第9話 耳塚音楽堂
外はすでに昼前の熱気が空からも地面からも押し寄せていた。それを押し戻しながら藪をかき分け槇さんに続く。
「暑いですねえ。蚊がいないのが救いです。風が強いからでしょうか」
といっても、吹くのは熱風だった。槇さんは学校の裏手へ廻り、急斜面の細道を登り始めた。歩き始めてまだ数分だったが、汗が額から流れた。
周囲は奔放に伸びた枝葉が身勝手に重なり合って、歩くスペースは道にしかなかった。
「でも印象と違って、なんか、歩きやすいですね」
「ここはよく歩く」
頭上の枝は整理され、道幅に剪定がなされている。よく歩く?
「こちらに、その、ピアノが?」
莉子先生が先に質問したので、口から出かかった言葉は内に押し込めた。当の先生は、抱えた楽譜がしわにならないか気になってそれどころではない。槇さんは、まあまあ、ついて来てください。とたしなめて歩く。
しばらく沈黙が流れた。
「今日は何の日か知ってるか」
槇さんがゆったりと振り返り言った。
「何かの日なんですか」
「海の日」
「海の日に人と連れだって山に登ることがワタシの人生に起こると思っていませんでした」
三人での会話に少し慣れてきた。莉子先生も加わってほしい時の槇さんは律儀に言葉遣いを変えている。
「それはわたしも同じです」
と、先生はやっと口を開く。
「わたしも」
どうやら全員一致のようだ。
一体感が生まれたところで槇さんは気を取り直し迷いなく歩く。
「…耳塚音楽堂」
息切れの最後、見上げた建物はつい最近訪れた場所にあった。
「ああ、ここ」
「最中屋、知っているんだな」
杏は周囲を見回し頷いた。例の喫茶ウミナリの敷地内、あの招待状の地図通りだった。あの時は喫茶ウミナリに気を取られてわからなかったが、ちゃんとどちらの建物も同じ木々の間に、同じ敷地と言っていい場所に存在していた。
「ここ、こないだ」
「ああこないだ」
と相槌を打ったのに、こないだがどのこないだかを確認する間もなく槇さんはずんずん先へ行ってしまう。
「この島に古くからあるお堂です。耳を葬る場所でした」
槇さんはさらりと言った。
「耳を葬る、ですか」
先生は尋ねた。
「元々は耳を。いつからか楽器も葬るように」
槇さんは入口の扉を開き二人を招いた。重い扉は誰かを通すことに慣れていないようだった。壁際にピアノがあった。何の変哲もない普通の黒いピアノだ。
「しかし、ピアノはこれが初めてなんじゃないかな」
槇さんは椅子に腰かけると蓋を開いた。ピアノの、何が初めてなんだろうと思ってすぐ、葬られることが初めてなのだと気づく。葬るという普段あまり使わない言葉がピアノにも、それから耳にも相応しくないことは杏にもわかった。
「誰が持ち込んだピアノか、知りません。ワタシがここに来た時には既にありました。女将さんに尋ねたがやはりわからないそうです」
「女将さん?」
先生は尋ねた。
「ああ、ワタシ、旅館に居候しているんでして」
槇さんはそこまで言うと、立ち上がり、代わりに先生に席を譲った。
「どうぞ」
先生は吸い付くように鍵盤に指を置いた。
メロディは流れ始めた。あんなに大事に抱えていたのに、楽譜など見ていなかった。先生は学校で見るのと違って優雅だった。授業中、先生がピアノを弾く姿はとても滑稽だったから。
椅子の足まで覆いつくしたグレイの広々したスカートから先生の裸足の指先が突き出ている。あとの部分は鳴っている。嬉しくて泣く方法がわからなくて鳴っている。先生が音楽堂に同化している。
ピアノのある広間の隣が一段低く控室のようになっていて暗がりにあらゆる楽器が積み重なっていた。「すでに何度か崩れたあと微妙なバランスを保って、今に至る」と降り積もった埃が物語っていた。
「どう考えてもここは楽器の『墓場』なのに、『音楽堂』といわれる理由はよくわかりません。ここは旅館の敷地なので女将さんが知っているのかもしれません。ワタシがこの町へ来てうん十年。今までここで楽器が演奏されるのを目にしたことがありません。そもそも捨てられた楽器の中で使えるものはこれだけです」
そうだ、楽器には「捨てる」を使う方が合っている。特に楽器を習ったこともない杏にはなおさらそう思えた。では耳は。耳はやはり体とは別にして葬るもの。
弾き終えた莉子は鍵盤を撫でた。
「このピアノ、多分、わたしのピアノでした」
広いスカートが風で揺れる。裸足の足はすっくりと立つ。
「どういうことですか?」
「この島に幼い頃、二年ほど住んでいました。引っ越しの時、ピアノは置いていきました。島から運び出すには運搬費用が掛かりすぎる、って。ピアノは天井に近い場所に窓がひとつだけの、縦長の部屋にありました。まずどうやってピアノを運び出すか、が問題でしたから」
興味深そうに聞いていた槇さんが言った。
「確かにこのピアノはこの島で取り壊した空き家から運び出されたものです。もしかしたらそれが先生の住んでいた家なのかもしれんですね」
そういえば莉子は自分が島のどこに住んでいたかさえ、思い出せなかった。家がその後どうなったか、につい今まで思いをはせることもなかった。
「いい音です。相当狂いが出ていてぎこちないけれど温かい音がします」
音ではなくて、まるで匂いかのように、莉子は深い呼吸をした。
「控え目でいて、ぐらつかない気配を持った音です。ここ全体をひとつにする力があるみたいに。この、建物がひとつの楽器のように」
ああ本当だ、と杏は思った。楽器のことも音楽のことも詳しくないけど、居心地が格段に良くなったことだけは感じる。
「で、耳は。その、ここに葬られた耳というのは」
先生は辺りを見回す。
槇さんの声は、「ええ、」と、遠のく。お堂の窓を開けながら言ったから声が半分出ていった。
「生け贄です。生け贄のウサギたちの耳でした」
そう、耳を葬るとすれば、それは生け贄のウサギだ。何と言うか予想がついていたから、窓の外に出ていった声でも杏の耳には届いた。
ただ、生け贄という言葉が他人との会話でふいに現れたから戸惑ったのだ。今までは祖母や母の昔話でしか出てこなかったから。
予防線を張るのは無意識だった。生け贄の話をこれ以上広げたくなかった。そこに深く関わる家の人間だと知られたくなかった。そもそも今日は何をする予定だったっけ。偶然先生に会って、放っておけなくて一緒に学校に行って、それから槇さんにも会って、こんなところにみんなでやってきて。
「あ、」
つい声が出てしまった。中断された話の真ん中で気まずくなって謝った。
「ごめんなさい。思い出したんです。最中の配達頼まれてたこと」
「おおう?そりゃ、行かなきゃ。娘。ええっと、おまえ、名前は?」
「杏」
「おおう?杏、か。そりゃ和菓子屋の娘にふさわしい」
久しぶりに言われて逆に新鮮だった。和菓子屋だから、杏ちゃん。まだその方がましだ。棺桶屋の、脈々と、生け贄を棺桶に仕舞ってきた家の娘だと言われるよりは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます