第7話 ラビットランドの痕跡
莉子は閉じた瞼の内側でまちがいさがしをしている。
工場の廃墟、
学校、
公民館、
役場、
病院、
港。
それらが島の西側にはある。
今
どれか、なくなった
まちがいさがし。
そういう時は時計を見ればいい。
動いているか、止まっているか。
または針を失ったか。
修理するつもりがあるかないか。
—島は狭いなりに広かった。
どこへ行くにも廃墟を避けて遠回りになる。遠回りでも島を周回するコースには整備された車道と、安全柵で囲われた通学路がある。車がない莉子も、そこを通って学校へ通えばよかった。
しかし、通学路である。生徒との登校は苦痛だった。だから莉子は、廃墟が森と混在する島の内側を自転車で通勤した。森のなかのでこぼこ道をタイヤの細い普通の自転車で進むのは難易度でいうとどれくらいだろう。
島の中央。東と西の境界線。家が疎らになった廃墟の森の入口に莉子の住む借家はある。隣は年老いたおばあさんが住む。大家さんの話ではずっと若いころ刑務所にいたおばあさんらしい。物腰の柔らかな品のよいおばあさんだが、お互い干渉しない。それでここでの生活は何とかうまくいっている。
水のない場所を転々としてきた。騒音の多い都会だからダメとか、静まり返った田舎町だといいとか、そう単純でもない。ただ、水の音が常にする場所は音楽と混ざって混乱する、と経験的にわかっていた。ここは海に囲まれている。だからこどもの頃、わずかでも温かな時間を過ごしたこの島に、帰って来たくても帰れなかった。
昨年、両親が離婚した。莉子の親の歳だからもうおじいさんとおばあさんだ。いわゆる熟年離婚というやつだ。
沼のような家だった。自分の弾くピアノが唯一、水の流れをつくった。重苦しい時間は底に溜まって泥になる。どんなにきれいな音が流れても混ざり合ううち視界が暗くなる。
長いこと実家には帰っていない。不協和音は、もう鳴らない。
家を出て社会に適応するために色々な対処法を編み出した。
まず、自分だけの安全な場所をつくること。不用意に入る音を遮断するために分厚いカーテンを吊るし窓に目張りをした。生活に選択肢を増やさない。服や靴、かばんにハンカチ。決まった形の決まった素材。生活のそれ以外でわたしは迷って混乱しているのだから。
そうして作った独り暮らしは、誰にも壊されないし誰かを脅かすこともない。
学校が立ち入り禁止になって以来アパートにひきこもっている。
夏休みではなくて休校だから、教師も学校へ行かなくてよかった。
学校が休みに入って渋々動き始めた最初の日。まず、莉子は洗濯をした。渦巻く水流が苦手だった。水流を眺めながら、(眺めなくてもよいのに)、つい眺めてしまって過去を色々反省し始める。
いつも自分で切る髪の毛。誰にも会わない長い休みになるのだからと思い切り切り過ぎた前髪。失敗したと思う。こないだの桃ちゃんの顔。一瞬戸惑っていたの、気が付いた。ああ、面倒でも美容院へ行ったらよかった。
それから、練習を始めたばかりだった曲の楽譜。どんなに探しても見つからない。とすれば学校だ。最後の出勤の日にもっと注意深くあるべきだった。あの日解放感でふわふわしていた。
ある部分では深すぎて、ある部分では浅すぎて。自分で自分の「過ぎて」いる部分には気付けない。客観性を持つほどの余裕はなかった。空回りして疲れ果てた莉子は、そこのところには永久に気付けない。自分のことをいつまでも同じ深すぎる位置からしか、見ることができない。
校内への立ち入りについて事前に言われていた通り、昨日、町役場の事務室に鍵を借りに行った。
学校に用があると伝えると、不愛想に鍵を渡してくれた。莉子先生にはむしろ不愛想なくらいがちょうどいい。雑談は苦手だ。
アパートから学校までは廃墟の森を抜けていく。森の中の凸凹道は難易度fだが、距離でいうと拍子抜けに短い。体力だけは自慢の莉子には自転車でほんの十分の道のりだった。のはずだった。
向こうから、男子生徒の集団が歩いてきたのだ。普段誰とも会わない森の中の未舗装道路。いったい、なぜ。
そうか。涼しいのだ。木陰でとても涼しい。歩くなら照りつける海岸沿いの道路よりここだ。だって彼らは夏休み。学校がないのは自分と同じ。
「あれセンセイじゃ」
「ほんま。ピアノ弾き人形じゃ」
「やべえ、こんなとこにおる。壊れたんか」
小さな、絶対聞こえない声で言ったんだと思う。でも全部聞こえてしまった。
俯いて通り過ぎる。通り過ぎたあと笑いあっているのが聞こえる。もしかしたら莉子のことで笑ったのではないのかもしれない。けれどタイヤのカラカラ回る音を聞いているうち、久しく忘れていた感覚が押し寄せてきたのだ。指先が冷たくなる。身体の中心にだけ熱が偏る。頭の中で、さっきの生徒の顔が全部こちらを向いて動かない。全部知っているのにどれも知らない。あなたたち誰。先生こそ、誰。
学校に楽譜を置き忘れていた。ただそれを取りに来ただけなのに。
「先生」
後ろから声を掛けたのは杏だった。
自転車にまたがったままの莉子の足元が小刻みに震えているのは杏にもわかった。 莉子はつま先を地面に押し付けて震えを止めようとする。けれど震えはどんどん激しくなり、気が付くとハンドルを握る両手が上手く自転車を支えられずに自転車が倒れた。
「せんせ?だいじょうぶ?」
唇が上手くかみ合わず、歯がカチカチと小さく鳴っていた。
「具合悪いんですか」
杏は自転車を引き受け校門前に停めると、引き返して莉子の手を引いて校舎の陰へ入った。莉子の手は驚くほど冷たく、そしてか細く頼りなかった。こんな大人の手に触れたのは初めてだった。
「学校に用ですか?」
「……ええ」
「よかったら、一緒に行きますよ。何か、大変そうだから」
莉子は拒否する気力もなかった。
「学校で何かあるんですか。ああピアノの練習とか?」
練習。そうだ、そのために楽譜が必要で。いや、学校に誰も来ないからこそ、出勤する練習をしなければ。頭の中の混乱が生理現象に転換される。動悸、息苦しさ、冷や汗、震え。歩けない、情けない。生徒の前で。
結局、杏に付き添ってもらって校内に辿り着いた。いつも入る通用門は南京錠が掛けられていたから来客用の正面玄関だった。
「学校に入るのに、鍵が要るなんて何だか新鮮ですね。学校なんてどこからでも入れるものだと思ってました」
不慣れな手付きでガチャガチャと鍵を鍵穴に通しなんとか入口の扉は開いた。
「島の建物は潮風ですぐ古びてしまうんです。鍵穴は要注意ですよ。錆がくる」
杏は呑気に言った。莉子はようやく落ち着いて、状況を受け入れていた。誰もいない校内は普段のように緊張する必要はないのだ。
「これは…だよ」
どこからか、機械仕掛けのような声がした。
「これは…だよ」
まただ。
杏は莉子を見た。
精気を取り戻しつつある顔に再び緊張感が走る。
二人は声のする方に耳を凝らした。
玄関の横に『応接室』とあり、ドアが開いている。杏はそっと中を確認した。
「これは、セリフだよ」
部屋の奥に、等身大の人形が立っていた。背広を着たオジさんだった。おじさんの姿をしたカラクリ人形から声が出ていた。顔はいやに現実的で、ちょっと気味悪い。
「これは、セリフだよ」
繰り返しそう言っている。
朱色のカーテンが、綺麗なヒダを作って窓の両端に止まっている。黒革のソファは向かい合わせで広いテーブルを囲み、壁には額に入ったいくつもの写真が飾られている。
どこかにスイッチでもあるのか、一定間隔で繰り返される声は物悲しかった。
「先生、コレ何だと思いますか?」
莉子は歩み寄り記憶をさかのぼる。
「そういえばこの人形、あった気がする。ずっと前から。応接室に入ったのは就職の面接の時だけだったんだけど、この部屋でこれだけが妙に浮いていたから覚えてるの。でも喋る姿は初めて見たわ。あの時は文化祭か何かで使うのかと思った」
莉子は人形をじっと見つめた。マネキン、にしては小綺麗さを失ったような。プラスチックとも陶器とも言えるような質感だった。塗料を何度も重ねて塗りこめているために元々の素材がよくわからなかった。
杏はなぜか親しみが湧いた。つい最近これとよく似た雰囲気のものに出会った気がした。何だっただろう。
「ここ見て。ラビットランドって書いてある」
「ああ、昔ここにあった遊園地の名前らしいです」
莉子も聞いたことがあった。
「そこで働いてた人形かな」
「おんなじことばっかり言って?」
「他にセリフないのかな?」
「これは、セリフだよ」
「あ、ほら、」
「このおじさん、ラビットランドで何しとったんじゃろう?」
「有能な感じはしないわね」
残念ながら。莉子はそう付け加えて、有能さの全く欠けた自分がそんな評価をしたことが内心滑稽だった。
二人は改めて周囲の写真を眺めた。どれも現実感がなかった。光り輝くメリーゴーラウンドの前に立つウサギは燕尾服を着てステッキを持っている。ゴーカートに乗っているウサギはサングラスをかけてタバコを吸っている。どれも、明らかに合成写真だった。
「これ、」
杏が一枚のややピンボケした写真に目を止めた。
「このおじさんじゃない?」
「おじさんだ。しかも、人形じゃない」
「人形じゃなかった頃」
おじさんは事務室のような場所でこちらを向いてただ立っている。笑おうか迷っているうちにシャッターを切られたような中途半端な表情だった。
「先生、ここに、様式変更ボタンって、あります」
「まさか、ここを押したら人間に戻るとか?」
それが冗談でも、押すのは憚られた。だって例えばウサギになったりしたら。
「あ、そうだ」
杏は思い出した。この間のウサギおじさんだ。この人形の質感とよく似ていた。そのことを先生に話そうかとも思ったけれど、混乱を招くので止めておいた。
莉子は丁寧に写真を眺め、首をかしげながら言った。
「なんでこんな合成写真ばかり飾るのかしら。まるで嘘を必死で本当にしようとしているみたい」
「嘘、ですか?」
「…うーん、例えば、ラビットランドなんて本当はなかった、とか」
思いつきで莉子は言った。
「いや、それほんとかもしれん」
杏は腕組みをする。
「なかったの?」
莉子は身を乗り出して尋ねた。
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