第4話 無音のウサギ

 

槙さんはあかしの「店子」で、宿泊客とは別に、旧館の一室で賃貸契約をして住んでいるらしい。他にそういう人はいないから、灯の人の中で杏にはちょっと特別に見える。といっても印象的な外見を思い出すことはできない。顔は、いつも帽子のツバに覆われて半分しか見えないし、見えたとしても結局半分くらいしか印象に残らないだろう。全体的に硬い材質で出来ている。痩せも太りもしないし、高くなることも低くなることもない。槙さんという、おじさんの種類があるみたいだ。

「こんにちは、」

 杏は一応挨拶をする。礼儀として挨拶するのは、人間関係の基本だと母はいつも言う。

「本物のウサギ、ですか?」

「本物か偽物か、というよりはな。ウサギ型が豊富にある最中屋において、という文脈での、本物、だ」

 槇さんは一段と暑苦しい物言いをする。夏らしい槇さんは、余計に苦手だ。

「ははあ、ウサギ最中を、もっと写実的にしていく?ウサギらしさを求めていく?」

 相手が会話を全く発展させないのに、しぶとい槇さん。作業着のズボンの裾から下は砂にまみれていた。

 槇さんの言う通り、今うちにはウサギがいた。そしてウサギがうちに来たエピソードは、まだ真新しい。どこから話そうか、と杏は一息置いた。

 杏の自宅の庭で学校のウサギを預かっている。庭といっても、柚子園の一角の草地だ。

「学校が今、工事中なんです。だからうちで預かってほしいと頼まれて」

「学校って、中学校?中学校に、まだいたのか?」

 まだ?それは、いつからの、まだ、だろう。

「いましたよ。いつからかは知らないですけど、わたしが入学した時にはいました」

「どこにだ。初耳だ」

「理科室前のベランダです」

 彼は矢継ぎ早の質問とは裏腹に、渡された最中を抱え先をずんずん歩く。

 杏の担任は理科の先生だった。それで、自分のクラスの生徒にウサギの預け先について相談したのだ。杏の家に白羽の矢が当たったのは、「白兎屋」だからという教室の誰かの安易な発言だったが、実際検討していくと、他の家は先住犬猫問題、住宅環境など「預かれない事情」が色々と浮上してきて、結局最初の安易な名案に辿り着いたのだ。

 母が、是非どうぞ、と快い返事をしたのが決め手で、夏休みから我が家には白ウサギが二羽いる。

「原点回帰、っていうのか、やっぱり。ウサギそのものを改めて見つめ直す時期、なのか。何をもってウサギ最中はウサギ最中たるか。耳の形か、全体のフォルムか、それとも、白さか」

 個人懇談の次の日、母が学校からウサギを連れて来た。

 母から大事に連れ帰られたウサギたちは想像以上に可愛がられた。ちょうど小さな何かを世話したいと思っていた、と母は言った。庭は案外広く、放置していた畑があったので、そこに竹で柵を設置してウサギたちは放たれた。特に嬉しいとか楽しいとかの感情を体で表現することのないウサギだったけれど、彼らの幸福な白さに、杏は初めて気が付いたのだった。


「白いウサギ、最中そのものですよ」

 何気なく言った言葉に槙さんが、眼を輝かせた。

「最中そのもの、のウサギ」

 反芻して、自分の中での確認が取れたらしい。

「最中の型を、ウサギに似せるのではないって、ことだな。つまり、」

「はあ、」

 槙さんとの会話はあとから疑問符が追いかけてくる。

 ブツブツとひとりごとを言いながら裏口へ消えていった槇さんと入れ違いに、のれんを押し上げ女将さんが顔を出した。毎回微妙に違う模様の着物は、どれも似合って女将さんの美しさを引き立てる。

「夏休み、今年はちょっと早く始まったんじゃってなあ。グーじゃな」

 普段言わないノリのよい音をうしろにくっつけて、何だか上機嫌だ。女将さんは、母より二回り以上も年上だと聞いている。が、大人の年齢は時々よくわからなくなる。途中から数字をただ数えるだけの特殊な時計で人生を過ごしたんじゃないかというほど、年齢を感じさせない人だった。

「夏休み、今回長いんじゃって?ええが。お母さん助かるが」

 女将さんが、袂から封筒をするりと取り出し杏に渡した。

「これ、うちの旅館の喫茶店の招待券。よかったらおいで」

「喫茶店?そんなのどこにあるんですか」

 古い二階建ての館内全てを見たわけではないけれどこの中に喫茶店があるとは思えなかった。

「スナダマリの辺りなんよ。ああ、それじゃあわからんか。ええっと、ああ耳塚の辺りって言ったらわかる?ここ、山の手へ上っていった先にあるんよ。その辺りもうちの敷地なんよ。まあ喫茶店っていうほどのもんではないかな。長いこと旅館のお客さんしか入れてこんかったからねえ」

 女将さんの言う耳塚、と、杏の知る耳塚、が違うような気がした。耳塚は昔の地名で、今はバスの停留所にその名が残っているだけだ。

「耳塚、の辺りですか。辺りって…、」

「ああ、お堂って言った方がわかるん?それが最近、砂が溜まるようになったんよね。まあ、つまりコーヒーの出涸らしじゃ。風が吹かなくてなあ。風が吹くにはやっぱり、音楽が必要なんよね。新しい音楽は、若い人が知っとるが。はいこれ。二枚入っとるけん」

 単語ひとつひとつはわかるけれど、まるで外国語みたいに聞こえた。忙しそうに渡された茶封筒は厚みがなく何も入っていないようにしか見えなかった。杏は礼を言ってそのまま自分のポシェットに仕舞った。

帰り際、槙さんが浜辺で拾い集めたという貝殻を見せてくれた。それらはまだ海水を含んで潤んでいた。


 帰宅すると夕方の五時だった。自転車の音を耳にした母が、玄関から出てきた。

「ねえ、杏。あのウサギ、何かおかしいんよ。前からあんな感じなん?」

 母に急かされてウサギのいる柚子園へ向かう。辺りは柚の木々が縞模様の陰を作っていた。ウサギたちも縞模様の中で静かに草を食んでいる。

「耳をかざす仕草、何度もしとったんよ」

「耳をかざす?」

「そう。鳥の翼みたいに」

 言葉で説明されるだけでは想像がつかなかった。どのくらい待っただろう。結局ウサギたちはじっといつものように丸くなって時々位置を変えるだけだった。

 次の日、杏と桃子はじっとその仕草が始まるのを待った。

 夏の朝は早い。ぐんぐん日が昇り、ウサギを放している囲いの辺りにも燦々と日が照り始める。

「するかな」

 太陽光がまっすぐに射しこむ。ウサギたちは耳を水平に倒して地面に伏せ、ゆっくりと前後に揺らし始めた。数回繰り返し、今度は前方に傾け、ひたすらじっとしていた。

「向こうから、何か聞こえとる?」

「ウサギの向こう?」

 自分たちには何も聞こえていなかった。

「もうちょっと近づいてみようや。何か聞こえるんかも」

 けれどどこも同じ、聞こえるのは今ここで当たり前に聞こえる音。風の音、鳥の声、自分たちの息づかい、それだけだ。

「ここにおると、うちらのこと、じっと聞いてくれとるみたい」

 ウサギの前で二人並ぶと母は安らかに笑った。

「そうだね、何か聴いてくれとる感じがする」

「違うんだろうけど、不思議とそう思える」

「撫でてみていいんかな?」

「うん。大丈夫。人には慣れとる」

 こんなにかわいいウサギだったんだ。かわいいと思えた自分が嬉しかった。杏は今までまともにウサギを見ていなかった。無関心だった。

「大事にされとる」

 大事にされないと生きていけないのに。

「よかったなあ」

 杏は話かけた。セリフとして言えた。そのあと本当によかった、と思えた。また嬉しくなる。ウサギたちは同意するかのように、ゆったりと耳を揺らめかせる。


‥・・・‥


 ウサギに声を発する機能が未発達なのはその必要がないからなのだろうか。ひたすらに静かな気配が彼らを包む。

 周囲は生命を主張する音で満ち始めた。蝉の声、鳥のさえずり、遠くかすかに波の音。それらはひとつずつ単独で音を響かせているようで、いつしか全体を構成し、夏の朝のオーケストラさながらだった。

 無音の彼らを引き入れたのはどの音だったのか。

 音に代わる存在感がウサギたちにはあった。休符、かもしれない。オーケストラのハーモニーが空気なしでは存在できないことと同じだった。

 ウサギは空間でできていた。音そのものは発しない、しかし常にその周囲として、音を伝導する媒体として、どっしりと存在していた。

 声を発する機能がないのは、彼らが聴くという機能に徹したからかもしれない。

よく聴いていないと、音と音の合間に潜む自分たちの居場所をみつけれられないから。耳をそばだてて声を殺してじっと潜んでいるうちに、声の出し方を忘れてしまった。でも、それは要らなくなったんだ。要らないから、思い出す必要もない。



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