折り紙の手
第16話 水を得た魚
喫茶店に行かない日、月曜日。
杏はボタンと一緒に音楽堂へ向かっていた。二谷先生がここに毎日通っていると知って、ふたりも行ってみることにしたのだ。
途中で槇さんと鉢合わせした。ふたりがバス停側から下っていると、茂みの向こうから槇さんの姿が見えた。中学校からの上りがここで合わさって一本道になる。
「立ち入り禁止なのになんで槇さん、中学校に出入りしてるんですか」
「ああ、ちょっと。前から、これが習慣になっていてな」
「習慣?」
「学校の仕事が終わるとそのままこの道を通って喫茶店へ向かう。通りにくいところはこれで剪定しながら」
槇さんは作業着のウエストポーチから小型の剪定鋏を取り出した。
「けものみち、」
杏は心の中で付け足す。うさぎの。
そうこうしているうちに、ピアノの音色が聞こえてきて、すでに先生が来ているとわかる。
久しぶりに入った音楽堂は掃除が行き届いて空気が澄み切っていた。
先生は私たちに気が付いて手を止めようとした。
「気にせず続けてください」
槇さんが促すと、再び鍵盤に載った先生の手は続きを奏でる。何という曲か知らないけれど規則的に変化する音階が心地よい。
「ヘーキン率クラビーア、だ。ダイジュウナナバンヘンイチョーチョー」
ボタンはぼそぼそと言う。
「だけど題名、他にあるんだよ」
重なったと思ったら短く切れてすぐ次の音が重なる。終わりを忘れたピアノ弾きが永遠に手を動かし続ける。
「鍵盤のお掃除屋さん」
ユリと考えたんだ、そうこっそり言ってちょっと笑った。
弾き終えた先生は確かに掃除を終えたごとくさわやかな顔をしている。
「このところずっと調律をしていました。独学だけど何とか一通りできるんです。ピアノの調律って調律師さんと交渉しないとならないでしょう。あれがとても苦痛だからいつも自分で何とかしていました」
先生は時に苦痛を原動力にして物事をやり遂げる。
「調律したばかりだから、色々な曲を弾いて具合を確かめています」
音叉を手に、ラ、を響かせる。素早く耳に近づけ何か聴き当てている。
「良い音」
それから黙々と弾き続ける。ピアノが始まるとまるで先生にとって誰もいないかのようになるから不思議だ。
三人はピアノを聞きながらお堂の奥へ入った。無造作に積み上げられていたトランペットや、フルート、縦笛に、鍵盤ハーモニカ、どれも埃を払われ、種類ごとにきれいに並べられている。
「水を得た魚、だな」
槇さんはぼそっと言った。
「ピアノも、先生も、ですね」
みずをえたうお、うお?さかな、じゃなくて?ポケットでスマホを探る。
みずをえたうお、へえそうなんだ。意味は、本領発揮。適材適所。活き活きと活躍するさま。渡りに船。鬼に金棒。兎の上り坂。ウサギの。
「ウサギの上り坂、とも言うらしいです。兎は後ろ脚が長くて、前足が短い。坂道が得意なんです、と」
「そうだな。子供のころうちにいたウサギも、坂道を作ってやると喜んでたな」
ごつごつした頬骨の、まだ皺を作れない皮膚がオジさんという被り物になりきれていない。これは槇さんでもウサギおじさんでもない。
「こどもの頃、ウサギが家にいたんですか」
ただ頷くだけで、「少年槇さん」は槇さんにすぐ引っ込められた。杏にとっても急に現れた同い年かもっと幼そうな少年槇さんは、そう長い時間過ごせない部類だ。
先生が弾く曲はどれも地味で、古い教会でひたすら捧げられる音楽のようだった。
ボタンは帰り道に先生のピアノのメロディを口ずさんで歩いた。
「ユリが弾いて、わたしが歌って。わたしピアノはダメだけど、歌うのは好きだった。ラジカセに、その録音が残ってて。聞ききれないくらいたくさん、残っていて」
ふんふん、ららら、らりらりら、揺れてひだになって広がってかぶさる声。気持ちのいい響き。
ボタンは音楽堂に通うようになった。
先生のピアノをじっと聞くだけ。先生は何も教えないし何も伝えない。ただ自分のためにピアノを弾く。ボタンは床に足の裏とおしりだけ付けて体を丸くしている。お堂の入口はぴったり閉じているけれど、窓は開けている。そこから見えるボタンは大きなオルゴールの部品みたいに見える。
「今日もあの子、来てるのね、こっちじゃなくてあっちに」
ウサギおじさんは額縁の手入れをしながら微笑む。
「今日はこっちにも来ます。待ち合わせていますから」
実はボタンがあまりこっちにこなくなったのは事実だ。喫茶店で聞こえてくる「声」に耳をそばだてるボタンの横顔が苦しそうに見える時があった。と思うと恍惚の表情をしている時もあった。杏は何もできない。ただそばにいるだけ。
「近々台風が来るらしいわよ。備えは肝心よ」
倒れないように補強されニスを上塗りされた額縁は、向こう側の景色を別世界に見せる。ただのドアなのに。
「あとは、っと。溜まったコーヒーかすを片付けないと」
ウサギおじさんはすっかり乾燥したコーヒーかすを土に撒く。
「こんなの、砂になりますか」
杏は尋ねた。
「なるわけない、ばかね」
オジさんは地面にうずくまって窮屈そうに首を後屈させ、被り物が脱げないようにする。目の位置がずれて前が見えないのか、動かしても動かしてもスコップは周りの砂を集めない。
「女将さんが言ってました。コーヒーの出涸らしが砂になって困ってるって」
喫茶店の招待券をくれた時に女将さんから聞いたことをそのまま言ったつもりだったけど、何だか陳腐に聞こえた。そんなことあるはずないじゃないか。オジさんに言われなくてもわかる。
「前からここは砂が吹き積もる場所なの。変でしょ。島の東側なのに。砂丘はこっちにはないのに」
オジさんは、ちょっと黙ってこうも言う。
「コーヒーの出涸らしも、もちろん積もるけどね」
杏はウサギの頭を支えてあげる。落ちないように。
「風が吹くと積もった砂はまた飛んでいきますか?その、音楽が必要なんですか。風を吹かせるには」
これも女将さんが真顔で言っていたこと。
「そうね。そうなのかもしれない」
オジさんは否定しなかった。
「そうね。それで調律師、聴衆、演奏家、みんな揃ったわね」
オジさんは続ける。
「そうねそうね、女将さんに教えてあげないといけないわね。だけど…」
オジさんは黙る。心外なことを言わなければならないと黙る。
「何かがどうなるとこうなるからああだって、女将さん、いつも言うのよ。それって、信じているうちが華、なのよ」
「はあ」
「本人には真実なのよ。誰にも壊せないのよ」
先生のピアノはとてもやさしい。先生の音楽は知らず知らずのうちに他人を救う。他人から逃れるために得た先生の音楽は。
外ではこんなにきれいな音楽が流れるのに、喫茶店に、それは響かない。いや、響かせない。あの中ではお鈴が鳴るから、だからだ。きっとそう。
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