第8話 職員室コーヒー


「ちょっと、それに近いことは聞いたんです。ラビットランド、っていう名前は後付けだ、とかなんとか」

 自信はないので小声になる。杏はラビットランドを直接見た人に今まで会ったことがない。誰もが、誰かから聞いた話を杏にする。

「わたしはね、子供のころ、この島に住んでいたことがあったの」

 莉子は打ち明ける。

「ああ、母が嬉しそうに言っていました。懇談の日、先生と学校で会ったって」

(そういえば山根さんはももちゃんの娘さんだった。)

 はっと莉子は思い出し、そして「嬉しそうに」という形容詞で嬉しくなった。

「そうよ会ったわ。懐かしかった。わたしは小学校の四年生くらいから卒業前の二年弱くらいしかこの町にいなかったのに、ちゃんとわたしのことを覚えていてくれた」

勢いで話しかけてすぐ、中断する。莉子は少し注意深くなろうとした。未だかつて教え子に私的な話をしたことはなかった。調子に乗って後で後悔しないだろうか。思いとは裏腹に口を衝く。

「わたしね、ラビットランドに行ったことがあるの」

 莉子はまっすぐ杏を見た。反応によっては、冗談で片付けてしまってもいい。

 杏は真顔で口を丸く開けている。

「うそ、今現れちゃった、行ったことのあるヒト。…あ、えーっとごめんなさい、だって先生。ラビットランドの話をする時『行ったことはないけどね、』ってみんな最後に付け加えるんです」

先生は黙る。

「…アレ?…付け加え、ない。っと」

杏はひとりでしゃべる。先生の方はふっと笑顔になる。この子との時間を今は楽しめばいい。

「行ったこと、あるわ。ある、としか思えない体験を確かにしたの。だけど誰にも信じてもらえなかったのも事実。どうしてかっていうと、もうすでにそこには時計塔以外何もなかったから」

 杏はまたさっきと同じ顔をした。口はさらに、丸く。

「わたしが転校してきた頃にそこはもう更地だった。時計塔がただあるだけ」

「じゃあせんせ、行ったことあるっていうのは…」

「夢で片付けられない、本当の体験としてわたしには思い出されるのよ。だけど周りはみんな『夢』だと言った。もちろん今は、わたしもそう思うしかない。だって、タイムトラベルでもしない限り、ありえない話なんだもの」

 こどもの莉子が杏のとなりにいた。信じるよって、誰にも言ってもらえないまま大きくなった莉子先生。

「もしよかったら、山根さんの聞いたラビットランドがどんなところだったのか教えてほしいな」

 莉子は言った。杏は改まって両手を組む。そしてラビットランド情報をまとめるために斜め上を見た。まるで、思い出そうとした場所にそれは在る、というように。

「ええっとですね、大きなドーム状の建物が並ぶ『近未来の建造物』みたいだったと、言う人が多いらしいです。博覧会のパビリオンみたいな感じですかね。天井の高い全天候型の小さな遊園地、を想像すればいいのかもしれません。でも知る人ぞ知る場所なので一部の人しか会員になれないし、年間パスポートは高価だったそうです。だから誰も知り合いの中には行った人がいない、って」

 莉子はうなずく。

「わたしが小学生の頃はね、ちょうど東京ディズニーランドや、オランダ村ができた時期なの。自分の住む町にも、そんな「ランド」ができたらなあって、みんな考えていたわ。それが、実はもうずっと前から在ったってわけね。それで気付いた時にはなくなったあと」

「ディズニーランドに比べたら規模はずっと小さなランド、ですけどね」

「そこで働いていた人がひとりくらいこの島に残っていないのかしら」

「それが、働いていた人はみんな島外の人だったんです。ラビットランドがなくなった後、その人たちはどこでどうしているか、情報がないって」

 杏と莉子は目の前の人形をまじまじと見た。

「じゃあ、このおじさんが、唯一の生き字引き」

 人形を生き字引と表現していいのかどうかわからなかったが、やっと気分の安定した先生に、口は出さずにおいた。

 電池でも切れたのかおじさんはいつの間にか静かになっていた。

「先生、ところで、ですけど、学校に何か用事でも?」

「ああ、そうよ。ここじゃなく」

 莉子は写真から目を上げた。

「楽譜、楽譜」

 莉子たちは応接室の扉は開けたまま、職員室へ入った。

 工事の防音幕に覆われた校舎内の空気は淀みひんやりする。長期休暇前、雑多な物を一掃した室内はがらんとしていた。

「先生、他に忘れ物、ないですか?ゆっくり焦らず、ね。わたし、実はこのソファに座ってみたかったんで」

 いつもふんぞり返って座っている数学教師の顔を思い浮かべ杏はくつろいでみた。莉子はデスク周りをごそごそと探る。

「楽譜、ここじゃないみたい。やっぱり音楽室かな。ちょっとコーヒーでもいれようか?」

 莉子は微笑みながら、給湯室へ入った。普段は電気ポットにお湯が入っているが、今はコードが巻き取られ布巾の上に伏せてあった。戸棚から小さな薬缶を取り出すと二人分の水を入れ、火にかけた。

「嬉しい。わたしも先生みたい」

「ほんとね、」

 莉子は随分落ち着きを取り戻していた。いつものごちゃついた職員室にあった物も人も、「ない」とこんなに違うのだ。

 お湯が沸き火を止めた。備品のコーヒーカップにお湯を注ぎ込むと一層気持ちが楽になった。杏の方もすっかり自分の場所のように座っている。

「先生は先生になりたかったんですか?」

 今まで散々聞かれた質問、せっかく寛いだ今ここで不意打ちされると思わなくて、莉子は苦笑した。

「…なりたいものなんてなかったわ。いつも、ならざるをえない形にどうにかして自分を嵌め込んでた」

「山根さんはなりたいもの、あるの?」

「ないです。特に将来何者かになる意欲がない、というか」

「何者かになる、か」

 莉子はさっきの人形を思い出していた。

「あの人形は何者なんでしょうね。まさか自分が人形になってるなんて、って結果かしら」

 杏も莉子の空想に便乗する。

「なりたくてなったんじゃなくて、ならざるを得ない形だったんですかね」

 二人しんとなって窓の外を見つめる。

「わたしも、同じことだけしていいなら、その方が気が楽かもな」

 莉子は言った。さっきの男子生徒の言葉。ピアノ弾き人形。生徒には実際すでに同じことしかできない人間と思われている。

「そうですか?」

 杏は、莉子の手を見つめる。成長し過ぎた骨を温かにくるめない皮膚。指先はまた冷たいに違いない。

「これも、あれも、全部セリフなの。決まってるの」

 莉子は言いながら自分の窮屈な日常を思った。耳は聞こえるのに、聞こえすぎるのに、いつも肝心なことが聞こえない。いつも、「聞こえてる?」って畳みかけられた。十分聞こえていた。聞こえることと、理解することは別なのだ。理解して汲み取って先回りして配慮する。そういうことと、聞こえることは別なのだ。

「いくつかセリフを用意しておいて、自動的にその場にふさわしい言葉を言える機能があったらいいな」

 こどもみたいに莉子は言う。

「で、最後に付くんですか」

「うん?」

「これはセリフだよ」

 杏は人形の声をまねした。

「そうね、白状しちゃうのね、」

(全ては脚本通り。くぐり抜けられそうもないいくつもの場面が、演劇だとしたら少し楽になる。あなたもわたしも出演者。だったらどうなる?わたしはそこからならセリフを変えられる?)

 ふっと我を忘れて莉子は思考する。

「先生、『今』は先生してなくていいみたいですね。なんだか、自然です」

(先生を演じるのは難しい。言うべきセリフが見つからない。)

「今、あなたの前で、演じる必要がない気がして」

「演じる、ですか」

「うん。…授業で、わたしのままじゃ誰も相手にしないのよ。だから音楽教師を演じている。だけど、一対一、山根さんとわたし、の関係なら、わたしがたとえ音楽ができなくても、できても、そういうところでわたしのこと、見ないでしょ。ほらだって、今は、何している?」

「一緒に、コーヒーいただこうとしています」

「ね。ただそれだけでいいなら、ひとりの人間として存在していいなら、わたしはあなたと、楽でいられる。あなたに、利益を与える前提で時間制限付きで目の前に立っていなきゃならない、授業とは全く違う」

 言いながらそうだ、と自分でも納得していた。

時間が、止まったように感じた。ふたりの時間だった。風が、時間と空間のあいだを通り抜ける。

「午前中は、職員室涼しいのよ」

 コーヒーの湯気がまだうっすら昇っている。

「ほら、ちょうど東側、窓の向こうに木が茂っていて。でも皮肉なことに、大抵は午前中ってみんな授業があって出払ってるのよね。だから木陰になった職員室を味わえるのは校長くらいかな」

 すっかり友達同士のように打ち解けたふたりが一緒にソファに座りかけた時、ドアからの風が止まった。

「その通りです」

 入口に人が立っていた。姿かたちを良く知っているのに、別の場所で出会うと、全く知らない人に見えることってある。

「だから校長はいつも午前中ここで仕事している、ちゅうことです」

「槇さん?」

「こんちわ。最中屋の娘」

 杏は一瞬固まった。

「なんでここにいるんですか」

「おれは、ここの職員」

 なあ、というように槇さんは莉子先生に相槌を求めた。

「槇さん、ええ用務員の槇さんです」

 莉子先生は平然としていた。

「槇さんの仕事って、」

「ああ、そういえば言ってはなかったな。用務員が本業。旅館は手伝い程度。でも、こっちも最中屋がもう中学生だとは知らなんだ。お互いさま。ところでおふたり、こんな工事中の暗い建物の中でコーヒータイムか?」

「そういわれると、変ですが…、まあそうです。でも、これが目的で来たわけじゃありませんよ」

 ね、と杏は先生を見遣る。生徒の自分が職員室でコーヒーを飲んでいるこの状況は先生がいたからこそ実現したわけで。

「そう、目的。わたし楽譜を取りに音楽室に行かなきゃいけない」

莉子先生は槇さんの立つドアから飛び出すと階段を駆け上がり三階の音楽室から数秒のうちに戻ってきた。

「どこか、別の場所で、練習しなきゃならないから」

「どこか別の場所?」

「まだ、探せて、いないんですけど、」

 息が上がり上手く話せない。

「ピアノを弾ける場所です。例えば楽器店の、練習室とか」

「ああ、」

 槇さんは窓の外の覆いを見上げた。

「ここは立ち入り禁止、でしたね」

 ようやく呼吸を整えて先生は楽譜の角をトントンと正す。

「はい。今、音楽室のピアノは使えませんから」

 莉子の言葉を受け、少し考えて槇さんは言った。

「よかったらピアノ、ありますよ。弾かれますか」

 意外な提案だった。

「いらっしゃい」

 槇さんは誇らしげに言った。


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