第27話 砂黙り

 杏はそっと扉から離れ番台に戻った。


 すでに電話を終えた女将さんがごめんごめんとつぶやきながら、杏の湯飲みがないのを確認すると、今度は冷蔵庫からアイスを取り出す。紙製のカップにかぶさったフタが、まるでハサミで切り取った子供の工作だった。

「よかったらどうぞ。これ、手作り。例の喫茶店の。あ、そういえばお店、気に入ってくれたみたいじゃね。すっかり常連さんじゃいうて」

当然、「ウサギの被り物を脱いだ槇さん」経由で聞いたに違いない。彼女は喫茶店を気に入ったようだ、と。


 杏は尋ねようと思った。

(旅館とはだいぶ趣が違っていました。だってウサギが迎えてくれたんです)


 でも声が出る前に、女将さんの方がとつとつと話し始めた。

「あそこな、もう手放そうとしとった土地なんよ」


 杏にする話ではない、杏の母にしていた類の話。今まで聞かない振りをして、でも、うっすらと聞こえていた話。


「砂だまりだったん」


 波がざぶんざぶんと絶え間なく押し寄せる。だだっぴろい玄関ロビーにどしんと構える大きなお鈴。この中。ここは違うはずだ。ここに波音までは聞こえない。


「砂だまり?」

「砂が黙る、と書くんよ」


 女将さんは持ちきれない荷物をやっとひとつ下ろすように溜息をついた。

 アイスが溶ける。溶けてしまうのに。

「ああ、地名は耳塚。…地名はね。ほじゃけど古くからの呼び名は砂黙り。どっちもどっち。多分あそこらに耳塚はあった、耳の骨は砂になるんよ。あのへんは昔から砂が溜まるの。砂丘の砂。ほら、ムレウサギが吹く季節、洗濯物は外に干さんでしょう」

 砂黙りなんてそんな呼び名は知らない。けれど砂丘の砂が厄介者にもなる。それは知っている。

「洗濯物に砂が付くから、ですよね」

 女将さんはうなずく。

「砂丘の砂は風に運ばれてあの丘に少しずつだけど溜まっていった。耳の骨の成れの果て。ウサギはいつも黙って生け贄になる。それで、砂黙り」


「耳の骨」


「黙って黙って生け贄になって砂になった。まだ砂になれない耳は波の音を怖がるから。だから楽器を集めなきゃならない。音楽で波音をかき消してしまわんと」


 女将さんが急に老婆の形相に見えた。

 自在に操る時の流れの先端ですでに全てを見てきたように。


「そして、人を生け贄にしたのはいつだったんか」


 見て聞いて、その足で戻ってきて、何も知らないはずのわたしに「そして」で始まる話をする女将さん。

 この中。

 もしかしたら、このお鈴の中。隠れていた。息を殺して隠れている。

 待ってはくれない。わたしに聞かせるために話すんじゃない。ここに隠れている少女に向かって。


「むかーし、この土地に生きた人々が途絶えさせてしまいたかった、伝説。誰も伝えん、はなし」


 それが積もって重くて、でも女将さんには泊まる宿もない。


「同じお鈴をふたつ、ないのなら。娘をひとり、捧げましょう」


 女将さんの声が呪文に聞こえた。この旅館はいつも人が絶えない。それなのにいつも静寂に包まれている。誰もが独りでここを訪れ、ただ海辺を歩き食事をし眠り帰っていく。今日も黙りこくった人たちが音もたてずに廊下を行き交う。ここは、そのはずだった場所。


「ムスメヲヒトリ ササゲマショウ」


「誰が、どんなふうに、唱え始めたんかな。嵐ばかりが続いた年、だったのか魚が全く捕れなかった年、だったのか。どんな理由かわからない。でも、とにかく、『神様がお怒りになった』んよ。それで女の子を型船に入れて海に流したの」


 沈黙が流れた。

 女将さんが言わないからわたしが言う。


「白兎屋が作る、型舟?」


 女将さんが笑いをこらえているように見えた。

「ほしいものが手に入ったら幸せ?」

 何も答えないのにもっと言う。

「なくなったものが、見つかったら幸せ?」

 何も答えないのに。

「今わたしが手に入れ、その瞬間どこかの誰かがたった今、失った。繰り返し手に入れては手放して。それを神様はもう全部見たんじゃないんか。それをうちも全部見たことに、するしかないんじゃないんか」


 ふいに女将さんは小さな窓を開けに立った。土間敷の奥、海とは反対側に小さな四角い換気窓。開けた途端、潮風が通り抜ける。ざぶん、ざぶん、穏やかな音も通る。

呼吸を止めていた誰かが息をし始める。見つかったら生け贄になってしまう誰か。

波に合わせて吸う、吐く。吸う、吐く。

「杏ちゃん、今何年生?」

「中二です」


「じゃあ、よっちゃんの齢をもう超えとるね」

女将さんはほっと息を吐いて優しい顔をした。ように見えた。


「よっちゃんって?」


「もう四十歳のおばさんなんよ。由子っていうん。よっちゃんはね、杏ちゃんくらいの時に病気になって、それ以来ずっと病院で暮らしとるんよ。心の病気。もうおばさんのこと、お母さんだと思っとらん」


 窓を、閉めたらよかった。


「時々違ったんかな、って思う。この子、よっちゃんじゃないのかもしれん。だって本人が違う違うって泣きわめくんよ。もうどこにも、この子がよっちゃんだって胸を張って言える証拠がないんよ」


 閉めたらよかった。


「わたしね、よっちゃんが発病した時、みんなに隠したんよ。よっちゃんは今、留学してる、よっちゃんはもうお嫁にいった、よっちゃんは、よっちゃんは…って。いつからかあたしはその嘘を本当だと信じて生活してた。病院にも殆ど面会に行かんかった。ある日先生から「治りましたよ」っていう電話がかかってくるのを待っとった」


 閉めて。


「病気はどんどんひどくなって、よっちゃんはもうあたしを誰だかわからない。ただ朝起きてごはんを食べさせられてお風呂に入れられて夜になったら薬を飲まされて寝るだけの、少なくともこの世界ではそれだけの、存在。だって、この世界じゃない世界によっちゃんはいるんよ。うちは、考えたくないことを考えんようにしてきた。よっちゃんがどうしたらこの家で暮らせるかとか、元のよっちゃんに戻らなかったとしても、今のよっちゃんと一緒の世界でやっていくにはどうしたらいいかとか、全部なしにして、旅館の仕事だけやってきたん。ずっとよっちゃんはうちの中で、中学一年生のまま」


波にさらわれて積もり積もった耳はもう聞くことができない。


 女将さんは一呼吸置いて続ける。

「よっちゃんにさよならって言っとらん。よっちゃんが、うちの知っとるよっちゃんだった時、さよならって言っとらん。いつ、うちはよっちゃんとお別れしたんかな」


 代わりに聞き続けた私の耳は混乱する。ああ答えは検索すれば出てくるんだけど。でもしないのは、だってもう全部見てきた女将さんの答えは画面に載っていないから。


 溶けてしまったアイスクリームはミルクセーキになっていた。杏は甘ったるい液体を一気に飲み干して、食堂の返却口に使わなかったスプーンを置いた。



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