第22話 耳なしウサギと会った日②

 

 満月の夜だった。

 春霞のなか、ぼんやりした光で窓辺のウサギが浮かび上がる。

 それは奇妙な姿だった。白い頭巾にうさ耳カチューシャ。シルエットは確かにウサギだけどウサギとして識別するのに一番大事な耳がない。

「あなた耳がないじゃない」

「ええ。切り取られました。だから作ったんです」

「なくなったから作るだなんて、前向きなのね。ウサギさん」

 投げやりに莉子は言った。

 わたしはこんなふうになれない。明日も明後日もわたしはこのうちで鍵盤をたたき、その音を聞き続けるんだと途方に暮れていた。そんな時現れたこのウサギはピーターパンだ、と思った。永遠にこどもでいられる国に連れていってくれるあのヒーローだ。


「ウサギさん。待ってたわ」

 (ああだけど。永遠にこどもでいたら、母から逃れられない。)

 一方の頭では現実的にそう考える。


「わたくしを待っておられた?それは困ります。こちらとしては飽くまでも、無作為に選択した結果で、あなたが選ばれたというていで参っております」


「あなた懐中時計は持っていないのね?」

云々かんぬん言うウサギの言葉より、その姿を莉子は新鮮に眺めた。

「時計が、何か?」

「ウサギに時計はつきものかな、と思ったの」

 西欧のおとぎ話の絵本で、ウサギは時計を持ち歩いていた。

「ああ、わたしには耳がありませんから」

 答えになっていない、と莉子は続ける。

「耳で時計は見ないでしょう?」

 ウサギも負けじと続ける。

「時計の針の、かっちかっちと動く音、あれ見なくても聞こえますでしょう。ウサギは大抵、なんでも耳を使って感じていますからね」

 なんだか自分と似ている、と莉子は思った。文字盤に書いてあることが見えなくても、秒針のカチカチ鳴る音が時を刻む。

 ウサギは白い頭巾を短い手で指した。

「御覧のとおり、耳は切られてしまいました。何でも耳で感じている、とすれば、これでもう何も感じられないようになりました」

 耳なしウサギはなぜかちょっと得意そうに言った。そうか、苦しみや悲しみしか感じていないのなら、もうそれらを感じる必要がないということは、得意になっていいのだ。

「わたし、ウサギはたくさん折ったけれど、お舟はひとつも折っていないの」

 言い訳じみてこどもっぽくなってしまったと、莉子は言ってから思う。

「大丈夫ですよ。わたしが漕いでさしあげますから、さあ、乗って」

 こどもが子供っぽいのは当然で、何の恥じらいも必要ない、というように両手をおおらかに広げて、ウサギは言った。

 行先は言われなくてもわかっている。つい最近取り壊されて空き地になった場所。 ぽつんと背の高い時計塔だけが残る。古い西洋風の時計塔。てっぺんに狂った大時計と鐘がある。止め方がわからないのか定期的に鳴る鐘の音は厳かで懐かしい。

 でも、それだけ。どんなに思い出そうとしても、その隣に何があったか、誰も思い出せない。なくなったら急にぽっかり空いて、向こう側の空が見える。

「ラビットランドね」


 知っている。誰かが言っていた。「結構高い建物があったでしょう。あの中、メリーゴーラウンドやゴーカートがあったのよ」そして付け足される。「わたしが見たわけじゃないの。誰かが教えてくれた。みんな多分なくなった途端気になったのよ。あれ?ここにあった建物、大きな建物、あれ何だった?って」

 誰かの話を誰かが聞いて、やがてそれが真実になる。


 ここから先はわたしが幼いわたしから聞いた夢の話かもしれない。

 本当だったのか夢だったのか。行先はラビットランド。

 夜のラビットランドは静寂に包まれて、何も聞こえないウサギたちは安心してうずくまっている。


「この子たちに音楽を聞かせてあげてくれませんか」


 耳のないウサギは言った。

 ランドには一台のピアノがあった。小さな舞台は円形で金の縁取りが月明りに輝く。

「ピアノ、嫌いなの」

 言ってみたかった言葉。好き嫌いより前にあるのがピアノだったから。

「嫌いにしては毎日弾きすぎではありませんか」

「わたしが毎日弾いてるって知ってるの?」

「知っていますとも。あなたの音楽をいつも楽しみに聞かせていただいていましたから」

「そうなんだ」

 少し、嬉しくなる。

 誰かに聞かせるつもりで弾くことなどなかった。

「で、ピアノは嫌いなんですか?」

「嫌いだけど、安心はする」

 そうだ、嫌いよりも好きよりも、何よりも先にあった。改めて語ることなんてなかった。

「わたし、役目があるの。時間を流す役目」

 耳なしウサギはいかにも感心したように言った。

「ほほう。まるで時を操る神、ですな」

「そんな女神さまがいるの?」

「ええ、確か。おとこだったかな、おんなだったかな。とにかく外国の素敵な名前。カイロスです」

「カイロス」

 いい名前だ、と莉子はその響きを確かめる。

「あなたはどうやって時間を流すのでしょうか?」

 どうやって?そう改めて聞かれるとどうやっているのか自分でもはっきりしない。でもいつもしていることを順番に口に出す。

「まずピアノの蓋を開けるの。鍵盤の上で時間が止まっているのを確かめてね。それを指で散らかして床に落とすでしょう。それから全部の鍵盤を使って指を動かすの。それは練習曲で、自由曲ではないの。だけどコチコチ鳴る時計の秒針からは自由になれる。そのあとがお待ちかねのわたしの自由曲。わたしがその時弾きたい曲を好きなように弾いていい時間なの」

「こんどは自由の女神ですね。自由の女神が、カイロスから奇跡の時間を手にしたんですね」

「神さまって、そんなにたくさんいていいの?」

「結構です、結構です。自由の女神はニューヨークだけじゃなくて、もう今じゃ世界中にいます。それは大抵、自由を得た喜びを表現して、天高く腕を上げておりますね」

「わたしは腕は上げられない。両手はいつも鍵盤の上」

「結構です、結構です。そのスタイルでいきましょう」

 ウサギは続けて言った。

「わたくしたちウサギの間でも、女神がおりました。奇跡の時間を見守る、ここちよい音楽を響かせる女神さまです。その音楽を手にできるのは型の中にいれられてからだ、という言い伝えがわたしたちウサギの側にはありました」

ウサギの言葉に、莉子は混乱した。型?一体何のはなしだろう。ウサギの話は止まらない。

「型に入るまで流れているのは、刻刻と過行く、型舟に載せられる日までの時間です。夢中になって草原を走ったり、仲間と無心で草を食んだり、時間の経過を忘れるような、何ひとつ心配のない時間が始まるのだ、とわたしたちはこどもに言い伝えていました」

 (へえ、この耳なしウサギには、こどもだっているのだ。そのこどもは今どこでどうしているのか。だいたい、なぜ全て過去の出来事みたいに話すのだ。まるで、『時』からすっかり離れて、遠くからいくつかの『時』のあいだを自由に行き来しているかのように)

「ええっと、時間にはいくつか種類があるということ?じゃあ、どうして時計ってどれも同じ時間を刻むの?」

ふむ、よいでしょう、というように耳なしウサギはうなずいた。カチューシャの上の布でできた耳が大きく揺れる。

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