第10話 ウサギ伝説
生け贄のウサギの話。
初めて聞いたのはやっぱりあの作業場だった。ウサギの型をひとつ、杏がポケットにしまっていたのを、おばあちゃんに見つかって。
優しいおばあちゃんの声がいつもと違って聞こえた。ウサギが型になった理由。
あれは、いつものように店の作業場で宿題をしていた時だった。
杏が年長さんの頃だったと思う。まだ配達先の人間関係がよくわからない母を連れ、祖母も配達に出ていて作業場には杏ひとりだった。
手持無沙汰にガラスケースの中のウサギ型を眺めていた。ケースの中はいつも清潔で、無音だった。潮騒の絶えない作業場なのに。
型は一定の間隔を空けてぽつぽつと並んでいた。どれも同じのその中に、一番お気に入りのものがあった。うずくまって眠っているような顔の一番右端のウサギだった。
気付かない程度の微妙な違い、その「違い」が杏にはわかって、それで気に入っていた。
ちょっと触ってみたいだけだった。ケースの扉はカラカラと音を立てて簡単に開いた。そっと手に載せた。思っていたよりずっと冷たくて艶やかだった。ポケットに仕舞った。今晩一緒に眠りたくなった。明日返せばいい、そう思った。
夕方になり仕事がひと段落つくと、いつも通り杏と母は家路についた。しかし間もなくおばあちゃんがうちを訪ねてきた。
「杏ちゃん、うさぎさん、知らん?」
おばあちゃんは、息を切らせていた。
「ウサギさんにな、波の音聞かせちゃいけんの。自分が神様のところに行く仕事があるって思い出してしもうて、もう戻れんくなるんよ」
杏は、祖母が何を言っているのかわからなかった。けれど自分のせいで何か取り返しがつかないことになりそうだということはわかった。
「戻れなく、なるの?」
「そう。昔、うちのご先祖はウサギさんたちを運ぶお舟を造っとったんよ。ウサギさんたちは神様への贈り物なんよ」
「かみさま?」
「そう」
「お舟は戻ってくるの?」
「いんや。もう、戻ってこん。お舟は波にのまれてしまうけん」
「お舟なのに?」
「神様への贈り物になるっていうのは、そういうことなんよ」
「杏が持っとるそのウサギさん、今晩お舟で連れていかれてしまうんじゃ。波の音、聞こえてしまうけんな」
杏は思わずポケットからウサギ型を取り出して、おばあちゃんに渡した。
「帰してあげて」
その時は、そこでおしまいだった。
それから数年しておばあちゃんは病気で亡くなった。最後は入院し寝たきりだった。今後、人工呼吸器や点滴栄養などその他もろもろの延命処置をするかどうかで親戚中もめた挙句、「する」と決めた家族面談の日、あの世へ旅立った。
おばあちゃんのお通夜で、お棺の前に食べ物やお花と一緒にからっぽの最中がひとつ供えられていた。
「覚えとる?前に杏がお着き菓子のからっぽの方は誰が食べる、って尋ねたが」
幼い自分の問い掛けを母が覚えていることが意外だった。
「からっぽの方は誰も食べんのよ。亡くなった人が入る舟」
おばあちゃんが亡くなっても今朝の母はいつもと同じように最中を作っていた。
最中がおばあちゃんの乗る舟なら。
きっと今までで一番上出来な舟なのだ。どれにしようか毎日試行錯誤していたのだ。少しずつ母娘の別れはできていたのかもしれない。今朝、餡子を炊く母は一層清々しく見えた。
「こんな小さな舟、おばあちゃんは入れんよ」
母を慰める言葉はたくさんあるはずなのに口から出たのはそんなことだった。母はお鈴をちーん、と打ち鳴らし手を合わせてまっすぐ前に向き目を閉じていた。
「いつか入ることのできる大きさになる時、このからっぽの最中に入るんよ」
「いつか入ることのできる大きさになる?」
「今はお棺に入るけど、もっとずっと先、別の何かに生まれ変わる時必要なんよ」
杏も母に習って手を合わせる。まだここに祖母はいるのに別の方に向かって手を合わせるのは変な気分だった。
「別の何かに生まれ変わる時に包まれるもの?たまごの殻みたいなもの?」
「うん、まあそうじゃな」
「じゃあ貝殻とかかな?」
杏は思い付くまま言った。でも何を言ってもはずれな気がした。
厳粛な雰囲気は始めだけで、夜が更けるにつれ祖母を話題にするただの集会になっていた。最中は他のお菓子に紛れ込み、食べる人も食べない人もいた。そして母に労いの言葉をかけたあと決まって皆、こう締めくくった。「白兎屋、もう畳んでもええんよ」
そのたび母は曖昧に笑顔を作ってやりすごした。
親戚といっても皆、本土に住んでいた。祖母の兄弟姉妹は戦死や病死でもう誰もいない。十数年前祖父が亡くなり、祖母ひとりではどうにも白兎屋を続けられなくなり、跡継ぎについて親戚中無関心を決め込んでいた中、家業を継ぐときめたのが桃子だ。ちょうど離婚して島へ戻る決意を固めたところだった。
止めるも続けるも自分で決める、でいいんじゃないか。端から見ていて杏は母が気の毒になったものだ。
「ずっとむかし、この家のご先祖さまはウサギを載せる舟を作っとったんよ」
親戚中が帰宅したあとの台所。洗い物が一段落した頃、母は話始めた。ウサギと聞いて杏がこの島へ来た当初の、祖母が語った話とつながった。
「ウサギはもしかして、神様への贈り物?」
「杏、知っとるん?」
「おばあちゃんからだいぶ前に聞いた」
親戚たちに手をつけられなかった最中がいくつもテーブルに並んでいた。杏は最中をひとつずつ丁寧に箱に入れ蓋をし、母の視界から片付けた。ちょっとでも母の気持ちが軽くなるように。
「まあ、神様への贈り物っていう言い方するとオブラートに包まれてとるけど、」
娘の気遣いが嬉しいのにこれからする話が全然娘を明るくさせないということが情けなかった。
「ウサギは生け贄なんよ。うちは、ウサギを捕って、それを舟に載せて神様に捧げるっていう仕事を昔からずっとしとった、って、わたしもむかし母さんから聞いたんよ。杏、知っとったん」
杏は、さっき通夜を終えたばかりの、和室に寝かされた祖母の布団を呆然と眺めた。
「いくら歴史があってもあんまり誇らしい歴史じゃないから、語り継ぎたくないよなあ。もやもやと言い伝えられたから、みんなもやもやとしか知らんの。でもそのもやもやでさえ伝えんでもいい。もう、とにかくウサギの型の最中なんか止めたらいいんよ」
コーヒーメーカーがカチリと止まる。台所じゅうにコーヒーの香りがたちこめる。珍しく濃いコーヒーを淹れた母はがぶがぶと飲んではカップに注ぎ足す。
「全部止めてしまえば語り継ぐ必要もなくなるんよ。なんでウサギなん。なんで最中なん、って」
「その、生け贄を捕らえて捧げる仕事は、誇らしいん?」
杏はどう考えたらいいかわからなくて尋ねた。ずっとずっと昔、自分の先祖が長きに渡ってウサギを殺し続けてきた、という。無意味に。あるいは、意味をこじ付けて。
「当時。ウサギを捕って神様に捧げていた当時は、むしろ誇らしかったんかなあ。心の中でどう思っとっても、誇らしいと思わんわけには暮らしていけん、かもしれん」
杏は複雑な気持ちになった。
「でも自分がしたくて、というより義務として、誰かに望まれてするんよなあ」
「うーん、母さんも曖昧にしか聞いていないからよくわからんけど、多分なあ。役割として、するんじゃろなあ」
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