第2部 天平十三年 女東宮24歳

 翌年の秋になると、甕原みかのはら宮の内裏もようやく格好がつくようになった。新春には生垣も育っておらずに几帳を立てなければならなかったものが、今では建物も今上帝や東宮の住居を中心に出来上がりつつあり、ようやく太上たいじょう天皇の住まいも完成したため、先帝が移って来られた。

「久しくあなたに会えなくて寂しかったのですよ、東宮」

 今上帝に次いで先帝は女東宮に声を掛けられた。父帝が先帝を甕原宮の外にまで御出迎えに御出でになられたのに東宮も同行したのである。

「わたくしもです、陛下」

 甕原まで女東宮は先帝と同じ車に乗った。

「三代の都を捨てるとは、今上も何を考えていることやら」

 先帝は明らかに不満げであられた。それもそうであろう。突然に伊勢いせから尾張おわり美濃みの近江おうみと御幸をはじめ、その最後に何の相談もなしに突然遷都を宣言し、なし崩しにそれを強行なされたのである。平城京の大極殿だいごくでんはすっかり取り壊され、甕原に移されている。

「父さまにも何か考えがあってのことと思います」

 女東宮も一応は父帝を庇った。

「どうせ何かの怨霊に怯えているのでしょう。すぐに分かります。わらわはあの子の母親なのですから」

 正確には伯母であるが、今上帝の生母が精神を患ったこともあり、また先帝から帝位が譲られたことからも、擬似的な親子であるといえる。

「それに水の問題もあります。この地に都を移してより、官人も増え都人も増え。少し雨が降らぬとたちまち飲む水も不足しているというではありませぬか。何よりわらわに何の相談もないというのが許せませぬ」

 先帝が帝であらせられた頃にもさほどの実権を御持ちであったわけでもない。譲位なされた後は、今上帝が最も頼りになされたのが先帝であるだけに、逆に権力が増されたくらいである。しかし徐々に今上帝は先帝を御頼みなさらなくなっている。それというのも、正三位右大臣橘諸兄しょうさんみのうだいじんたちばなのもろえの両輪である僧正玄昉そうじょうげんぼう下道真備しもつみちのまきびの存在のためと先帝は見られているようであらせられた。特に玄昉は今上帝の御心を掴んでしまったし、真備が諸兄を通じて行う献策が当を得ているため、今上帝は知らず知らずのうちに親政を始められてしまっておられるのである。

 今上帝は橘諸兄と藤原一族の後見を得て磐石の権力を得られていらっしゃるのに対し、先帝を守り立てていた皇族たちはすでにこの世にいない。左大臣長屋王さだいじんながやのおおきみは陰謀の手に落ち、大将軍新田部親王だいしょうぐんにいたべのおおきみ知太政官事ちだじょうかんじ舎人親王とねりのおおきみも亡くなって六年以上になる。その他の皇族は力を失うか藤原一族の手に落ちており、その筆頭が葛城王かつらぎおうこと右大臣橘諸兄である。

「父さまはまだ怯えています」

「先に日蝕がありましたしなあ」

 三月の日蝕での父帝の震えようは、帝としての御威厳も台無しであられた。すでに僧正玄昉の進言で無闇な殺生を禁じる命令を全国に出して仏法により帰依し、全国に国分寺建立こくぶんじこんりゅうの詔を出されたばかりであられる。仏法の力で怨霊を封じ込めるつもりであられただけに、その太陽の満ち欠けは藤原広嗣ふじわらのひろつぐの無念さが押さえ込まれていないことを今上帝に御存知たまわったからである。直ちに八百万の神々の力も総動員させるべく、伊勢神宮や宇佐うさ神宮にも祈祷を命じられた。

「昔、わたくしが陛下のところへ遊びに行っていた時にも蝕がありましたね」

「ええ、私も覚えています」

「わたくしも昨日のことのように」

「その時には吉備内親王もおりました」

 左大臣長屋王の正室で、先帝の妹である吉備内親王は、左大臣の死を知り絶望して子達と共に自殺したという。

「叔母上はなぜ自ら死を選んだのでしょう。父さまが叔母上を生害なさることなど考えられません。現に長娥子ながこさまの王子達は罪に問われませんでした」

「あの子は左大臣を、長屋親王を愛していたのです。前途をはかなんだのではありません」

 その口ぶりから、先帝は吉備内親王の死は自殺だと信じているようであった。

 しかし女東宮は、伯父の武智麻呂が左大臣同様に自殺を強要したのではあるまいか、などと最近は恐ろしいことを考えるようになった。だとすると、伯父達の死は左大臣だけでなく吉備内親王の怨霊でもあるのかもしれない。

「民の移住は進んでおらぬようですね」

 先帝は話題を変えられた。

「はい」

 すでに春には強制的に甕原に移住するように詔が出ているが、それでも従わない者は少なくない。庶民ももちろんであるが、豪族達もみすみす橘氏の故地に都を移し、藤原・橘政権を磐石のものにさせることに抵抗がある。

「わらわも同じです。住み慣れた平城の都から移って何になろうか」

 先帝はお寂しそうにつぶやかれた。


 甕原みかのはらで改めて歓迎の宴を催した今上帝は、久しぶりに席を同じくする先帝の御機嫌がよろしくないことに、今更ながら驚いておられるようであった。女東宮の見るところでは、先帝の御不興の原因が父帝には全く分かっていらっしゃらないようすであられる。先帝の好む高麗楽こまがくも用意なされたのであるが、その演奏がまずかったのでしょうかと全くの方向違いのことを聞く始末であられた。

 今上帝は知らず知らずのうちに親政のようなことをなされているだけで、先帝の影響下からの独立などどは露とも考えていらっしゃらないのは間違いはない。元々は御身体も健やかではなく、帝としての行事をこなされるだけで精一杯の今上帝にとっては、まつりごとなど手のかかることは他の誰かがやればいいとの御考えであらせられる。

「朕は母上の身を案じてお呼びしたのです」

 などと慌てて言い訳をなされた。そして平城京がどれだけ怨霊にまみれているのかというのを訴えになられ、そんな魔都に親愛なる先帝を久しく在らせられることなどできないと心の底から御語りあそばされたため、どうやら先帝も少しは気分をよくしたらしい。今上帝が政治的影響力を失った先帝を昔同様に大切に敬う心を失われていらっしゃらないのは明白にみえるからである。

 一方で光明こうみょう皇后はそんな二人を無視するかのように異母兄の橘諸兄たちばなのもろえとその息子奈良麻呂ならまろと楽しそうに話をしていた。

 先帝は藤原の血を全く引いておられない。そのため、祖母の持統じとう帝が愛した文忠公ぶんちゅうこうこと藤原不比等ふじわらのひふととその四人の息子達の勢力の伸張を苦々しく見られていた点はあられよう。先帝の御在位時には明らかに祖父の天武帝が遺した律令の仕組みが比較的機能なされ、藤原氏も最有力な臣下の一つでしかなく、皇親勢力が上回っていた。だが今上帝は藤原腹である。そのために一気に勢力は傾き、左大臣長屋王の呪詛事件以来、藤原・橘連合が席巻した。

 そんな藤原氏からさらに送り込まれた安宿媛あすかべひめこと光明皇后をもちろん先帝は苦々しく思われていらっしゃる。口には出さないが、それは態度でありありとしておられた。一方で光明皇后も藤三娘とうさんじょうなどと署名するなどと藤原一族の出であることを誇りとしているような態度で対抗したため、二人の仲は拗れきっている。そのため滅多に二人は同席なされないし、公式の場では慇懃無礼を貫きあわれた。

 先帝は昔から女東宮こと阿部あへ内親王を可愛がってくださっていたが、その弟宮の夭折によって女東宮が同じような境遇となったことに心の底から同情してくださっておられる。だがそれも光明皇后にしてみれば、阿部内親王が受け取った弟宮の誕生による疎外感と皇后が子を失った衝撃から久しく立ち直れなかった間の孤独感にかこつけて、先帝が取り入られたようにしか思えない。

 そのため、橘諸兄が主宰する政権が先帝を除け者にしようとするのは光明皇后の意図にも適っていた。


 甕原みかのはら宮には県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじが娘の不破ふわ内親王と息子の安積あづみ親王と共に滞在し、今上帝の慰めとなっている。光明皇后が来ない以上は、最愛の寵妃とその子供達を側に置きたいと思われるのは当然であらせられる。

 女東宮は母の光明皇后と違って広刀自に対する思い入れはない。今上帝が手を付けて井上いうえ内親王を産み独立した部屋を与えられたのは、女東宮が生まれる少し前のことである。

 むしろ女東宮は母皇后が本当は嫉妬で狂いそうなのを、かろうじて理性と残った情で繋ぎとめているだけなのに違いないと思っていた。その憎悪はようやく押さえ込まれているだけで、ちょっとしたことで噴出するに違いない。

 そのため、女東宮は広刀自を今では快く思ってはいない。だが広刀自にすれば主筋でしかも東宮なのであるから、早速とばかりに訪問の先触れを送ってくるのは当然である。

「東宮殿下におかれては」

 そう広刀自が頭を下げると、その両隣の安積親王と不破内親王も同様にした。

「皆もお元気そうで何よりです」

 こうしてみると、腹違いの弟である安積親王もすっかりと大人びてきた。女東宮よりも十年下だから、十六歳になっている。

 特に盛り上がる話でもない。時候のやりとりと、光明皇后がご健康かどうかなどという応答があっただけである。

 ふと女東宮は房前ふささきの遺言を思い出した。それが本当ならば、目の前の安積親王が自分の次の天皇になるしかない。何しろ持統帝の皇孫である祖母の文武帝の血を引く男子といえば、今上帝以外にはこの弟唯一人なのである。

 だとすると、房前の言うように、この安積親王と女東宮が結婚して男子を設けるのが最も現実的なのではないかと思うようにもなる。一度そう思うと、頭から離れない。異母姉弟間の通婚は今ではあまり行われないが、祖父の藤原不比等と藤原麻呂の母は異母兄妹婚であった。


 冬になると、藤原豊成ふじわらのとよなりとその妻である百能ももよしが挨拶にやってきた。豊成が平城京の留守居役として改めて任命され、大極殿だいごくでんの移築の責任者となったためである。こちらに単身残る百能に女官として女東宮の側に置いて欲しいということはすでに打診されていた。

「東宮殿下にはいく久しく」

「堅苦しい礼は良い。そなた達とわたくしの仲ではないか」

 豊成は三十七歳になり、もはや立派な官人である。正四位下にして兵部卿で、参議も兼ねている。実質的な藤原一族の長は橘諸兄たちばなのもろえであるが、名目上の氏上うじのかみはこの豊成である。若い頃の端整な顔立ちを覚えているだけに、天然痘の傷痕が一層と豊成を醜くしている。だが百能は気にしていないようであった。二人の間に子はまだなく、百能は従姉妹である房前の亡き先妻が産んだ男子を引き取り、我が子同然に可愛がっている。

「夫は我が子を平城の都に連れて行くといいます」

 百能はそれが不満らしい。

「もう十一ではありませんか」

 豊成にすれば生さぬ仲の継子ままこを可愛がってくれるのは有難いが、いつまでも過保護に育てたくはない。

「いつかは親離れせねばなりませんよ」

 などと女東宮は言うが、自らが産んだ子は一目も見ることも出来ずに別離を強要され、生さぬ仲の百能の子はこうして今でも可愛がられて親離れをそろそろ、などというのは皮肉に感じた。

 百能はふくれたが、二十一歳にもなっても幼い頃の仕草と変わらない。

「ところで東宮殿下はどうお考えでしょうか」

 豊成は出し抜けに話題を変えた。

「何のことです」

まつりごとのことの他に何がありましょうか」

 女東宮は豊成の真意を測りかねている。

「分からないことをいいますね」

「右大臣のことです」

「何か不満でもあるのですか」

「殿下はご不満をお持ちに見えますが」

 いくら東宮とはいえ、右大臣の諸兄の批判など軽々しくはできない。何しろ伯父でもあり、父帝の一番の寵臣でもあり、政権の首班でもある。

「何でしょうか」

「吾にはあります」

 これには女東宮も驚いた。諸兄がこれを聞いたら泣くことは間違いない。何しろ諸兄が最も引きたてようとしており、また立てようともしているのはこの豊成なのである。

「どういうことです」

「吾もすでに若造ではありませぬ。氏上として一族を吾が統率して何の不思議がありましょう。右大臣は藤原の婿とはいえあくまでも他姓の者ではありませぬか」

 確かに女東宮にとってみれば橘氏は母系にあたるが、豊成にとっては何の関係もない。

「だが右大臣はそなたを引き立てているではないか」

「そんなものは形だけです。形だけ立てている素振りはいたしますが、決して実権は渡そうといたしませぬ。それどころか相談さえもせず、下道真備しもつみちのまきび玄昉げんぼうと図って全てを決めてしまいます。藤原の氏上がそんなに軽い存在でしょうや」

 女東宮は黙ってうなずいた。

広嗣ひろつぐが兵を挙げたこと、吾は同情できます。吾らには少しの位のみ与えて何もさせませぬ」

 女東宮を信頼しているのか、または女東宮が諸兄をしっくりといっていないのを確信しているのか、豊成は大胆である。いくら藤原氏の氏上とはいえ、諸兄の怒りを買えばまだひとたまりもない。

 だが女東宮にも豊成の気持ちは想像できた。亡くなった藤原四兄弟は四人で様々なことを相談していた。例えば長兄の武智麻呂や次兄の房前も末弟の麻呂の言を容れていたこともある。だが諸兄はそうではない。豊成や仲麻呂なかまろ、それに永手ながてなどを子ども扱いし、枢要には近づけない。豊成にしてみれば、不満が出るのは当然であろう。諸兄は下道真備を片腕としており、何事も二人で相談して決めてしまう。諸兄が取りまとめるのはともかく、実際にないがしろにされているのがどうやら藤原の公子達にとっては大いに不満らしい。

 だが諸兄はともかく、真備に関しては女東宮は認識を大いに改めざるを得なかった。この甕原において父帝は真備を東宮学士に任命したため、女東宮はその教授を受けることになっている。この東宮学士は女東宮の想像以上の博識であり、答えられないことなど凡そないようであった。もろこしだけでなくこの大和やまとにも詳しく、今上帝や諸兄の重用も納得がいく。

「そしてこの遷都です。藤原の庇護者を自認しておきながら、新たなる宮は橘の勢力地ではありませぬか」

 つまり諸兄は当分はその政権の主催者の地位を豊成に禅譲する気はないらしい。いや、本当に将来には禅譲する気があるのか。それが豊成には不安でもあるようだ。

「兵部卿、あなたずっと以前に日蝕があった時の事を覚えていますか。もう十数年も前のことです」

「さあ、しかとは」

「わたくしははっきりと覚えております。主上は百官を引き連れ、この甕原で騎射をさせ、魔を払おうとしました。ここは平城京からみれば鬼門。主上が恐れているのは平城の都への祟りではありませぬか」

「なるほど、この甕原は平城京への怨霊の通り道」

「太宰少弐の怨霊を恐れるならば、もっと東でなくてはならないのではないかと思うのですが、違いますか」

 豊成はうなずいた。

 実はこれは女東宮の知識ではなかった。藤原仲麻呂である。女東宮は仲麻呂のその思考を真備にぶつけてみたが、真備はそれを否定しなかった。だが女東宮はその出所を敢えて豊成には言わなかった。それというのも、以前は良好であった兄弟仲に最近では何かがあるように感じられるからである。どうも光明皇后が仲麻呂を贔屓にして露骨に豊成を無視するかのような態度を取るためのようであった。だから仲麻呂の発案と知れば採用しないであろう。

 女東宮は右大臣橘諸兄の政権に不信感を抱いていたからこの遷都が失敗すればよい気味である。


 遷都の作業というのは女東宮が想像するよりもはるかに難事であった。そのため、女東宮といえども今上帝に諸兄のいないところで話をする場というものはなかなかない。

 だが一月も経たないうちに、あっけなくその機会は向こうから訪れた。父帝が東宮房に御幸くださったのである。

「右大臣が新都に相応しく名を改めようと申してな、この大和の国の大宮であるからな。大養徳恭仁大宮やまとのくにのおおみやと名づけようというのだ。真備の創案らしい。まことに結構な名であるな」

「その恭仁宮でありますが」

 女東宮は言いにくそうにした。

「どうした。よき名ではないか」

「ここは平城京の丑寅うしとらにございますな」

「それで」

「鬼門ではありませぬか」

 父帝は明らかにはっとなされたようである。

「怨霊が西から来るのならば、もっと東でなければなりませぬな」

 父帝は何も仰らなかったが、心に御刺りになられたことはまず間違いない。なぜならば、そのあと数名の者達に下問なされたらしいからである。特に下道真備には詳しく話を聞かれたようで、その後に女東宮が授業を受けた際にそのことを知った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る