第11話 杏
普段は鉛筆なのに、そのノートにはシャープペンで書いた。それが当時杏なりの、「大人の流儀」だった。
母が離婚して、わたしを連れて島に戻ってきて、馴染んだ頃に祖母が亡くなった。わたしはすっかり島の子で、始め違和感しかなかった方言も、今は場面で使い分けられる。
すっかり大丈夫なはずだった。
元々いなかった、と言われても平気なくらいだ。会いたいなんて、思うはずがなかった。あんなだらしのないお父さんもゴミゴミした街も、好きだったわけではなかった。なのに、なぜか不意にそれは訪れた。
とてつもなく心がぎゅうっと押し潰されて仕方なかった。押しつぶ「されて」いるという表現は、外側から踏みつけられているイメージだけど、踏みつける足は、紛れもなく母の足で。ああ、わたしは、この状況が全部母のせいだと思っている。その自分もまた許せなかった。父と母にずっと一緒にいてほしい?ううん、それも違う。何がそんなに苦しいか、わからない。わからないから書いた。
「真っ白」がやがて文字で埋まりお気に入りのシャープペンの芯がなくなって、カチッと鳴る瞬間。
読み返すと書いたのがもう自分かどうか曖昧になっている。さっきの、苦しんでいる自分がノートに保存される。まだ何も書いていない真っ白いページの束が毛布みたいに、苦しそうなわたしに被さっている。そこに居たらいい、とわたしはわたしに伝える。
頭の中身がさっきよりちょっと軽くて、ノートは少し、重くて。
それを味わったら、もうクセになっていたんだ。
耳塚音楽堂に初めて行った、海の日の晩、杏は物語を書き始めた。
(なぜ、生け贄が必要だったのか、の物語になるんかな?)
耳塚は今この町でぼんやりとした地名だけになっていた。それが、「生け贄のウサギの耳」だなんて想像する人はいない。
そして自分でもまだ、想像しきれていない。
『兎の耳には、この世とあの世をつなぐために大きな穴を貫通させられた。そして二枚合わせて紐で結わえられる。生贄のウサギはそれから舟に載せられる。あの世とこの世、両方の声を聞くために』
まるで見たかのようになるまで、絞り出して想像する。想像は不思議だ。その時は想像でしかないのに、数日するとまるで自分の作り出した世界がどこかに在る、と、認識が変わっている。
杏はお風呂のあと、夜風に吹かれていた。今自分が受ける風が小さな鳥居をくぐったかどうかなんてどうでもよかった。けれど、ひとりでに始まるのだ。色のない世界。音のない古い映画のよう。
ウサギの耳が眠る土の上、楽器が音を忘れてゆく。
左右対称にぴんと張りつめた耳。
神様は美しいものが好きでした。
美しい響きを聞き分ける耳。聞こえないはずの声を聞き遂げる耳。聞いてほしかったのは誰だろう。誰が誰の声を聞きたかったんだろう。
二谷先生はピアノを得た。先生はきっと良い耳を持っている。耳塚音楽堂にふさわしい耳。
杏は先生の耳を思い出そうとしたけれど、上手く思い出せなかった。
まだうっすらと湿った髪の毛を両手でくしゃくしゃかき混ぜて空気を通した。
ウサギは白い。白いは背景。背景は遠い。遠くて何も。自分とは関係のない。関係のない、むかしのはなし。
夜、ウサギたちは音を立てずに草をはむ。夢見ごごちでタオルケットにくるまり杏は眠りにつく。
朝。外で母が奇妙なひとりごとを言っている、と思ったら、ウサギと話していた。
早くに寝てしまった杏は目がさえて階下に降りる。昼間なら蒸し暑さと同化して湯気の目立たない鍋から、くっきりとと白い湯気が立ち上る。
「あ、今笑った」
母はじっとウサギたちを観察しながら言った。
「ウサギって笑うん」
杏は一緒にウサギを見る。
「犬が笑うのはよく見るんじゃけどなあ」
朝日の中で草をはむ彼らが笑っているのか、杏にはわからなかった。
小さな生き物たちは何も考えていないようだった。無神経で無垢な、何とでも解釈できる白だった。
(このあいだは、優しい気持ちになれたのに。)
くるくると変化する気持ち。無理やり絞り出す優しさのあと、ふと浮かぶ残酷な気持ち。理想的な解答はわかる。
「かわいいうさぎ。白くてふわふわして、守ってあげたくなる」
—でも、自分の本心が、その解答と同じではないのもまた事実だった。なりたい自分は優しくて思いやりがある自分。しかしまっすぐに突き進む、破壊したい力みたいなものが確かにあった。制圧困難な、「奥底にいるほんとの自分」みたいなもの。この認めたくない自分の中の力を、生け贄を捕らえていた遠い過去と結びつけることが、馬鹿げているというのもまた、確かなのに。
「今日、塾だから」
杏はそれ以上考えたくなくて、うちの中に戻ってさっさと支度を始める。まだだいぶ時間があるけどウサギを眺め続けるよりは気が楽だ。
自転車のペダルに力を込める。上りきったら、目の前に広がる島々。朝日を受けて海が輝く。それはただ眩しさ。見えるって、ちょうどいい光のなかにいる時だけなんだな、って当たり前のことに気付く。
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