物の山、あれ何とかならんのかね。台無しだよ」

「そうそう。でも逆にあの感じ、シュールでカッコいい気もした。ここに来る途中、工場跡かな、近くで見たら排気ダクトかなんか、太いパイプがくねってたんだけどさ、船から見えた時、遊園地に見えた」

「ああわかる。逆光で、煙突が並んでるのもお城みたいだった」


 廊下でお客とすれ違って、会釈をする。


 どこからかお鈴の音がする。各部屋にひとつずつお鈴があると聞いたことがある。


 見学はあっけなく終わった。

 客室はどこもぴったりと扉が閉まり、中の様子は全くわからない。一階、二階、と歩き、途中またひとりの女性とすれ違う。この人は、この人こそは、誰かを亡くしたんだろうか。 


 非常階段をぐるぐると下って再び一階に着く。

 山側の隅っこ、眺望など全く望めそうもない一室。引き戸に椅子が一脚挟んであって、風を通しているのか、開いていた。 


 ドアの奥、部屋の向こうにまた、外へ出るためのドアがあって、部屋を突っ切って外が見えた。男物の靴がある。窓の向こうの小さな庭に鉢がいくつも並んでいる。逆光でよく見えないけれど、粘土で作ったような変な形ばかり。きっと多肉植物の類だ。

 杏はさらに扉に近づいてそっと覗き込んだ。

壁側の棚に、いくつもの「ウサギのなりかけ」があった。その材料もあった。

ウサギおじさん、の部屋だ。


 中に、人の気配はなかった。


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