水の戯れ
第24話 ラジオ
夏の終わり、音楽堂を包み込む木々は瑞々しい若葉を成熟した青銅色に変えていく。
今朝のラジオは、接近する台風情報でもちきりだった。
けれど、午後になっても音楽堂の同じ場所にうずくまって、ボタンは先生のピアノに耳を澄ませていた。
そんなボタンに対して、莉子先生は言葉を用意しなかった。ここは学校ではないからセリフは用意しなかった。今まで目一杯読み漁った、コミュニケーション術の本。めいっぱいよみあさる、とはなんて活気のある音だろう。実際はそんな風ではない。もっと違う音。黙々とページを繰り耽る。もくもくとページをくりふける。そう。そのようなこもった音の方が自分にはしっくりくる。
結局くりふけって得た情報の役立たせ方はわからずじまいだ。けれど今はわからないのではない。多分必要なかった。耳と音、お互いが必要なものだけあればよかった。
ついに日暮れ、ピアノは止んだ。徐々に強くなる風は生温かく心地よい。
先生は、音楽堂とピアノ、それからおかっぱ頭のボタンとの組み合わせで、ずっとむかしの忘れていたことを思い出していた。
「ここは水が溜まらないからきっといつまででも弾いていられるの」
不意の言葉は、ボタンの耳にはただの音。
「あなた、わたしが隠していたお人形さんに似ているわ」
先生は次々と発声する。
「せんせい」
ボタンは思わず、手を挙げる。
「はい、ボタンちゃん」
「もう一回言ってください」
先生は手を膝に置いて、呼吸を整えた。
「むかしあなたを、助けてあげられなかった」
「え、せんせい」
ボタンは先生を見上げた。
(さっきの音と全然違います。さっきのは「あなた、わたしが隠していたお人形さんに似ているわ」だったはず。その前が「ここは水が溜まらない」。)
先生は構わず続ける。
「あなたによく似たお人形があったの。大事にしていたちいさなお人形。お気に入りの古いオルゴールは蓋を開けるとバレリーナがくるくる回る。足の裏の磁石がオルゴールの内側、丸い舞台にくっついて回る仕組み。少しさびしげなお澄まし顔はいつも高く伸ばした自分の指先を見ていた。わたしは時々出して掌にのせてみていた。オルゴールは母の物だった。だからこっそりと」
先生は瞳を閉じる。
「ある日そのオルゴールは燃えないゴミの袋に入れられていた。母は時々なんでもかんでも捨ててストレスを発散するようなところのある人だった。わたしはオルゴールとその中のバレリーナを助けかった。どうやって助ける?隠してしまおう。そう思った。折り紙を二枚折って、ひし形のクリスマスの飾りを作る。二枚を糊で貼り合わせて完成するひし形の立方体。わたしは、お人形をそのなかに隠した。母に見つかって捨てられないように。それからさらにその飾りをどこかにこっそり飾ろうと思った。」呼吸は深く、瞳を閉じて、開いて。「ピアノ室の明り取りの窓辺。天井のすぐ近く。高い椅子によじ登ってそこに掛けた。糸で吊るすとクリスマスのオーナメントなのか七夕の飾りなのかわからなくなった。母は気づかない。だけどやがてわたしも忘れてしまった。時々『ある』って確認していたのをしなくなった。そのまま大事な気持ちも忘れてしまった。あんなに大事にしていたのに」
不思議だわ、というふうに先生は溜息をつく。
「今、急に思い出したの。そのお人形があなたによく似ているから」
ボタンをじっと見つめる。きっと出会ってから初めてだ。
「わたしが高いところにお人形を隠した理由はもうひとつあって」
ボタンは今にも先生のてのひらに載せられそうな感覚を覚える。
「わたしがピアノを弾くと床からだんだん水が溜まるの。そんなことないってみんな言うけど、わたしには見えていたの。子供のころは練習するたびいつも。水が首すれすれまで溜まったところで練習を終えていた。お人形を水の中へ沈めないために高いところに隠した」
音楽が聞こえる。
突然始まった独白を音楽堂は突然始まった優しい音楽で包み始めた。
「ボタンちゃん。ねえ、ピアノの音がする。ラヴェル。水の戯れ」
ぱらぱらと音が降るようにラジオが奏ではじめる。ボタンのかばんのなか。先生はかばんに包まれた箱型の物体を眺めた。
「ラジオ?」
「急に始まっちゃった。ごめんなさい。いつも持ち歩いているんです。家に置いていると母に捨てられるかもしれない。母はこのラジオを見ると動悸がするって」
「あら」
二人は顔を見合わせた。
「捨てられる、」
同時に言って、笑った。
「ちゃんと聞かせて。ボタンちゃん、かばんから出して、聞かせてちょうだい」
そっと包みをほどいても音量はそれほど大きくはならない。
「古くて、一度水に沈んだラジオだからこの音量が限界です」
「水に沈んだの?水の中でどんな音楽を響かせていたんでしょう?」
「水の中で?」
ボタンは今まで気が付かなかった。そうか。このラジオはユリと一緒に一度水中に投げ出されたんだ。そして。
「これ、ユリが助けたのかもしれない。先生、そうだ」
ユリはこのなかにあるたくさんの音楽を失くしたくなかった。ユリがさいごに聞いた音楽はなんだったの。水のなかから、助けた音楽は何だったの。
ユリの「かたち」はわたしの「かたち」とほとんど同じだった。だからユリの抜け出たかたちにわたしは収まっていられた。それはわたしにしか見えない抜け殻だった。その抜け殻から、わたしは出られなかった、ううん、ずっと居たかった。でもわたしはやっぱりユリとは違う。違う違うと唱えていないと、やがてユリになっていることが、時々あった。だから怖かった。
だけど最近、抜け殻が見当たらないことに、薄々気づいていた。
ユリがつい今までいた世界。抜け殻のなか。抜け殻は棺なの?ううん、今まで居た場所が棺なはずがない。今まで、居たんだから。生まれてきた証なんだから。
あるじのいなくなった抜け殻の中に落ちてくる音。それまで聞こえなかったたくさんの音。落ちてくる音だけが耳に届く。それはわずかに射す光のような音。
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