第2話 先生


 二谷莉子は、学校が長期の休みに入ると聞いた時、緊張の糸が一気に弛むのを感じた。すると徐々に身体感覚がぐらついていく。肩が付いている場所が、意識していたよりずっと下の方みたいだ。そして腕は肩に埋もれているのではなく、自由にぶら下がっていたみたいだ。仕事をし始めて、だんだんと腕の振り幅が狭くなっていただろうし、ピアノを弾く時の重心が上にずれていただろう。そんなことには全く関心が持てなかった。視野の狭さに気付けたら、頭を振って視線自体をずらせばいい。けれど、気付かないのだから。

 そのかわり。

 莉子が聞く音には水の流れが見えた。

鳥の鳴き声、猫の喉鳴らし、びゅうびゅういう風、全ての音は水滴になり深みができ流れをつくった。目を閉じると指の間で流れを感じる。掬い上げ目を開けると何もない。次から次へと流れ込み水面の輝きが眩しくて目を閉じる。そのままじっと耳を澄まし聞き入る。

幼い頃、その姿を見た莉子の母はこれが才能というものだ、と直感した。「備わっている」人間と、そもそも生まれ落ちた最初から何も「持たない」人間とがいるのだ。持つ者、持たざる者。見える者、見えない者。

母は幼い莉子にピアノを与えた。それ以外わからなかった。後は他人任せにするしかなかった。自分には音楽的才能が何もなかったから、とりあえず、そうしておけば間違いないと思ったのだ。

 しかし莉子にとっての音楽は「ピアノを弾くこと」に収まるものではなかった。朝起きてから夜眠りに就くまで、耳から入る音は身体中に響き渡り、五感を刺激した。目が聞き耳が見て、閉じて初めて目だとわかる。音の反響は記憶を呼び覚ます。聞くことは、見ること。感じること。共にしか在り得ない。

小学四年生の時、莉子は初めて海を見た。

ひなびた港のフェリー乗り場で恐る恐る桟橋に立ち、見下ろす深緑の液体の圧倒的な量に衝撃を受けた。今まで見た何より果てしない場所だった。そこに溜まった音はいつか音楽になるのを待っている。漠然とそのイメージを繰り返す。どれだけの音楽がそこに眠っているのだろう。考えただけで気が遠くなる。止まない波に莉子は耳を慣らすしかなかった。

父の仕事の関係で島暮らしは二年と最初から決まっていた。母は引っ越しに反対した。「ピアノがないじゃないですか」珍しく父に反抗する母は莉子のピアノを理由に持ち出した。「ああ、そういうことなら」父はいとも簡単に、ピアノ付きの物件を手配した。

 時計の秒針が規則正しいリズムを刻む。波が寄せては引き、振り子は水をかき混ぜる。深まる時間の描いた音楽は、重なり合っては打ち消して、ある情景を浮かび上がらせる。海だ。時計の音は、莉子にいつも海を感じさせた。時計によってどんな海かは様々だった。ある時は浜辺。ある時は港。そしてまたある時は切り立った崖の縁に打ち砕ける波。

時計はどこにでもあった。注意していないとすぐに、莉子は海を見てしまった。どこにもない海がどこからともなく莉子の視界を覆い尽くした。それはもう、圧倒的だった。日常生活を圧倒する力が、どこにでも現れる時計にあったのだ。そんな莉子にとってピアノはただの雑音にだってなり得た。

莉子のピアノは、明かり取りの天窓が小さく光を落とす、天井の高い小部屋にあった。幸運にもピアノは無音の場所に置かれていた。

「時計は置かないで」

莉子は母に懇願した。

「あら、何分練習したか、わからないじゃない?」

「いいの。わかるの。何分かはわからなくても、時間が溜まっていくのはわかるの」

この子は独特の表現をする、と母はそこに天才的なものを感じ、言われた通り、時計を置かなかった。

この部屋にも例外なく水は溜った。ピアノの音が、次第にくぐもっていく。袖口や裾から肌に沿って生温かく湧き上がる水が流れ込む。首元まで溜まった透き通った水に出口はない。

「もうおぼれちゃう」

 莉子が練習をやめるのはいつも、そういう事情からだった。

 音が止むと、ひたひたと水は引いていく。

 今まで知っていた海には、縁があった。絵本のページ、写真の白い縁取り、テレビの黒い枠。海とはいつも区切った枠の内側にあった。ネコが地面に張られた結界に思わず入ってしまうように、莉子はそこに吸い込まれるような魅力を感じた。結界を結んだ線は世界を区切る。絵本の上だろうと写真の中だろうと莉子は範囲の定まった「海」の中に立ってみたくなる。するとそれらの二次元空間が空想の世界では三次元になった。歌いながら水を起こす。簡単だ。音楽さえあれば簡単だ。想像の世界の海は呼吸もできるし歌も歌える。

 現実逃避の行き先は、「現実」を自由に操る水のなかだった。誰かを助けることも、助けられることもない、孤独な海だ。

ようやくそこから出る時、時計は波打ち際へうち捨てられている。 束の間の凪は時を止め、結界はバラバラに壊れた時計の針先で破られていた。

「莉子、練習は?」

 さっき母さんは同じことを言った。そう言おうとして呑み込む。

「莉子、練習はどうしたの?」

「今まで何してたの。聞こえなかったわ。ピアノの音も何も」

 時計のせいだ、と思う。時計の秒針の音のせいでわたしのピアノが聞こえないんだ。私の耳は、水を見ている。母ももしかしたら何か自分でもわかっていない、能力があるのではないか。もしくは欠陥。

「さあ早く、始めなさい。最初から」

 莉子はただの集音器だった。自分自身の取り扱い説明書がどこかにあるのなら教えてほしかった。耳が圧倒的な存在感を放っていた。


 休みに入った七月初旬、学校は、建物全体がすっぽりと覆いに包まれて姿を消した。もちろん「あの中」に在るはずだ。けれど、誰も確認はしない。「工事関係者以外立ち入り禁止」を誰もが忠実に守った。

元々「立ち入り禁止」だらけの島だ。放置された工場の廃墟は島のあちこちに残っている。斜めに傾いた煉瓦造りの壁、崩壊寸前の塔、植物の蔓と同化した電線、木々の間を束になって走るパイプ。立ち入り禁止の札はその横でひっそりと風に揺れている。色褪せた黄色と黒の縞模様で、それが「キケン」を表しているとわかる。

 島の人は立ち入り禁止に慣れきっていた。学校の覆いの内を覗かなかったのは禁止され

ていたからではない。ただ関心がなかっただけ。


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