第13話 莉子のアパート


 ももちゃんももちゃん、桃、モ、モ、

 先日、桃ちゃんに偶然出会ってから「モモ」っていう音が気になってしょうがなかった。ふとした拍子に音が始まったら止まらない。でも素敵な音ではある。ふんわりした音。あったかい、大きな丸が延々描かれる。

 今日助けてくれたのは桃ちゃんの娘さんだ。ちょっととんがった雰囲気がして実は少し警戒していた子。もちろん生徒に個人的感情は抱かないようにしてはいるけれど、今までの経験から、多少警戒するくらいが自分を守ると知っている。中学生は感情のエネルギーコントロールが効かないことがある。まともに受けると立ち直れない。だからまともに受けない距離を置く。そこから観察。

 生徒から観察されているのが自分だとは、気付かない。それくらいいつも一生懸命に生きていた。滑稽な、莉子先生。

 アパートの部屋には防音壁を自分で張り詰めた。波の音を気にし始めると止まらない。この町にいたのは小学生の一時期だけだった。この波音の中、生活できていたんだから幼い自分を褒めてあげたい。それともあの頃はこれほど病的ではなかったということか。友達もいて、一番幸せな時代だったのかもしれない。桃ちゃんが自分を覚えてくれていて嬉しかった。わたしはもちろん忘れない。もも、っていう響き。優しい音。

 中学から、東京の音大付属の中学へ行った。そこからは友達らしい友達はできなかった。みんな必死で、聞こえるのはピアノの音だけだった。

 島から出て、新しい家に、また新しいピアノが据えられた。その「家」の空気がとても苦しかった。音は空気を伝わるから、どんなに心地よい音を響かせたって、響いたその当初から苦しめる。苦しめて苦しめて練習は苦しさを少しも和らげない。ただ耐えて慣れて自分から遠ざかって初めてみたいにまた繰り返す。

 わたしの実家のピアノ。休めているかな。音さえ出さなければ苦しくないのか。

 頭の中で、砂丘に半分埋まったピアノを眺めていた。靄のかかった砂丘は上っても上っても足が思うように前に進まない。先に出した方の足と次に出した足、互い違いになって動かない。いつまでも縮まらない距離。ただ黙ったまま、遠くのピアノ。

 靄はいつも海を隠していた。

 莉子が見る海はいつもよく見えない。

 砂丘で倒れていた日の朝、あの時だけは波音が心地よくていつまでも空を見上げていた。

 音は全部、砂に引き込まれて消えていく。わたしの体は砂と一緒に温められていった。

そうだあの時、嘘みたいだけど、海に初めて入ってみたんだ。

 枠のない海。


次の日から莉子は毎日、ウミナリ音楽堂へ通った。大丈夫。あそこは海から離れたところ。


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