ウミナリブレンド
第6話 喫茶ウミナリ
杏の周りはいつも賑やかだ。ボタン以外に仲の良い子はもっと他にいる。つまらないことで延々笑い転げて疲れて眠るだけの時間を過ごせる子たち。ボタンはそこに混じることはなかった。一対一でないとボタンは杏に、杏はボタンに近づかない。
招待券はザラっとした手触りで、時代を経たような飾り文字や挿絵の感じが、いつもボタンが気に入って眺めている料理本の雰囲気とよく似ていた。
後付けだけど、ボタンを誘う理由があるとすればそれだ。
「わたしと?」
朝電話すると、くじが当たったような声のボタンだった。ボタンの家は同じ通りの突き当りにある。
ボタン一家が越してくるまでは長いこと空き家だった。元々は製錬工場幹部所有のものだという、この狭い島にしては広々した邸宅だ。
二人は柚子農園の先で待ち合わせた。
「耳塚ってバス停の辺りなんだけど…」
並走した自転車は細道をビー玉のように転がる。
「この町、バス通ってるの?」
そう聞かれて杏ははっとする。
「…今は通ってない。昔、島に工場があった頃のバス停を、みんな道しるべ代わりにしとる。島の東側のバス停はここと、浜通りにもうひとつだけ。西側は工場があったけど東側は地元の人が暮らすところだからバス停もふたつしかないんよ」
「あ、杏ちゃん、こっち」
耳塚と書かれたバス停よりずっと手前に
『音楽堂ココ入ル』
とペンキで書かれた案内の杭が建っている。建った当初は多分、鮮やかな朱色だった表面の塗装が剥げ、脱皮途中のように地面に散らばっている。見上げると、大きな鉄の棒が鳥居のように渡してある。ただ鳥居にしてはどこにも神聖な気配がない。これも工場があった頃の
見逃しそうな、明らかに私的な雰囲気のする道だった。車道から二段上がっている。自転車を持ち上げて石段を乗り越える。
「音楽堂、に行きたいわけじゃないんよなあ。ほんとにこっちでいんかな?」
「うん、だって見て。この招待状の裏。小さい地図が描かれてる。隣にほら、音楽堂ってあるよ」
細かいところまでちゃんと見ているボタンに、杏は感心する。
「さすがじゃな」
杏は振り返り、車道を見下ろした。鬱蒼と茂った林の内側にこうしてきちんと道があり、踏み均されていることが意外だった。両脇の木々が丁寧に剪定されているおかげで何とか道幅は維持されているようだ。
「こんな道、知らなかった」
ここは家からほんの目と鼻の先なのに。
新鮮な気持ちで杏は目の前の風景を記憶に加える。
ふたりは列になって緩やかな下りカーブをこぎ進む。
と次第に頭上の木陰が一層深まり、巨木ばかりに囲まれていることに気付く。大きな木は島の東側にしかない。東側は島固有の手付かずの植生が残っていて、島の名前を冠したツツジだったかスミレだったかが生えている、と小学校で習った。一度、絶滅危惧種にも指定され『レッドリスト入りを果たした』のだ。そのリストは五年ごとに改訂される。その改訂がくせもので、一旦リスト入りしたのに最新のリストからその花の名前が抹消されていたというから、驚きだ。この島もいずれ日本地図から外されるんじゃないか、と先生が言っていたけど、杏には冗談に聞こえなかった。
ボタンはいつもの島の緑、—産業廃棄物や工場跡の壁を覆うようにはびこる草や蔦—ではない緑に久しぶりに出会った。
ここの巨木や繊細な草花は、島の西側の、
ボタンよりずっと長くこの島にいるのに。
枝葉の向こうに煉瓦造りの建物が現れた。
建物の周りは廃墟の壁で囲まれている。
建物を取り囲む、腰くらいの高さの塀は所々崩れ、工場の廃墟と似ている。
一方、内側の建物の煉瓦はまだ
内側の建物の両側に石の門柱がある。それは死んでいる。風化して一部崩れている。
廃墟の壁にセメントで固定された看板が立つ。
「喫茶ウミナリ」と、書かれた文字は
「この建物、古いんだか新しいんだかわからんね」
「うん、ほんとう。あ、だけど、」
ボタンは続ける。
「なんだか大事にされてる。この建物」
「ああ、」
二人は黙って目の前の景色を眺める。
「だけど変な名前。ほら、ウミナリ」
ここは山の中だった。海が付く名前を付けるなんて。
「喫茶ウミナリはこちらの額縁の中ですよ」
ウサギの被り物をしたおじさんが、絵の中に存在していた。
「こちらですよ」
このまま前進するとその絵に吸い込まれそうな恐怖が、ボタンにもあったかどうか、わからない。ただふたりともその場で動けなかった。
「全然変じゃあありません。海鳴りって、沖の方で波が鳴ってる音ですよ。海から離れた場所でも、聞こえます」
ウサギのおじさんは誰にも聞かれないのにひとりで答えて、ひとりで頷いた。ボタンがそれに対していつになく、しっかりとうなずき返したのが横目でわかった。
「いつも。聞いてた、海鳴り」
過去あったほうの「いつも」だとわかるのに、少し時間がかかった。ボタンの「いつも」を杏は時々とてつもなく遠く感じる。
「安心してください。これはドアです」
ウサギおじさんは木製の縁取りのなされたドアを開けて、こちら側へ歩いてきた。確かに、それは額縁に似た、ただのドアだった。
「券、ある?」
おじさんは砕けた口調で、白い手袋の右手を差し出した。杏は二枚の招待券をその手に乗せた。
「どうぞ」
受け取るままほとんど確認せず、彼は券を仕舞った。二人はウサギに先導され、もう一枚のドア(今度は建物に入るための実用的なドア)を通された。
「こちら、耳塚音楽堂に隣接する、喫茶ウミナリです。お間違えないでしょうか」
「…はあ」
昼下がりの店内は薄暗かった。ひとつある奥の窓から日が差し、しんと静まり返って外側の音全てを遮断していた。
「マジュウステムをごショウかい。あなた方はチョウリツシでワナサショウ」
店の中に入った途端、オジさんの声が蝶の名前みたいに躍ったから、何を言っているのかわからなかった。魔獣のショー、蝶の舞。理解が追い付かないうちに、オジさんの方は自分で結論付けて納得している。
「純粋にチョウシューとして招かれたカタカタ、デショウかね」
出入口から歩みを進めながら一方的な会話は続く。次第に高音が落ち着いて来る。聞き取れなかったさっきの声が遅れて届く。「でしょうかねえ。純粋に聴衆ではなさそう。でしょうかねえ。まずシステムをご紹介。調律師の方々カタカタ…」……建物の構造上の問題なのか、すぼまった入口から奥へ行くにつれて音が整う。
「では、聴力検査を願います」
カウンターの向かいの棚には奇妙なカップが無造作に収まっていた。手前はひとつふたつ、奥にはいくつも高く積み重なって。
「お好きなチィスプーン、で」
ウサギおじさんは、カツン、と両手の小さなスプーンを打ち鳴らした。
カウンターには清潔そうなナプキンが広がり、花瓶みたいな大きなグラスにたくさんのスプーンが挿してある。
「どれでも?」
「ええ。どーでも」
確かに、どうでもよさそうなものまで挿してあると、よく見ればわかる。
「ばち、がありません?」
太くて短い木製のばちが何本か混じっている。
「ええ。ばちでも結構。むしろ、ばちがよろしい」
最初、用途のわかりかねたカップは、ばちがあればお鈴に変わるのだった。杏とボタンは遠慮がちに囁き合う。一番に目に入ったのは陶器のお鈴だ。白土の表面は釉薬がかかってつやつや飴のように光っている。
「貝でできとるみたい」
「ほんと、真珠色」
「これも、おりん?」
「おりんって、あの、仏壇にある、」
ふたりがコソコソささやくのが聞こえないのか、オジさんは自分のペースを崩さない。
「自ら打ち鳴らして検査する場合とこちらが打ち鳴らすのを聞いて頂く場合があり。 本日は前者となります。気に入ったものを選んで頂けますでしょうか」
そう説明を聞く中、ずーん、と鳴り響く音が辺りを均した。
「海鳴りを呼んでおります」
ちーン、
「カップを温める要領であります」
ちーン、ちーーン
「鳴らした自分がここへ入る、形をイメージしてくれる?」
(自分が入る?お風呂みたいに?)
ずおーン—ン
「難しい想像」
「そう、アナタカタカタがただ単に、ここへコーヒーを飲みに訪れたなら、それは思いがけない事態でございましょう」
いつの間にかエプロンを身に着けたおじさんは後ろ手で器用に蝶々結びをしている。
「わたくしも、思いがけず、こんな場所で働いております。ラビットランドで、働くつもりでしたが」
知らないんだろうか。ラビットランドはもう何十年も前になくなったのに。
二人は自分が選んだお鈴とばち、またはスプーンで思い思いに打ち鳴らす。どうするのが良いのかわからないから適当だ。適当に鳴らされるお鈴はそれでも、深い音色を重ねていく。音が反響した器にお湯をいれたら、液体はわたしの体へその音を共鳴する。本日のおすすめは海鳴りブレンド、それきりでおじさんは黙る。
とても静かで、外の木々のざわめきも蝉時雨も、もちろん魔獣のショーも、ここにはない。お鈴の響きが消えてしまったのか、まだ低くうねっているのか。聞こえるのは海鳴りだけだった。
それは時空をねじ曲げるように音の壁を垂直におろす。
ゴゴゴゴ……
空中に、潮流ができているように感じた。さっきの海鳴りと、今ある静寂と、その狭間に大きな流れを感じる。カウンターの奥で存在感を放つ不思議な機械が、求心力を働かせていた。吸い寄せられ、集められているのが、何なのか、見えはしなかったけれど、何かが、宙に漂う杏とボタンの視線をも、集めてゆく。
厚みのある音が次々と重なって、鼓膜にのしかかる。重みはずんずん下ってお腹に落ちる。じわりと足が浸りそれが海だとわかる。
淡いブルーのエプロンは清潔。まだ海になりたての未熟さ。
「手製のコーヒーメーカーです」
彼の言うその機械は、眠りから覚めないまま常同的仕草を繰り返しているように見えた。漏斗状に広がった部分が上部に乗っていてその下は円柱状にどっしりと構える。台座の部分はかまくら状で、カップを差し入れる構造だ。どのお鈴カップにも対応するべく、お手製というその機械の全てが特別仕様だ。
やがてスイッチは自動的に切れた。
「手製のかき氷機も、急ピッチで製作中です。コーヒーなぞ、お子様には少々苦みが強い場合もございましょうが。本日は、ひとまずオリジナル、ウミナリブレンドをご堪能ください」
それだけを一方的に言うとウサギおじさんは何か、「ごゆっくり」とか、そんなことを付け足して離れた。というのも、耳が海鳴りに慣れてしまっていて、静寂がふわふわと浮かんでしまうのだ。混ざりこんだ言葉の一音一音はどれが先に響いた音かわからない。
店内で、ふいにラジオが始まった。雑音ばかりのラジオだった。ところどころで小さく人の声がするが、何を言っているのかわからないうちに別の周波数に切り替わり、また別の声が聞こえる。
「え、何?」
ボタンが宙へ向かって囁いた。
「どうしたの?」
杏が声をかけてもボタンは視線を泳がせたままだった。
「あ、待って、」
聞こえていたものが途絶えたということだけはわかった。
「お待たせしました。ウミナリブレンドです」
オジさんはお盆の上にコーヒーをふたつ載せて現れた。
お鈴カップはさきほど鳴らしたいくつかに、確か紛れていた分厚い陶器製で、もうお鈴ではなく液体を入れる容器として目の前にあった。
雑音がまだかすかに聞こえる。遠のく海鳴りが、過去と現在を混ぜ合わせる。
ウサギおじさんは何も言わずにカウンターへ戻っていった。ボタンはカップを包み静かに口へ運ぶ。
「うわあ」
ボタンの意識がようやくここに置かれた。
「コーヒー初めてなん?」
「喫茶店で飲むのは初めて」
ふたりは数口飲んで、テーブルにお鈴カップをそっと置いた。
「ああでも、なぜだろう。苦いけど、ちょっとおいしく感じる」
ボタンはそう言って、改めて味わう。杏は、さっきボタンがラジオの雑音に何を聞いたのか気になったけれどまた意識がどこかへ行かれたら困るので聞かなかった。
「苦いのに、なぜかこれは、くせになる」
ボタンはもう一口飲んで言った。
「苦みを感じるのは防御反応だって聞いたことあるよ」
杏はどこで得た知識か思い出せないまま言って、一口飲んだ。
「防御反応、かあ」
もう一口飲んでボタンは今、自分のなかでその反応が起こったかどうか確かめる。
「苦みは味覚の中では毒のしるしなんじゃって。食べるな、危険、っていう合図」
「じゃあそれをおいしい、って感じるのはどういうこと?」
「薬、なんかな」
「薬、そうかも。苦いけど、効果がある物」
「じゃあこのコーヒーは薬ということ?」
「まあそういうことになるんかな。あ、そういえばさ、小豆も」
「え、小豆って苦いかな」
「砂糖を入れる前の小豆そのものの味、知っとる?」
「ううん。食べたことない」
「少し、苦いような、渋いような、んで、ほんのり甘いような。特にゆで汁はコーヒーに似とる。母さんは美容にいいってよく飲んでるよ」
「ああ、杏ちゃんのうちは和菓子屋さんだったね」
ボタンは赤飯のなかの小豆を思い出そうとする。けれどもう長いこと、赤飯を食べていなかった。家で赤飯を食べたのがいつだったか、全く思い出せなかった。
「最近、何もおめでたいこと、ない」
当然だった。もしあったとしても、おめでとうよかったねと、誰か口に出すだろうか。そう振り返っていると、杏が素っ頓狂な声を上げた。
「そうか。赤飯って、お祝いするときのもんじゃった」
「え?」
「赤飯は、うちでは普段のご飯なんよ。余った小豆が炊飯器に追加投入されるだけ」
あんこを作った時の茹で小豆が、日常的に家にある。
「あれ待てよ?そんなら、うちでおめでたい時は何食べたらいいんかな。逆に白いご飯かな」
ごはんでおめでたさを表現しなきゃいけないなんて、と思いつつ。
「わたし、双子なの」
ボタンはふいに、話したくなった。この町に来て誰かにユリのことを話すのは初めてだった。だけどこのタイミングだろうか。ボタン自身にもわからなかった。
急な話題転換に、杏は少し戸惑ったけれど、ボタンにその自覚はなさそうだった。
「一卵性。だから同じ顔の女の子。先に出てきたのはわたしだから、ユリは妹」
過剰な説明に肝心な何かが欠けていることも、わかった。
「ユリは、いない」
テーブルの上のボタンの両手がぎゅっと固く握られた。
「え、」
「海でいなくなったの。もうずっといないの。だから、赤飯を食べるようなおめでたいことが、もし仮にあっても、うちではお祝いできない」
ボタンはお鈴カップの底を見つめる。
「お母さん、お料理自体もうなかなかできない、っていうか」
杏はただ聞くしかできなかった。
「ユリね、ユリはピアノがとても上手くてみんな期待してた。わたしは全然ダメで」
てんでバラバラなピースをとりあえず並べ立てて、ボタンは杏に説明する。
「わたしとユリは、やっぱり別人だと思う?」
このやりとりは、まるで最終回まで読んだ人と、まだ題名しかしらない人の間でなされるものだった。つまり、答えなど始めから求めていないのだった。
ボタンはつぶやいた。
「ユリに、なりたい」
杏はぼんやり思い出しながら言った。進路指導でつい最近、先生から聞いたのだ。
「あなたたちくらい未来がある人は、何にでもなれる、って。だからもしかしたらなれるんかも」
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