第17話 証明
ボタンが数日いなかった。ボタンに電話しても電源が入っておらず、試しに家を訪ねた。石畳みの階段を十数段駆け上がって門代わりの大きな松をくぐりインターホンを鳴らす。電子音のあと耳を澄ましてみても、何の返答もない。と、二階の窓のカーテンが少しだけ開いてすぐ閉じた気がした。しばらくして小柄なおばさんが玄関扉をそうっと開ける。
「おともだち?」
体と同じくらい小さくか細い声だった。
「あ、はい。同じクラスの。山根です。いつも、お世話になっています」
おかしな間があって何か言わなければ、と頭を巡らせるうち向こうから口を開く。
「ボタンは今、帰省中でいないの」
「キセイ、あ。お盆、ですね。」
「失礼しました」と言い置き踵を返して杏は石段を下りていく。その活発な杏の後ろ姿からボタンの母は目を背ける。
二日後。杏はボタンと喫茶ウミナリで会った。見たことのないようなあるような和菓子の包みを、ボタンは持っている。
「これ、おみやげ。おばあちゃんちに行ってたの、あ、おばあちゃんちって言ってもわたしたちが以前住んでた家のすぐ隣。時々家の風通しをしてくれてて。ああ、そんなことは良くて。…ごめんね。電話、持って行くの忘れてたから出られなかった」
受け取った包みの封をそろりと剥がすと、中から饅頭を取り出し手のひらに載せる。
饅頭の、まとう空気が心なしか澄んでいる。何だろう、湿度が低いというか。
「杏ちゃんのお母さんにも、よかったら。あ、オジさんの分、ない」
当のオジさんはそんなことは多分どっちでも構わない。杏は丁重にお礼を言った。そして、てのひらの饅頭を一言でどうぞ。と誰にも頼まれないのに、表現を考え続ける。
「このお饅頭、なんか、クーラーが効いてる感じ」
「ん?」
「ああ、まだ食べてないからわからんけどね、見た目とか雰囲気が洗練されてるっていうか」
「そう?クーラー?」
「いやあ、うん。まあね」
ちぐはぐなやりとりが終わると、ふたりはお鈴を選び始める。最近は鳴らす前からだいたい音が予想できるようになってきた。まず、形だ。大きければ大きいほど深く低く這うような音の響きを持っている。小さければその逆。そこに素材という要素が加われば響きの変化も実に様々で、同じ金属でも、例え見た目が全く同じに見えたとしても、金属の配合が違えば(配合が違うことも叩きながら勘付く)、音も微妙に変わる。最初の響きが同じでも余韻の部分になると音の幅が広がるものや、一定の幅のまますうーっと消えていくもの。
新しいコーヒーカップを選ぶように、何の予備知識もなくいくつかのお鈴を選び、バチを選び、延々ふたりで響きを確かめ合う。同じか、同じでないか。確かめるべきことはただそれだけだとしても、知らぬ間に自分の好みが入り込む。音だけでなく、手触り、重み、さらに、コーヒーを飲む時に唇に触れる冷たさ、温かさ、厚み。
「あ、この音。」
背筋を伸ばし両手を耳に当てボタンが、あるひとつのお鈴が放つ響きに耳をそばだてる。余韻を残しているものや、鳴った勢いを保ったものや、もうすっかり消え入る寸前のただの震えのようなものが入り混じった空間で、糸を手繰り寄せるように宙を片手で包む。
「お寺で聞いたのと似てる」
お寺、と言われて杏はピンときた。帰省した先はボタンがかつてユリと過ごした街だ。そこできっと形ばかりの「供養」を、もちろん、ユリがどこかで元気にしている場合もゼロではないとして、「祈り」と言ってもいいその儀式を、済ませたに違いない。そのことをボタンは言わないし杏も聞かない。
「お母さん、言ってた」
「ん?」
「杏ちゃんが訪ねてきてくれたって」
それが、迷惑そうではなかったのでほっとして、あの時初めて会ったボタンのお母さんに、また会ってみたいと少しだけ思った。けれど言わない。石畳みが思いのほか体力を消耗させたし、いちいち上り下りを繰り返し、暮らしから出かけたり戻ったりする日常は、でもだからこそあの家が守られている風で、そうしてお母さんがまるで海に浮かぶ孤島の灯台守に思えて、神聖だった。それも、もちろん言わない。
今日はラジオが混信しない。だからか、お鈴の余韻がずっと体に溜まっている。ボタンの言う「お寺のお鈴」がどれだか、杏は結局わからないまま、次のお鈴にとりかかる。
「今日はユリの声が聞こえない」
聞こえるように、ボタンは独り言を言った。なぜ独り言と断言できるかといえば、全く宙に向かって言ったからだ。
「以前、わたしよく友達からユリに間違われてた。だけど、自分たちはほんの些細な違いに気付いているから、違ってることはもちろんわかってた。『とても似てる』ことは、同じではないよね。ほら、数学の図形の問題で、あるでしょう。証明、って。同じであることを最終目標にするなら、最終的な結論から逆にたどっていって、小さな目標を設定するといいんだって」
もう独り言ではなくなっている。
「うん」
相槌に安心して、ボタンは続ける。
「だからまず、誰かから、ユリに間違われることを目標に設定したの」
「うん」
「でもね、誰も、もう間違わないの」
杏はなぜか頷けない。
「だって、ユリはずっと十歳のままだもの。もし間違うとすればそれは、ユリがいなくなったことを知らない、且つ、ユリのことを知っている誰か」
やっぱり頷く。二回頷く。
「そんな人、見つける方が大変」
ボタンは笑った。何かを果たすために何かを探す。本当に探したいもののために、まず探す探し物。途方もない、と杏は思って、もしわたしならどういう手順をとるだろうと不安にもなる。『証明』について考える。同じであることの証明、それは具体的には何なのか。同じだと、皆が思えばそれでいいのか。証明される側が「違う」ことを知っているのに、本当にそれで同じだと言える?
「違うよ」
思わず、杏は言っていた。「あ、ごめん、いやなんか、わかんなくなってきて」
今度はボタンが頷く。
「うん、ごめん。人にする段階の話じゃなかった。混乱するよね、」
ラジオが始まった。オジさんがふいにラジオをかけたのか、もうずっと流れていたのかわからない。ウサギおじさんはカウンターでお鈴を磨いている。
オジさんの目的は探しものだ。けれど杏とボタンふたりには実際何の目的もなかった。いつも通りお鈴を一通り鳴らし終え、気に入ったお鈴カップでコーヒーをいただき、一緒に宿題をした夕方、ふたりは店を出る。少しずつ日の入りが早まっていることを感じる、暑さの去った後の夕景だった。
「ねえ杏ちゃん。今わたしたち同じ音を探しているじゃない?っていうか、協力してるじゃない?やっぱり、客観的視点が必要だから、オジさんは他人を巻き込んで聞き比べているんだよね」
ボタンのこういうところ、尊敬する。客観的視点、だなんて言葉。ボタンがたどり着いた客観的視点。ボタンの「証明課題」で一番必要なのがきっとその「客観的視点」で、まずそれを探すのがめっぽう大変で。
「オジさんの主観と偏見が入らないように、じゃな」
「うん。じゃな」
ボタンは少し活気を取り戻したようだ。夕日はほとんど沈みかけ、丸い月は上昇する。自転車の車輪は四つ、坂道を転がる。
「これは、オジさんに聞いてないからわからんけど」
前置きをして杏は言う。
「音って反響するが。オジさん、あの店の構造や、壁の柱とか、コンクリートとか煉瓦とか、建材の力を借りて、何とかかんとか同じ音に聞こえるように細工しとんじゃないか、なんて思ったりもするんよ。だって、初めてあの店に入った時、音、歪んだんじゃが」
「ユガンダンジャ?」
ボタンが言うと、アフリカの都市の名前だ。杏は自分が本来言いたかったことを標準語で言い直す。
「ええっと、歪んだじゃない?」
「ああうん。わかる。ごめんごめん。馬鹿にしたんじゃないよ?」
「わかっとるよ。でもちょっとだけばかにしとんよ、なあ?」
「ううん、ちょっともしてないよ」
「いいんじゃ、いんじゃ」
真横で自転車をこぐボタンは「隠者、忍者、」とつぶやき続ける。
「この島で聞こえた初めての会話でね、わたし、武士の世界に迷い込んだかと思ったの」
そうしてボタンはちょっと考えて、『武士』に思えた言葉をいくつか教えてくれる。よかろう、そうじゃ、いかれえ、……
「へえ、武士かあ。それはある意味、この島に入った途端、音が歪んだってわけじゃな」
ボタンの指摘した方言はどれも杏の日常にある音だった。じゃあボタンのそばにあったはずの日常には、どんな音があったのだろう。杏は改めて耳を澄ます。
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