第5話  ボタン


 ボタンにはユリという名の双子の妹がいた。

 五年前、夏の海水浴場でユリはいなくなった。

 最後にユリを見たのはボタンだった。

 いつも通りの無邪気なユリは、静かな美しい砂浜で小さなゴムボートにラジカセを載せて、ぷかぷか浮かんでいた。

「海の上で音楽を聴きながら寝転んでみたかったの」

 いたずらっぽく笑っていつまでもそこでゆらゆらしていた。ずっとそうしているんだとばかり思っていた。まさかそのまま、消えてしまうなんて。

 ほんの数分だったはずだ。ボタンはゴーグルをつけて海中の魚や岩肌に揺れる海藻を見ていた。時間の流れ方が違ったんだろうか。竜宮城、残酷なお城。

 いやな予感がし、水中から顔を上げ、照りつける太陽とまったいらな水平線を眺めた。もうどこにも、ユリはいなかった。文字通りどこにも。

 色々な憶測が飛び交った。自殺だったんじゃないかと言う人もいたし、誰かに拉致されたんじゃないか、と疑う人もいた。最初は大騒動だったのに、数か月後、ユリは行方不明者として警察署の掲示板にひっそり貼り付けられるだけになった。


 次の春、別の浜でラジカセを載せたゴムボートが流れ着いていた。残酷なお城に行ったのは、ユリの方だった。


 いなくなったユリのことをもう誰も話題にしなくなった。五年も経つと、いたことさえ曖昧になるのだろうか。

 もうボタンも、ユリのことを簡単に口にできなくなった。「ユリ?誰の事?そんな人いたっけ?」もしそんな答えが返ってきたら。そう思うと怖かった。


 引っ越しが決まるのは早かった。父は「単身赴任でも構わない」と提案したようだけど、母をひとりにすることが不安でもあったのだろう。ユリの全てが詰まった場所から家族全員で離れることになった。


 父の新しい勤務先は本土で、島ではない。父は島からフェリーで職場へ通うと言った。暮らす先を島にするのはボタンや母のことを考えた結果だという。ボタンや母の何を考えると辺鄙な島にたどり着くのだろう。


 ボタンは新しく住むまだ知らないこの島のことを「向こう側の島」と心の中で名付けた。


 ボタンが、遠く離れた「向こう側の島」へ越してきたのはついこの春、四月だった。

 それは何もかも生まれ変わる季節。そういう表現は楽だ。何もかも、の一括りに自分も入ってしまえば全部ひとつに言い換えられる。色々あったけれど、あの時一度死んで、今ボタンは別のボタンで、ユリは別のユリ。いつまでも同じじゃない。何もかもが少しずつ変わっていく。それがたまたま、一度に全て変わってしまったから、変化についていけないだけ。

 自分の考えが、途中から何かを朗読しているようになって、感情がないことに気が付く。

 これ、誰か別の人の考えだ。

 ああそうか、これが新しいボタンの考えなんだ。

 新しい少女の姿を思い浮かべる。まるで今までどこにも居なかったかのような。でも実は別の場所に仕舞われていた少女。ずっと大事に仕舞われて、大事にされ過ぎて外に出られなかった少女。

 そう思ってみる。できないことはない。こうやって生まれ変わる。案外できる。


 新しく住む島にはめったに雪が降らないと聞いていた。

「雪はあんまり降らないらしいけど砂丘があるらしい」

 父は言った。雪と砂は全然違う、とボタンは反論した。第一本当に砂丘なんてあるんだろうか。砂丘は鳥取砂丘しか知らない。それも地理で習っただけだ。

「鳥取砂丘ほど大きくはないよ。でも砂浜じゃない。あくまで砂丘だ。風で砂が運ばれてできるのが砂丘らしい。どんなにただの砂浜に見えても、地理的には砂丘だ。それに、本当に砂の丘がいくつかあって、いい写真が撮れるらしいよ」

 父がいい写真を撮るのを見たことがなかった。父のスマートフォンの画面はいつも株価の変化を示している。


「向こう側の島」へ、乗り換えを繰り返しようやく到着した駅からは浅葱色の海が見えた。浅葱色という色の名前は最近覚えた。色鉛筆の青と緑と黄色を順番に塗り重ねていくとできあがる色。それが今のボタンの心の色だった。


 港からフェリーに乗り換える。浅葱色だった海が萌葱色になり、まっすぐ底をみつめるとそれは透明だった。


 フェリーから砂丘が見えた。思ったよりずっと広い。でもとてつもなく寂しい景色。ボタンの心はやっと浅葱色になったけれどそういえばずっとこの砂色だった。


『ようこそ、砂丘の島へ』


 続く謳い文句にこうあった。

『砂丘の上では、音もなく雪が降る。砂丘は全てを聞き入れてくれる』

(雪はめったに降らないんじゃなかったの)

 それに雪を良く知っているボタンからしてみれば、どこに降る雪だって音などほぼないに等しい。

 …でも「違う」のかもしれない。

(ここに降る雪はまだ見たこともないあたらしい雪。少女が今まで見た雪とは別の雪)


島に降り立って見る海。いくつもの島が、閉じていくカーテンのように重なる。

(これも全く新しい海。)

 そう思った矢先、風がボタンを一気に新しい少女にしたのだ。


 こんな四月は知らなかった。

 夏を含んだ四月。

 肌寒く、時に雪さえ舞う四月しか、ボタンには存在しなかったから。


 港を突き進んで山側へ向かう。目の前の澄んだ川に透明な水が音を立てて流れていた。今までボタンが見てきた街にも、しばらくすればこんな音が響くだろうか。ボタンはそれを聞き逃す。こんな見知らぬ島でいくら美しい音を聞いても、どれもまだ遠い向こう側からしか聞こえない。

 帰りたい。帰りたくて仕方ない。けれどよくわかってもいた。ボタンの知っている      街はどこにもない。ユリがいる方の、今もユリが暮らす方の街。


 父の選んだ先が偶然ここだった。もちろん、人生に「必然」の方が圧倒的に少ないだろう。偶然ボタンは父と母の元に生まれ育った。偶然双子だった。偶然、いなくなったのがのがユリだった。偶然存在するのがボタンだった。どれも偶然的に起こった。

 この順番で起こった偶然。

 順番も、偶然。

 どうしようもない。次に起こる偶然をボタンは知らない。


 新しい家にはピアノがない。当然だ。もう誰も弾かないのだから。窓の外から汽笛が聞こえる。父はフェリーで職場に通うため早朝に家を出る。父にとってフェリー通勤は今までより快適らしい。混雑ゼロで、帰りもフェリーの時間を理由に早く帰れるから、とのことだ。昼間、母とふたりきりの家は砂丘みたいだ。たまらなくなってボタンは窓を開ける。


 海からはいろんな音がする。波音、カモメの鳴き声、汽笛、海鳴り。

 海が鳴るのを、いくつも聞いて過ごした。いろんな音を、海は奏でる。ボタンとユリと音楽はいつも一緒だった。そして海も。


 新しい音楽を聴く気にはなれなかった。

 だから独り、四角い部屋で耳に馴染んだいくつもの録音をボタンは繰り返し聞いた。それはゴムボートで旅をし、今手元にあるラジカセから聞こえるのだった。日焼けして骨董品みたいになったそれはアンティークオルゴールの箱みたいに見えた。春のあの日、細かな砂を丁寧に拭い、電源を入れたのだ。

 恐る恐る、古い日付の録音データを再生した。今までにない、息を潜めないと聞こえないくぐもった音質。でもちゃんと聞こえた。ユリと過ごした時間がそっくりそのまま存在していた。目を閉じれば耳は全てで見て触れる。

 いたんじゃない、こんなところに。

 いびつなオルゴール。蓋に耳を当ててボタンはユリになる。



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