第19話 桃子とニャンコ

 桃子が音楽堂を訪ねてきた。

 莉子が熱中症で倒れたと聞き、心配したのだ。

 本当はずっと前から杏の話す「リコ先生」が気になっていた。音楽堂に通い詰めピアノに調律を施す。

 学校で偶然会った時、どちらかというと「あわれ」に見えた。離れていた時間、どんなふうに生きてきたのか。どんなふうに生きると、「あんなふう」になるのか。

 他人を憐れむなんていう感情は嫌いだ。ましてそれがかつての友人。このままにしておきたくない感情だ。ニャンコを憐れむ、なんて。桃子は幼い自分に相談する。そうよなあ?

 桃子は最中ひと箱と水筒に麦茶を詰めて家を出た。暑いから和菓子って気分じゃないかもしれないけど。

 杏に書いてもらった案内図は、とてもかわいらしい。

 色鉛筆でこどもっぽく地図が描かれている。家、ボタンの家、柚子農園、車道、鉄の鳥居、(こんなの知ってた?)段差(気を付けて)緑のトンネル、下り、上り。

 案内通りに自転車をこぎ進む。

 本当だ。あった。こんなところに建物。子供の頃は、島じゅう駆け回って全部制覇したと思っていたけど、大人になっていつも決まった道、まっすぐな道しか通っていなかった。桃子は感慨にふける。

 ピアノが響く。

 耳塚音楽堂。

 入口は少し開いていた。後ろ姿が目に入る。今ピアノを弾くためにだけ動く身体。機械仕掛けのように無駄のない姿。

「ニャンコ」

 ピアノの音の途切れた合い間、桃子は呼びかけた。

 ニャンコは振り向き、驚いたあと遠慮がちの笑顔になる。

 桃子は全然用意していなかった言葉を口に出す。

「ちょっと出掛けない?」

 それを聞いた莉子のピアノが、とびきり明るい音色で終わる。迷うこともできたけどその時はピアノが言ってくれた。「莉子、出かけておいで」と。


「車がいい?自転車にする?」

 莉子と桃子は車道まで出た。車だと自宅まで戻らないといけない。

「モモちゃん、免許あるのね」

「まあね、必要だから。ニャンコも免許あるんでしょう。中学校教員、とか」

「うん。『だけ』、ね。車は乗れないけど、自転車だとオフロードもいけるわ」

 莉子の何の変哲もない自転車は、確かに泥除けは泥まみれで、かごはデコボコと所々打ち付けた跡がある。

「ホントじゃあ。これまで相当、道なき道を進んできた、って感じするなあ。普通のおばさん自転車なのに」

桃ちゃんが言うと本当にほめてもらっている気がするから不思議だ。莉子は子どものように嬉しくなった。

「そうだ。自転車で日本一周旅行せん?」

 桃子の言葉に莉子の顔がぱっと明るくなる。

「しよう」

 日本一周旅行は、桃子と莉子の子供の頃の遊びだ。島の景色を日本各地に見立ててサイクリングする。島の地図を描いてふたりだけの旅行地図を作るのだ。

 まずは北海道。土地の痩せた海岸沿いに、一面ジャガイモ畑の緑と上半分空色の景色がある。あの頃はインスタントカメラを首からぶら下げ、シャッターを切るふりをして二人交代でファインダーを覗いた。区切られた構図の中で、そこはもう北海道でしかなかった。

「北海道でお土産買う?」

「買う買う」

「じゃあ、れいずんバターサンド、ね」

(レーズンを、れいずん、というところがいい、と言われたんだっけ。あれからわたしは、レーズンのことはいつもれいずん、と寸詰まりで発音する癖がついた。)桃子は思った。

「さあ次は、どこ?」

「ずん、ずん、ときたらずんだ餅じゃな」

 桃子の「ずんずん」に合わせ、莉子も「ずんずん」と歌い出す。

 ジャガイモ畑から島の内へと脇道を入る。この奥には工場跡地。

「山形県!」

「えっと、蔵王、」

「はい、樹氷!」

 連想ゲームは思い出の答え合わせ。

 立ち並ぶ巨大な針葉樹が工場跡地をぐるりと囲み、生垣を形作る。人の三倍はあるむっくりとした木の形が、まるで雪に覆われた蔵王の樹氷だ。二人はあの頃、怖いもの見たさでよくここ『蔵王』へ来た。

「木、あれからもっと、大きくなった?」

「大きくというより、もっと気味悪い怪物になっとる。ほら」

 立ち入り禁止の柵をくぐり抜け、門の前に出る。どの木も上半分が枯れている。枯れた部分はひょろりと伸びあがり、うなだれた怪物はうつむいている。

「前に旅行した時はちゃんと門が閉まっとったよなあ」

今、鉄の門は片方が外れ地面に倒されている。もう片方は外れかけた蝶番でかろうじて門柱にぶら下がっている。

「時間が経ったんだね」

 莉子は門の前で呆けている。

「次は、どこ行くん?東京?」

 この島の旅行先『東京』は残念ながらもう存在しない。島に唯一あった地下道。地下鉄の駅みたいでまるで東京だと二人で興奮した。かつて工場へ通勤するために横断歩道を渡らなくて済む画期的な仕組みだと、当時はもてはやされたらしい。工場が稼働しなくなって、不良のたまり場みたいになって、塞がれておしまい。

「あれも今考えると苦し紛れの東京だったけどね。ニャンコ、実際の東京での、学生生活はどうだったん?」

何気なく尋ねたら莉子は哀しそうに笑った。

「あの地下道みたいなものだったよ」

 それ以上聞かなくても何となく色々が想像されて、もう聞くのはやめた。幼い莉子が、地下道にひとり立っている姿を想像して桃子は一緒に哀しくなる。

「ええっと。次は、箱根!」

二人は気を取り直して自転車をこぐ。この島の「箱根」はどこだったっけ。莉子は思い出せない。

「わたし、バスガイドしてたことあるんよ」

 不意に桃子が言った。

「えっ、バスガイドさん?」

「日本中。今みたいにガイドさん」

 木陰は次第に短く濃くなって、太陽光線を吸収し続けたアスファルトが溶岩みたいにどす黒い。

 桃子は島の東の先へとこぎ進む。海岸沿いの周回コースはガードレール以外遮るものがない。風が急に、海に飛び出してしまいそうな追い風に変わる。

「この島がいやでいやで、しょうがなかったん!」

「ん?」

「同じ毎日、同じ形、同じもなか!」

 ゴウゴウ鳴る海風とドウドウ鳴る波音で、会話が成り立たない。時間は戻らないと二人ともよく知っている。けれど「あの時間」、というかけがいのない「場所」がふたりともにあれば、いつだってそこで会えるのだ。

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