第14話 ウサギおじさん


 あれは、槇さんだった、と思う。


 あのウサギの被り物、珍妙でおどけた、あの雰囲気。

 槇さんと似ても似つかないけど、でもやっぱり、背格好といい、体つきといい。ああでも、声。声は違ってた。

 声はあの建物に何か問題がある。外の音を遮断する構造とか。

 ああそれに、たくさんあるお鈴も、何か響きを変えてしまっているかもしれない。


 あれからも最中の配達で時々旅館を訪れる。そのたび、槇さんがいつものように自転車置き場まで迎えに来てくれた。無言だったり、機関銃のように一方的におしゃべりだったり。全部含めていつもの槇さんだった。


 ボタンとは喫茶店以来、何度か会っていた。いつも大抵、杏の家だ。

 一緒に宿題をしたり、昼ご飯をうちで食べたり。学校ではあまりしなかった家族の話も少しだけした。どうやらボタンの家はお母さんが昼過ぎまで寝ているらしく、気を遣うらしい。


 また喫茶ウミナリへ行こうと言い出したのはボタンだった。

 旅館の女将さんに勧められたお店だ。当初お店やウサギおじさんに抱いた不審さは打ち消した。

 第一、ウサギおじさんが槇さんなのは明白だ。ただなぜ、そんなことをしているのかは不明だけど。


 二回目は馴染みの客のように入口の扉を開けた。

 ウサギおじさんは留守だった。

 

「不法侵入にならない?」

「一応、営業中の看板、あったよ」

「じゃ、中で待ってたらいいかな」

 前と同じ席に座ってみる。

「ウサギのコスプレ、ちょっと怖い?」

 ボタンは小声で言う。つまり少し怖がっているらしい。

「コスプレ?頭だけだから着ぐるみより怖くない」

 子どものころ、着ぐるみの人形が近づいてくると怖かったことを杏は思い出していた。頭だけ被ってるのはそれとは違う。

「あのオジさん、何者なんだろう」

 ボタンは槇さんを知らない。普段関わりのない学校の用務員さんを覚えているとも思えない。

「女将さんの懇意だとは思うよ。だから安心だよ」

「こんい、って?」

「ああほら、親しいってこと」

「前から思ってたけど、杏ちゃん、言葉が大人でかっこいい」

 懇意、の使い方間違ってないかな。褒められると何だか不安になる。杏は早速ポケットから買ってもらったばかりのスマホを取り出し、こんい、と打ち込む。意味がズラリと並ぶ。


 ええっと…。①信頼し親しくしている人物のこと。

女将さんが懇意にしている人物とは、女将さんが信頼し親しくしている人物である、という意味。オーケー。


②第三者に対して間柄の親しさを説明する場合。

第三者である杏が、友人のボタンに対して「ウサギおじさんは女将さんの懇意だから心配ないよ」と説明する場合に用いる。友人のボタンは第四者(?)まあオーケー。 

 

 …あれ、待てよ、でも。ウサギおじさんが女将さんの懇意なわけじゃない。まだそこは確定じゃない。あくまでも懇意なのは…。


「おやあ、ご来店?してらした?お客さん来ないからつい留守にしちゃってごめんなさい」

「…槇さんですよね」

 婉曲的に聞くのが理想だったけど、直球で聞いてしまった。ウサギおじさんは一瞬黙って被り物に開いた小さな針孔はりあなの中の目を白黒させた。


「わたしが、『マキさん』。はあ、」

動揺はしかし、すぐに吸収された。

針孔の目がウサギに描かれた黒に同化したのがわかる。


「確かにはい…。そうでした。どこにでもウサギおじさんっていうおじさんは住んでいるんです。ただ、あなた方が会ったのがたまたま、その状態のわたしだったんです」

その状態のわたし?それはどの状態のどのわたし?とりあえず、ウサギおじさんが槇さんと懇意、ううん、懇意どころか、かぶってる、…被ってる?

「被ってる。それ、そのウサギ、ただ被ってるだけです。槇さん、ですよね?」

「被る。それは、重なって見えなくなっている、ということが言いたいのでしょうか」

「重なって見えなくなっている?その、ウサギの被り物で?」

だから、見えなくなっているのは槇さん、でしょう?


おじさんははっとしてこちらを見た。もちろん、ウサギの顔をして。

「えむ、えい、けー、あい、マキさん」

深く深く、槇さんはウサギをうなずかせる。

「そんな名前だったですかね。それもしてみたおじさんのひとつです。ウサギおじさん、が型になってあとはもう悲喜こもごも。色々してみた結果、元に戻ってウサギさん」

カウンターに回ったウサギおじさんは、冷蔵庫から、「寝かせていた」というクッキー生地を取り出し、眠り具合を確かめると一瞬首をかしげ、はがしたラップを丁寧に巻きつけ再び冷蔵庫へ戻した。


「槇さん」を「してみてる」とはどういうこと?

 杏は考えの中心に穴を開けられたような気分だった。あのくらいの齢になると、何者かをしてみたりしてみなかったりできるの?被ったり、重なったり、ダブったりしながら?

 女将さんとは対照的だ。女将さんは女将さんとして寝起きしている。いや、もしかしたら、齢の取り方の見せ方も自由自在なくらい、誰かを「してみる」ことに長けているとか。


「じゃあ、槇さんって、元々ウサギおじさんなんですか?」


おじさんは哀しい笑顔をして言った。

「まあ、」

一旦止めた手を再び動かし始める。

「まあいいじゃあないですか。そうそう、これからメロンパンを作るんです。一緒に作りませんか。良い気分転換になります」

オジさんは手を打ち鳴らすと、奥のキッチンで小麦粉を計量している。

「強力粉、に、お塩に、ええっと、」

ボールにポンポン材料を入れてはあちこち移動し、最後にカウンターへ出てきた。

「さ、捏ねましょう。夏休みの宿題ばかりじゃ、手がなまります」

急かされて、杏とボタンは席からカウンターへ回る。


「探し物をしている時は、手をあんまり自由にし過ぎない方がいいですよ。手が自由だと要らないことしがちなの。たくさん食べちゃうか、たくさん買っちゃうか、そんなところ」

「さがしもの?」

「自分は探しているつもりはなくても、手が探してたりもする」


オジさんはうつむいたまましゃべる。

「リコちゃん、毎日探している」

(りこちゃん?)

「ああ、ほら、莉子先生よ。最近ピアノを調律し始めた。こちらは調律師を探していたから、ちょうどよかったの」

またオジさんはうつむく。

「先生は音を探しているみたい」

捏ねくりまわしたパン生地からやっと両手を離したオジさんはぽつんと言った。始め粉まみれだったてのひらはきれいなピンク色をしている。

「はい、どーぞ、捏ねて」

三人はパン生地を三等分(ややおじさんの分が多い)して、こね続けていた。ふんわり温かみのある生地は自分の分身のような気持ちになって不思議だ。

「あのね、同じものをいくつもいくつも作ると、きれいだから売り物になるんです。だからよろしくね。同じ重さの生地をまあるく形にして、左右対称のきれいなパンに」

「神様が好きな左右対称の世界。つまりひっくり返すと入れ替わることのできる世界」

「ひっくり返す、裏返す…。じゃあわたしも、元はユリだったっていうこともあるのかな」

ボタンがつぶやく。

「そりゃあ、元の方がその、ユリさんで、仮の方がボタンさんだっていう言い方?考え方?思考方法?発酵具合によっては?ある、とも言っていいんじゃないでしょうか?」

絶対、知らないはず。ボタンの事情なんて。仮のボタンの、何だとか。杏は途端にオジさんが胡散臭く思える。でもその適当な答えが、案外ボタンに受け入れられているのもわかって杏は騙されたような気分になる。

「右と左、どっちが本物なんですか」

言ってから、杏は急いで否定する。「ああ、別にボタンとユリさんの話じゃないの」

「ややっ。またまっつあ、とんでもないことを思いつく。どっちが本物、ってそれどっちからニセモノになっちゃうでしょう。パンはパン。おんなじパン」

三人は無言でうつむく。


 さっき右と決めた方がどっちかわからなくなってまた捏ねる。また捏ねて左と決める。すると千切れてみっつになる。どれかに混ぜてひとつにする。そして千切ってふたつにする。くりかえし、くりかえし。

 気持ちが練りこまれる。イライラが千切れて割れてバラバラになってひとつの、丸いパンになる。


「パンのね、どんなに同じにしてもしても、同じにならないところが大好き」


 大好きなものの説明をするなんて槇さんに似合わない。状態が違うといえばそうかもしれない。杏はこの人が槇さんだという事実をもう一度疑ってみたりもする。

「出来上がったパンの中に発酵段階でできた小さな部屋がいっぱいあるの、わかる?」

「発酵して膨らんだ気泡の穴ですか?」

「そうそう。みんな違うでしょ。だからどんなに同じにしても全部同じなんてありえない。でもね、限りなく同じにしたつもりなところもまた、好き。さあメロンパンにしましょ。クッキー生地の帽子を被せるわよ」

みんなでパンひとつひとつにクッキー生地を被せる作業に移る。被せるだったり包むだったり、生地の硬さによって微妙に手の感覚が違ってくる。

カウンターの奥の扉を抜けると半戸外となって石窯があった。

「ここで焼くの」


 いつもしているという風におじさんはトレイの上の、全てのパンの間隔をもう一度調整して窯の中に入れた。

「火加減炉内均一化よし。さあさ、焼けるまで中で待っていましょう。コーヒー淹れますヨ」

 二人はおじさんに急かされて中に戻った。


「あの窯、とても古そうですね」

 ボタンが尋ねた。

「そうね。多分ね。なんだか、この辺りはお鈴の産地だったとか…。店にたくさんあったの、見たでしょう。お、り、ん」

「でも、お鈴って、金属製ですよね。お店にあったのは金属ばかりじゃなかった」

「そうね。試行錯誤の結果、あのように種々のお鈴となっているようです」

「この窯はパンのために作ったんですか」

「いえ、これも、やはりお鈴のためだそうですよ。色々な作り方があるらしいの。型作りの段階で窯焼き作業があったらしく。わたしも詳しくは存じませんのです」

存じませんと言いつつ、一度は深く理解したから知っているようにも感じられる言い方だった。

「残念ながら、お鈴としては一度も使われなかったものもたーくさん」

そのお鈴のなりそこない、はどこに葬ったんだろう。

「同じ音のお鈴をつくりたくて、たくさんたくさん、作った結果らしいです」

 らしい、の話がまだここにもあった。

「同じ音出せると何かあるんですか」

 ボタンが尋ねた。

「神様が喜ぶ」

 オジさんがにっこり笑った。(あくまで推測だ)

「喜ぶと何かいいんですか」

 今度は杏が尋ねる。

「神様が怒らなくなる」

 またにっこり笑った。(ように見えた)

「神様、怒るとどうなるんですか」

 ボタン。

「手に負えない」

 にっこり。

「それって、」

 視線がもつれ合う。

「ほんとに神様ですか。手に負えないほど怒るって」

 一瞬槇さんになった。見逃さない。

「やあ、本当だ。違ったのかもしれない。なぜそこに早く気が付かなかったのだろう」

 すぐ、ウサギおじさん。

「まっま、ともかくもコーヒーを淹れますから」


 やはり、その日もふいに始まったラジオは雑音が目立っていた。カウンターから遠く離れた二人のいる席に、本来流れている音楽は聞こえなかった。

 また、ボタンが何かに耳を傾ける。杏には聞こえない。杏に聞こえるのはザーザーガリガリ、キューキュー細かく切り替わっては声にも音楽にも成りきれない音だけだ。

「何聞こえるの?」

杏の声が届いて、ボタンは手を止めた。手は宙を仰いでいた。

「聞こえないの?」

ボタンは不思議そうにこちらを見つめながらも不可解な仕草で杏の声以外の音を集める。それは耳の聞こえないウサギに似ていた。


「おや。むすめさん。もしかしてあなたは何か別のものになろうとしていませんか」


 オジさんがそう言うと、そうしていることになってしまうから怖かった。

 ここはウサギおじさんの法律で全てが運ぶ。そのことに杏は気づいていた。そのことに二人は安心もしていた。安心は怖い。未来のことを考えなくていい。二人の未来は不確定の方が大きくて安心がとても貴重だった。

「何か別のものになると決めたら、その練習をするのです。わたしはウサギになりたかった。ウサギはまず静かに型にはまる。すっぽりとはまる。それならまず型を作らなければならない。わたしがすっぽりとはまるウサギのかたち。はて。しかしわたしはまずウサギの形をしていない。わたしがウサギのかたちになるために、わたしはその型にはまってじっとしていればいいのだろうか。わたしは一生懸命考えました。何が正解かわからない。方法がどこかにあれば従うけれどどこにもなかった」

朗読している。一度どこかに書いたもの。憶えるくらい書いたもの。文字になるくらい憶えたこと。

「わたしは父がしていたように人形を作った。わたしの知っているウサギ。思い出の中にいるウサギをわたしは作った。不格好だけど、満足だった。被ってみたら、落ち着いた。多分、外側がウサギかどうかなんて関係なかった。何かにすっぽり覆われているとこんなに落ち着いていられる。父が自分と同じ形の人形を作っていた理由がわかるような気がしました」

もしかすると今、演じ切れていなかったのかもしれない。槇さんがいた。目の前に懇意の槇さんがいる。槇さんが憶えるくらい思ったこと。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る