第23話 耳なしウサギと会った日③



「私たちウサギにとって、時計の表す時は『タイマー』でしかありません。あらかじめ設定された日時に、型舟に入れられることが決まっているのです」

 思い出したくもない、と、ウサギは首を振る。


「時計は嫌いです。わたしたちに自由がないことを証明するだけです」

 莉子はウサギが『同志』に思えた。

「自由、か。わたしも自由をどう扱えばいいかわからなくなることあるわ」

 ウサギはうなずく。


「自由とは不安定でもあるんです。まず、自分の両足でしっかりと立たなければならない。もう、上下左右に檻の枠がないのだから、平らで安全な野原を自分の足で探っていかねばならなくなる。もうどこにももたれ掛かる壁はない」

やや白熱した調子で、ウサギは一息に話す。


「自由ってなんだか孤独ね」

「自由すなわち孤独、という図式は極端ではあります。ただ、自由は孤独と紙一重、とは言えましょう。もたれ掛かるものが、鉄の檻の壁しか知らないウサギは、自由を得ても、もう行く先には死しかないのでした。生きる術を知らないのですから」


 話が急に飛躍して、莉子にはちょっと意味がわからなかった。けれどこのウサギは、『相当な経験をしたあと』なんじゃないか。そう莉子は思った。そして、ねぎらう。


「もたれ掛かるものが、柔らかな草だったり、仲間のふんわりした背中だったりしたら、自由は心地いいね」

 莉子の発想のやさしさに、ウサギは安心したようだ。


「少し、わたしの話をしてもかまいませんか」

 多分、さっきの『飛躍した部分』を今、ようやく話す気持ちになったのだろう。莉子には直感でわかる。だから無言でうなずいて、どうぞ、とさらに大きくうなずく。


「わたしは人間に捕らえらえて、耳に人の指が通るほどの穴を開けられました。それから小さな箱舟に載せられました。波に揺られているのがわかりました。海はわたしにとって遠くから聴くものでした。近づいてはいけないものでした。それなのに今自分は、海の上に浮かんでいる、その状況は絶望としか言えませんでした。箱船の中は真っ暗でした。舟がどこへ行くのかわかりませんでした。けれど、死の隣にいる、それだけはわかりました」


 一気にしゃべった耳なしウサギの話を、理解するとまではいかなかった。けれど莉子はその想いはきちんと受け止めていた。だからウサギは、そのまま続けた。


「死と親しくなると、それはそれは、穏やかで優しい気持ちになれます。優しさに似た、哀しみなんです。いえ、名前はあるのでしょうか。夢、という名でもいいかもしれません。もうすぐ消えてしまうものに、名前がいるでしょうか」


 いつしか、耳なしウサギは、カチューシャを外していた。耳を切られた跡に包帯を巻かれてはいたが、血が固まって茶色くなっている部分と、まだ新しい血が染み込んで赤くなっている部分があった。


「ラビットランドの、『いにしえ』からのウサギと話をしたことがあります。彼らには記号が割り振られていました。いえ、正しくは彼らが収容されている檻に記号が割り振られていました。Aという檻に入れられたウサギは『A』になる。それだけの呼び名です。ではそこから出たら?」


 膝に置かれたカチューシャをウサギはそっと撫でる。

「そこから出る時。それはもう呼ぶ必要がなくなった時。区別する必要がなくなった時。死んだウサギ、です。でも、そんなこともどうでもいいのかもしれません。だって、耳が聞こえないのですから」

 そう、耳は切られたのだ。

「元々何も聞こえなかったウサギたちに、自分が何と呼ばれていたかなんて、始めからわからないのです」

うつむいた耳なしウサギは泣いていたのかもしれない。けれどやっぱり、鳴き声は立てない。


「だから、どう呼ばれてもかまわない」


それは、ウサギがいったのか。それとも莉子が言ったのか。聞こえないなら、聞こえていないなら、どんな呼ばれ方をしても、構わない。

 本当にそうだろうか。

 莉子は思い出していた。

 あの時莉子は耳が聞こえなかった。

 前の晩から急に母の声が聞こえなくなって、病院へ連れていかれた。ストレスによる、難聴だ、と言われた。

 内心、ほっとしていた。ピアノの音も、人の声も、聞こえなくなったらどんなに楽だろう。そう思っていたから。

 いや違う。

(そうだ。ちゃんと、聞こえていた)

 母さんが、電話で話しているの、聞こえたんだ。聞くつもりなんてなかった。だけど、いつもより声を潜めているから、逆にこの異常に性能の良いわたしの耳には聞こえてきた。『…あの子、表情がないのよ。昔から育てにくい子だった。わたしがどんなにきつく叱っても能面みたいに無言よ。気味が悪いわ。…大丈夫よ。聞こえないわ。今ピアノ弾いてるから。…ピアノだって、もっと弾けないとダメよ。人間味がないならいっそ、機械くらいに弾けないと。中途半端じゃ何の役にも立たないわ』

 わたしはピアノを止めなかった。止めるのが怖かった。『莉子に聞こえないなら何を言っても構わない』そう母に許された状況で、これ以上何を言い続けるのか、最後まで聞き遂げる。遠いところにいる強い自分がそう言って指をとめなかった。

(あなたはいいよ。傷付かないから。遠いところでただ見ている、能面みたいなあなたは。わたしはつらいんだ。どうしたら、つらい、と思っている自分の気持ちが伝わるのか。ただわからないだけなのに。)

(その、能面を傷付ければいいんじゃない?)ウサギじゃない。自分が言った。(あなた自身が被っている、その能面が傷だらけになったら、きっとお母さんは気が付くよ。ああ、傷だらけだ、って。人は、目に見える傷にしか、注目できない)

わたしが母に、他人に、感情がないと判断される、表面に張り付く能面を、傷付ける。それはどうやるのだろう。そう思うのが早かったかわたしの耳は聞こえなくなっていた。 

 もうどの順番かわからない。聞こえなくなったのが先か、ウサギに会ったのが先か、思い出せない。なぜならこういう記憶もある。血相を変えて病院を回る母。母の手にはうさ耳カチューシャ。「耳が聞こえないと困るんです。この子は、ピアノを弾くんです」(そうだね、あなたが困るのは、やっぱりそういうことだ。母はわたしの、機械としての性能が落ちることは困る)

 わたしは、「そんなことより」と母に食い下がる。「それは耳なしウサギの大事なものだよ。返してあげて」

思い出したくない記憶と思い出にしたい記憶がすぐ近くにあるから、記憶のなかの時間の感覚が定まらない。

 ああでも、あの時ウサギが言ったこと、わたしの耳を、わたしのピアノの音をほめてくれた言葉。あれは思い出とか記憶の部分ではなく、ほとんどわたしの体に染み渡って存在している。

「あの時あなたの耳が聞こえないからこそ、あなたにわたしの言葉が届いたのです。あなたにわたしの姿が見えたのです。聞こえなくても伝わることって、あるんです。必ずしも、音だけが何かを伝えるわけじゃない。あなたはランドで、ウサギたちを救ってくれました。ちゃんと、呼んでくれた。それぞれに名前を付けて、それぞれのために音楽を奏でてくれました」

 多分、わたしは音楽を必要としているもののことは、わかるのだ。耳が聞こえるかどうかではない。本能的に、音楽を使っただけだ。ピアノを使って、空気を振動させる。音の聞こえない耳に波動を伝える。


 次の日の朝、わたしは砂丘で目を覚ました。ラビットランドへ行ったことを母には話さなかった。

(そして自分でもなかったことにした。それは、夢で見たこととして、記憶に残りやがて取り出せない深いところに沈み、取り出せなくなって忘れてしまった)



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