ラビット ランド

机田 未織

鐘の音

第一話 鐘の音

 ブィーン、ジーツー

 

 通電音。

 カチッ タイマーが作動する。

 頭上高くで歯車がギリギリと回転する。


 ──島の中学校の一角に、ひっそりと鉄塔が建っていた。

 てっぺんには鐘がある。

 何か、違和感のあるかたちだった。

 けれどあまりにも高い位置にあるので、点検のために鉄塔に昇る、ごく限られた人しか近くで目にする者はいなかった。

 だから皆、音しか知らない。

 ほら、もうすぐ聞こえてくる。この音。


  ……一瞬の静寂は再起動のしるし。


 鐘の音が響き渡る。


 古い鉄塔が建っていた。

 雨の海を見ながら建っていた。


 錆びついた鉄骨の枠組みから、雨雫が一斉に震い落ちる。

 しとしと降りしきる雨の中、音は低く這うように広がる。

 校庭を駆け木々の根元をすり抜け、まだ朝露の残る緑葉を震わせながら、より広く低い場所へと染み渡る。

 松林を抜けると砂の上にコンクリートの破片が散らばっている。破片は次第に細かくなり砂と同化する。

 波音が容赦なく鐘の音をかき消す。


 砂丘だ。

 広々した砂丘の片隅に金属の欠片がうずたかく積まれている。都合よく積まれている。何も言わないから砂丘は都合がよい。砂の丘を越えるとまた砂の丘が現れた。観光客はその丘と丘の間で記念撮影をする。

 きれいなもの以外映り込まないよう、海を背景にして。



 実は砂丘のどこかに全く無音の地点がある、とは、誰が言い出したことだろう。

 観光客はそれを探して歩き回る。

 二人で歩いていたのにいつのまにかひとりきりになる。

 絶え間なく四方から押し寄せる波音がまるで自分の鼓動をも打ち消す。

 砂丘は全てを吸収する場所だった。そこではもはや、雨は降っているただの映像でしかない。

 無音の雨が見渡す限りの砂に降る。この島に同じ雨が、柔らかな音を立てている場所だって確かに在るのに。


 鐘の残響が誰の耳にも音として認識されない細かな震えになった。

 そして音の消失は四時間目の終わりと同時に、夏休みの始まりの合図となる。




「えー、校長より、明日からの耐震工事について話があります。明日、七月十日から八月三十一日まで、休校となります。少々長めの夏休み、兼休校。よろしいか。校内への立ち入りは禁止となります」




 □

 あんは今日、本当は休もうと思っていた。

 夏休み前日なんて、ほぼ夏休みみたいなものだ。今日もし、超重要事項を習ったとしてもキレイさっぱり忘れてしまうだろう。

 教室にいる誰もが、宙を浮遊しているみたいにぼんやりと一学期最終日を過ごしていた。

「わっ、寝とったわ」

 うたた寝をしていた杏は校舎全体を震わす鐘の響きに毎度ながら驚く。ふわふわした白い指先がふわふわした髪の毛を未使用品みたいに束ねる。鈍くまばたきを繰り返し眠気を振り払う。

「この鐘の音もしばらく聞かんで済むってことじゃな」

 ひとりでぼそっと言ったのに、返事が返ってくる。

「杏ちゃん、この音、嫌い?」

 後ろの席のボタンは小声で尋ねた。そのつもりはない、不本意な小声。

「嫌いじゃないけど、なんか、そう、だなあ…」

 言葉を探して杏は言った。東京よりずっと北の方から越してきたボタンは標準語に近い洗練された言葉遣いをする。そんなボタンと話す時、杏は意識的に方言を控え目にする。

「暴かれる感じかな」

「あばかれる?」

 ボタンは珍しく身を乗り出して尋ねる。杏の方は、それ以上答えの用意がなくて、思考回路にある言葉をかき集める。

「頭の中にぐわんぐわん、って響くでしょ。あれ、自分でもわからんものを取り出されそうで。アナタの頭の中にこんなん、ありましたよ、って別の何かが覚醒されるっていうか」

 それ以上、かき集めようにも杏の頭の中は空っぽで、カギカッコは閉じざるを得ない。もう話が終わったしるしとして振り返らなかったけれど、杏には、ボタンの周りの空気がずんと鎮まっているのが何となくわかった。

その、風の止まったようなボタンは意外なことを言った。

「わたしは、そういうところがあるから、この音、好きなんだ」

 杏が返事を言いあぐねていると、おかっぱ頭を涼やかに揺らしてボタンは笑った。

「音って波だから」

「うん?」

 ボタンは何を言っているんだろう。杏は眠気を脇に置く。

「次へ次へと伝わって、少しずつでも、いつか何かを大きく変えること、あるんだよ」

 先生が教室を出ると、一層大きくなった喧騒が二人の声を踏み散らかした。

 杏子あんこのことをみんなアンと呼ぶ。和菓子屋の娘である彼女の名前が餡でなく杏と当てられたのは和菓子の似合わない(嫌いなのではない)彼女にとって、救いだった。杏の外見から誰も「アン」の音で、餡を想像しなかった。nを二つ重ねて、最後にeを付ける方の、おしゃれなアン、がしっくりくる、そういう女の子だった。

『音は小さな波。少しずつ、いつか何かを大きく変える』

 ボタンはそう言った。

 この中学校は毎日、一日数回気まぐれに鳴る鐘の音を聞いている。大掃除前の一斉放送で、校長先生が言っていた。

『老朽化した校舎は、皆の善意と労りで救われます。さあ掃除に励みましょう。この夏はゆっくり休んでもらって、耐震工事に臨んでもらいましょう』

 と。


(あの鐘の音は、わたしたちに特殊な作用を与えるから、だから私たちは夏にここにいることができない、とか。)


 杏のいつもの空想癖くうそうへきは知らぬ間に物語を始めてしまう。




 ボタンは外を見ていた。

 今、鐘が鳴り終えた。

 ここは学校なのに、授業中でもお構いなしに鐘が鳴る。時計塔の時計はただの飾りで針がない。特に時間を知らせるでもなく思いついたように鳴る鐘。もう慣れたつもりなのに、ふいに始まるとびくっとする。

 中学校は島に唯ひとつの小高い山の中腹にある。四十年以上前、元々小さな遊園地だったこの場所に中学校が建った、と、転校した日に校長先生から説明された。


「遊園地どころか、映画館も銭湯もレストランも。幸せになれるものが全て揃っていたそうです」

 校長はまるで自分のことのように自慢そうに話す。

製錬せいれん工場の経営が悪化して閉鎖に追い込まれたのがちょうど日本が高度経済成長に終わりを告げた頃でしょうかねえ。工員のこどものためにあった中学校は会社が経営者だった。だから工場が閉鎖されると同時に閉校になったんですよ。元々、島に暮らすこどもたちはフェリーで本土の中学校へ通っていたそうです。けれど島にも中学校を、という流れで土地探しが始まった。しかし島に学校、となると建築可能な土地は限られている。なにせ島には廃墟の工場ばかりですからな。そこで『遊園地』の跡地に学校を建てた。と」

 ボタンは途中から全然聞いていなかった。

 この春、つまりボタンより数日だけ早く島に来たという、校長になったばかりの人の、話だった。


「そのね、遊園地はラビットランドっていって、ウサギがたくさんいたらしいんです。ウサギはね、ほら、もうすぐ鳴りますよ。ちょっと黙っててください…」


 ボタンは一言も発していなかったが、さらに息も控えめにした。

 その時、鳴ったのが、ヨーロッパの大聖堂のような荘厳な鐘だった。


「…はい、これね。びっくりしました?この音が鳴るとウサギは羽ばたきのダンスをしていたそうです。他の音には全くの無反応だったのに」

 羽ばたきをするという表現がウサギに対して正しいのか、よくわからなかったが、質問すると倍になって返って来そうだったので、やめた。

 

 校長先生はそれから、工場の閉鎖以後、島の人口減少が著しいこと、浜辺には旅館が一軒、あとは民宿や海の家が立ち並んでいて、砂丘の観光で何とか「もっている」状況であるらしいこと、「らしい、らしい」でどれも実感のない話を続け、それを、ボタンは聞くともなく聞いていた。

 ただ応接室の隅に、奇妙な機械仕掛けのようなおじさんの人形があって、終始ボタンの目は釘付けだった。

「これは…」

 質問でなく、感想にすればよかったのに、つい尋ねてしまった。

「これは誰ですか」

「ああ、これね。この人は、…誰だか。校長になったばかりでこればっかりは知らないんですが、ラビットランドの人っていうことは確かでね。ここは応接室兼、ラビットランドだった時を物語る資料室でもあるらしいから、捨てるに捨てられないんです。まあしかし、…君が島の外から来たから、ここだけの話言ってしまうが、そんなのあったんだろうか。こんなところに、遊園地、だなんて。さて、ねえ」


 校長先生は首をかしげる。

 ボタンも見習って首をかしげておく。以後、応接室に入ることはない。

 それっきりだ。

「ラビットランド」のことを以後、誰からも聞いたことがなかった。もう知らない人の方が多いのかもしれない。

 痕跡は時計塔だけ。

 不思議の国のアリスで、ウサギが持っていた懐中時計。別に、あってもなくても話の筋には全く影響のない時計。手元にそれだけが残ったようなものだ。きっと。



 □□


 ボタンが、「ランド」の話をすっかり忘れた七月。

教室の窓からは山の緑、その向こうに 水平線。梅雨時期、一日中降り止まないと表現される島独特のこの雨だって、実は何度も止んで日差しは突如ボタンに海を見せる。

 雨の止む瞬間が好きだ。さめざめした、白く霞んだ世界が突然何かを欠落させて、それが何だったか気付けない。終わったけれど、始まった、その瞬間。だからよく空を見上げていた。今終わったのか、それとも始まったのか、知りたかったから。

 予告なく、雲の切れ間から、目映い光が網膜もうまくをいっぺんに照らす。それまで世界を満たしていた光の粒が全部太陽になったみたいで「ありえない」。低い空に、作りかけの入道雲がいくつも伸び上がっている。あれを、隠していたんじゃないか、という空想にもっと続きがありそうで、この、劇的な天気の変化に便乗して心躍らせてみたっていい。だけど。

 もう長いこと「高揚感こうようかん」を感じることがなかった。明日から、夏休みなのに。だから存分ぞんぶんに空想して、そのままその世界に居続けたっていいのに。


 校庭には建設会社の事務所が仮設されていた。「未来を創る」と書かれた垂れ幕が、急に現れた日差しに戸惑っている。

「…ってツクれるのかな」

 帰り仕度を終えたボタンが、教室の窓辺で佇む。ささやかな音声はほぼ片仮名でしか聞こえない。杏はただ、聞こえたしるしとして答える。

「ツクレル?」

 どちらが誘うでもないが、一緒に帰るのが、転校生のボタンとの習慣になった。「方向が同じだから」。多分お互いそれくらいの認識でしかない。けれど杏はボタンと歩く時間が好きだった。

春に遠方から引っ越してきたボタンは、古いアルバムから抜け出て来たような、骨董品みたいな女の子だった。

 杏は流行っているファッションや話題の食べ物にいつも興味があった。それらは杏が外側から採取しなければ、どこにも存在していないと思っていた。でも多分ボタンは自分の中で世界を完結できる。基準が内側にある。抽象的にしか言えないけれど。

 窓から生暖かい風が吹く。杏もボタンと同じ場所に立つ。そこに立てば、ボタンのつぶやきが意味を持つかと思ったのだ。

「ツクレナイカ……」

 ボタンの見下ろす窓の外に答えがあった。

「ああー」

 あった。未来を創る、だ。

「未来?」

 外ばかり見ていたボタンの視線が杏に向けられ、やっと目が合う。


 同じ日の午後。その日は個人懇談最終日でもあった。まだ杏は帰ってこなかったけれど杏の母、山根桃子は中学校へ向かった。坂と細道ばかりのこの島では小回りの利く軽四自動車が重宝する。

 今日はずっと小雨が降り続いた。ついさっきまで柚子園の手入れをしていた。カッパを着たり脱いだりするのは煩わしく消耗した。この上先生に娘の成績や進学先のことを心配そうに話されると思うと気が重い。

 桃子は学校の入り口がわからない。通用門の扉は常に開いていたはずがその日は固く閉じて、鍵がかかっていた。

「鍵、なんてあったん」

 ガチャガチャとひと通り試し、諦めてふと顔を上げると張り紙があった。

『工事関係者専用門 保護者の方はあちらへ↓』

「あら、」

 矢印に沿って歩きながら、滑稽さも感じる。

(どこからだって、入ろうと思えば入れるのに。)

 緑色のネットはピンと張られてはいたが、下の方を持ち上げれば簡単に潜り抜けることもできた。 ただ、それが何となく非常識だということもわかっていた。だから律儀に入り口に指定されたところから入るだけだ。

拡大印刷された矢印が、一定間隔でネットにぶら下がる。手作りであろうそれらに、不思議と温かみは感じなかった。

(手作りが全て温かいってわけじゃないんじゃな)

 体育館の壁に沿い、塀の高い倉庫のようなところを抜け、金網で囲われた粗大ゴミ置き場を通り過ぎると垣根の木々が通りに張り出しており、頭を屈めてゆくと、通用門にたどり着く。

 古びた青銅色の小さな扉が少し開いていた。

そこが矢印の示していた出入り口だったのかはわからない。手で軽く押すと、ギギイ、と錆び付いた音を立て、扉は開く。と同時に打ちのめされるような響きが降ってくる。桃子は時計塔の真下にいた。桃子が通っていた頃から全くあてにならない時計だったけど、今見上げた時計の文字盤には針がない。

(あ、でも、鐘が鳴るから時間がわかるのかしら。いや、鐘だって規則的に鳴ってるわけじゃない)

 色々驚いたけど気持ちは温まる。久しぶりに学校で聞いたこの音。ここは桃子の母校だった。

「山根桃子さん?」

 誰かが呼びかけた。久しぶりにフルネームで呼ばれた。

山根から一回、別の苗字になって、「山根桃子」は箱に仕舞っていた。でも十年ほど前、箱を開けてまた山根桃子、になった。音は同じなのに元に戻れはしなかった。そもそも自分が元に戻りたいと思っているのかどうかも、わからなかった。

「山根さんではないですか」

 向こうは確信を持っているらしい。

「どなた、ですか」

 逆光になって顔が見えない。

「やっぱりももちゃんね」

 その声にやっと桃子は気がついた。特徴的な声。

「もしかして、ニャンコ?」

 二谷莉子、通称ニャンコ、小学校時代の同級生だ。

「もしかしてるわ」

 当時憧れた、木の葉のような声。まだ誰にも踏まれていない乾いた落ち葉の、あのときのニャンコの声と重なりあう。でも、姿は桃子の記憶の中のニャンコとは全然違っていた。齢の割に白髪の目立つショートボブの髪は良く言えば個性的だが自分で切っているのか前は真一文字、後ろは妙に不揃いだ。元々背は高かったけれど、あれからも順調に伸び、その割に体重はそのままだったのだろう。随分と痩せて、ようやく声と姿が一致したといった感じだ。紺色のサマーセーターとベージュのロングスカートの、色は魅力的だけどまるで着古した制服くらいくたびれていた。一通り頭の中で批評して、自分は、と振り返る。とりあえず汗だくだった作業着を着替えただけの、生活感あふれる格好。すっかり増えた体重。

(どっちもどっち)

 そう笑った桃子の顔は、ニャンコの知っている桃子だった。

「ももちゃん、こどもさん、いるの」

「ああ、そうなんよ。わたし今はなんと保護者なんよ」

 おどけてみせながら、桃子はこのまま方言を使うかどうか迷った。そうだ、あの頃もわたしは、標準語の莉子に対してこの方言が少し恥ずかしかったっけ。

「ニャンコは、先生なん?」

 莉子は少し迷ったように間をおいて頷いた。

 にたに りこ、のことを始めはもちろん、にたにさん、と呼んでいたけれど、ひらがなにするとなんだか「にゃんこ」だね、と桃子が話しかけたのがきっかけだったと思う。だんだん仲良くなって、卒業の頃には親友だった。

「中学、離れちゃったから卒業以来じゃな」

 桃子が言うとすかさず莉子は首を振った。

「ううん。わたし、六年生の十二月にはもう島から出て、東京に引っ越ししたから」

 自分の記憶が急にぐらつくのを桃子は感じた。憶えているようで、憶えてなどいなかった。

「そうなんじゃね。卒業までおらんかったかな」

 忘れていて少し申し訳なくなる。

「何年生?お子さん」

 莉子は話題を変えた。

「三年生。三年二組のやまね、あんこ。知っとる?」

「…ああ、ええっと、うん。わかるわ。あら似てるわ。ももちゃんの小学生の頃に」

 くすりと笑ったニャンコは、一瞬ニャンコそのものに戻っていた。


「ニタニ、ニタニ、ニタニ…」

 お経のように杏が繰り返し唱える中、母はラジオのダイヤルを微調整し続ける。

母はAM放送が好きだ。ごちゃごちゃ会話が続く番組が特に好きらしい。けれどいつも音量はとても小さくて聞いているのか、興味があるのかないのか、わからない。以前尋ねたら母は呑気に言った。『いいんよ。お皿を洗っとると聴こえてくるん。興味も出てくるん。それでいいんよ。したくないことをするときは、場所を味方に変えるんよ。自分の味方に。そしたら、したくないことのほうが、変わってくれるんよ。いつのまにか、(するのもわるくない)ことにな』杏は母の、こういうところは尊敬している。


「…ああわかった、二谷センセー」

 杏が素っ頓狂な声を上げた。共通の音を記憶の中から探し当ててくれた杏に、桃子は頷いて言った。

「あの先生、母さんの古い友人なんよ。今日初めて学校で声をかけられた。今までおった?母さん、全然気がつかんかった」

「…確か一年くらい前に赴任してきたはずじゃけど」

 名前は二谷だったと思う。一年のうち通算何日来てるんだろう。幽霊みたいな存在感。杏は思った。

「ほじゃから、今日初めて会ったんじゃな。まあでも小学校と違って、中学校って、気軽に親が顔出す所と違うもんなあ」

 桃子は今日、工事中の学校の周りをぐるぐる歩いたことを思い出した。そもそも学校が工事中だなんて知らなかった。最後のお皿を洗い終えると、桃子はふう、と一息吐いて、コーヒーを淹れ始めた。

「これ、試作の餡子」

 あちこち凹んで年季の入った大鍋の中で、こんもり山になっている餡子を、桃子はひとすくい豆皿に載せた。

「ウサギ最中に、ちょっと洋の要素を取り入れたものも作ってみようかな、って」

 洋風なのに、やっぱり中身は餡子なんだ、と妙に感心して、杏は味見した。

「うん、おいしい」

 追加された洋に気付けず、曖昧に感想を伝える。

AM放送は、安心するテンポの会話が人生相談を繰り広げていた。夫が失業してしまったが、自分は実母の介護でとても仕事はできない。途方に暮れている、といった内容だった。回答者どちらの人生からも程遠くて、それできっとふたりとも安心できている。

「二谷先生って、」

 言いかけて迷った。口からマイナスの言葉しか出てきそうにない。仮にも母の古い友人のことを悪く言いたくはなかった。

(二谷莉子先生)

授業中に不意にいなくなったり、急に泣き出したりと、奇妙な先生で有名だった。それでこの四月からは非常勤で、音楽室に週三回来て、授業だけして帰っていく。

「二谷先生、あんまり知らない。目立たない。ちょっと謎めいたひと」

 桃子は頷いた。そして今日の奇妙な雰囲気を思い返す。

「そうかもなあ、確かに。昔からちょっと大人びて、何考えてるかわかんないとこはあったわ」

 コーヒーメーカーが最後に蒸気をふわっと立ち昇らせた。

「四十年じゃもん」

 コーヒーの香りのなか、母娘ふたりの夜は更けていく。



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