第20話 ウサギ最中

 青く瑞々しい柚子の実が緑葉と同化してそこら中にぶら下がっている。

 アスファルトが細い砂利道に変わり、桃子の家に着く。

 すっかり古びたけれどよく手入れされている印象は変わらない、と莉子は記憶に薄紙を載せ、鉛筆でなぞるようにした。

「どーぞ」

「あら、お邪魔していいの?」

 玄関を入ると靴箱の上にだるまがあった。小さなヤカンくらいの細長い形だ。随分色褪せてはいるが、多分だるまだ。

「これが、箱根のおみやげ」

 だるまをひょいっと持ち上げた桃子は莉子を奥へと促す。いそいそと窓を開け扇風機をかけクーラーのリモコンに手を伸ばす。

「ここ、観光案内所、ね」

 だるまがテーブルの上で莉子をじっと見ている。

 荷物として持ち歩いただけの水筒からよく冷えた麦茶を注ぎ、桃子に勧めた。

「バスガイドの仕事は楽しかった。日本中を案内して回る、毎日が旅よ。知っとる?箱根の入れ子こけし、ってロシアのマトリョーシカの原型っていう説。百年前にロシア人が箱根を旅して、入れ子こけしを持ち帰ったんだって。ロシア行きの入れ子人形は七福神だったらしいけどな」

 桃子もグイっと麦茶を飲む。 

「これがその、箱根の入れ子人形。色々な入れ子人形があってな。これはだるまちゃん」

ちゃん、と呼ぶには少々おじさん顔過ぎる。

「ニャンコ、開けてみて」

 莉子は胴の辺りの継ぎ目をかぱっと開けてみる。中からひとまわり小さなだるまが現れる。

「あ、これ、だるまになりかけ。片手がある」

筆で勢いよく描かれた指がまた愛らしい。

「そうなんよ。この中にもなりかけがあって、さらにその中にもあって、最初の一つ目は、もうだるまじゃなくて、ちっちゃな人間」

片手のあるだるまから出てきたのはさらに両手があって、何か袋を握っている。

「はあ、手が込んでいるのね」

「箱根で、これを作っている職人さんの店に行ったんよ。その人は日本のどんな気候のもとでも上下がぴったり気持ちよく閉まる入れ子人形を作ることを信条としとった。木って湿度によって膨らんだり縮んだりするが。上が大きすぎると下の部分を覆うように滑り落ちるし、小さすぎると内側に滑り落ちる。いつでもどこでもぴったり閉まる作り。手作りだけど、職人技という感じ。そう、もしかしたら、全く同じものだって作り出すことも可能な」

桃子は言いたいことが手探りだった。麦茶は、よく冷えていたはずなのにたちまち生ぬるい。ガラスコップの表面から水滴が流れている。

「そういえば、一点一点、手作りです。ってよく聞くセリフね。あれはつまり、もう他にはないですよという意味よね」

莉子が続ける。

「そうね。もう同じものは作れません。じゃな」

桃子は言った。

「ああ、作る人は、自分は人間だ、と宣言しているのね」

「どういうことなん?」

「人間だから、ひとりきりです。人間だから、両手は左右対称ではないし、同じ動きを永遠に繰り返すなんてことはできません。全く同じものをお作りすることもできません」

莉子は言いながら、でも自分はどちらかというと、機械だ。と苦笑する。一方、莉子の考えていることなど知らずに桃子は続ける。

「…もしかしたらどこかで、こうも宣言している人、いるんかな?『一点一点、手作りです。全く同じ一点、一点、お作りできます。』って」

目の前のウサギ最中を眺める。これは人の手で作った。

「…もうそれができるなら、人の手じゃないんかもしれん。今の世の中、それはもしかしたら、機械でできた手、かもしれん。人工知能で操作される手」

桃子は全くそんなつもりで言ってはいないのに、自分のことを言われた気持ちになった莉子は骨ばった両手をまじまじと眺める。左右対称の、機械の手。神様が好きなかたち。その手をテーブルの上に伸ばし、ウサギ最中の紙包みを丁寧に開ける。上下がぴったりと閉じて、継ぎ目がまっすぐで美しいウサギ。

「いただきます」

一口。また一口。

「おいしい。ほっとする」

年代物のクーラーがゴトゴト鳴っている。室内がひんやりしてきて、桃子は扇風機を止める。

「そうだ、熱いお茶淹れようか?暑い時には熱いものがいいんよ。特にニャンコみたいな暑さに弱い人にはね」

桃子は立ち上がりお湯を沸かす。

「桃ちゃん、わたしたち、『東京』から『箱根』の観光案内所に立ち寄ったのよね。その先の日本の旅はお預け?」

「うーん、そうじゃなあ。途中止めじゃ。いやあ、だけどもう暑すぎて昼間は出かけられんじゃろ。ニャンコは特に、暑さに慣れてないんじゃろうしなあ」

 桃子の言葉にうなずきつつ、最中の包み紙を折りたたみながら莉子はぼんやり続ける。

「あの頃も、いつも途中止めだった」

 あの頃の地図の上にまた二人とも戻る。

「だって毎回、北海道から始めるんじゃもん」

 未完成の地図を下り始める。

「『京都』はあの、岬の真っ赤な鳥居。あそこは何度か行けた」

「うんうん。『大阪』はごちゃごちゃした商店街。あれは今実質、シャッター街、よ」

「『鳥取』は?」

「鳥取」

「砂丘だね」

「砂丘には、危ないから子供だけで行っちゃダメだって、両方の親からこっぴどく言われててたね」

コンロの上で薬缶が鳴る。クーラーの音はかき消される。

「そうじゃな。行けずじまい」



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