第2部 天平十二年 女東宮23歳
「東宮もようやく
「皇后殿下と東宮殿下にお祝いを」
藤原一族の名目上の長である
他に従五位下以上の位を賜っているものは、その弟の
末弟麻呂の藤原京家を継いだ遺児の
京家の出としては
豊成の向かいの席には一族の長老格で政権の主宰者にして光明皇后の異父兄の
女東宮の側にはまだ無位の
しばらくその千尋と世間話などをしていると、仲麻呂が前に進み出て光明皇后の席の前に座った。
「新妻を放っておいてよいのか」
光明皇后が冗談を言う。
「妻の機嫌などいつでも取れます。それよりは女東宮様のご快気を喜こばせてくだされ」
「そなた男っぷりがさらに上がったの。女遊びはほどほどにするがいいぞ」
「皇后殿下、それは誤解であります」
皇后は仲麻呂と豊成の顔を見比べているようであった。豊成は先の流行り病の爪痕がはっきりと顔にも残っており、どうしても皇后は仲麻呂贔屓というよりも豊成に嫌悪の情を思わせるようである。同じ生き残った者でも爪痕の軽重の差はあったが、豊成はひどかった。
やがて女東宮とは見知った中でもある広嗣もやってきて、皇后と女東宮の母娘の周りも賑やかになってきた。
「やはりわらわは藤原の娘。一族に囲まれてこんなに嬉しいことはありません。本当ならば宮子姉さまがここにいらっしゃればと思わぬでもありませんが」
皇后の異母姉で今上帝の実母の藤原宮子は、回復気味にあるとはいえ、このような大勢に囲まれた場所にはとてもではないが出てこられない。
「それならば皇后殿下、どうせならば一族のみで集まればよかったではないですか」
広嗣にはかなり酒が入っている。
「何を言う。ここには藤原のものしかおるまい」
「いえ、藤原の姓でない者がおります」
「誰のことを言っているのじゃ」
「そこにすましておられる右大臣様のことです。
諸兄は内心平静を装っているが、一瞬の動揺は見えた。
「何を言う。諸兄はわらわの兄ぞ」
「吾等とは血が繋がっておりませぬ。
諸兄は亡き
「この諸兄は
諸兄は温厚な態度である。
「いいや、右大臣様は藤原一族ではない。その証拠に吾等一族を軽視し、身分の低い者を重用している。挙句に吾を邪魔とみて大宰府に飛ばした」
「軽視などしておらぬ。その証拠にそなた達の父親達が薨じた後、急遽位を上げたではないか」
「かろうじて上げた程度ではないですか」
「何ということか。この私が藤原への忠誠を疑われるなどとは、夢にも思わなかった。この私がどれだけ藤原のために尽くしてきて、今も尽くしているのか。亡き文忠公と義兄弟たちの遺児のために、どれだけ心を込めておるのか、そなたには分からぬか」
「分からぬ。あなた様が何をしたというのです」
「おやめなさい。広嗣、そなたが間違っております。諸兄は主上と藤原氏のために動いております」
「皇后殿下はたぶらかされております。この男に委ねては、やがて藤原は力を失い、衰退するでしょう」
それを聞いて、光明皇后も甥とはいえ見過ごせなくなった。
「広嗣、そなたという子は。もしもそれ以上何か言ったならば、わらわにも考えがあります」
「いいえ、やめませぬ。この男の本性を暴かねば、吾らの先はありませぬぞ」
「だまらっしゃい」
皇后は顔を真っ赤にしている。
「こんな祝宴で無粋ではありませんか」
仲麻呂は先ほどから従兄弟の暴走をなんとかなだめようとしている。
「いいえ、大切なことです。さあ広嗣、言い分があれば述べなさい」
光明皇后があくまでも諸兄をかばう姿勢をみせた。
「なりませぬ」
仲麻呂は広嗣にこれ以上の無体な真似をさせまいとしている。
「広嗣、今日のことは不問にいたします。そなたはもう帰るのです。二度とは許しませぬぞ」
広嗣はまだ何か言いたげであったが、酔いが覚めたか頭を下げて出て行った。
「どうしたというのじゃ、あの者は。昔はあのような子ではなかったはずではないか」
光明皇后は首をひねっている」
「そなたは広嗣とは親しかろう。何か聞いておらぬか」
女東宮は仲麻呂に尋ねた。
「それは、言ってよいものか。実は
「なんと」
諸兄が驚いた顔をした。
「大宰府は九州の要地。一族の利益のためにもあの者に任命されるよう骨を折ったというのに」
広嗣の父である亡き宇合は大宰府の
「ほんに。宇合の跡を継ぐものとして大宰府に送られて何の不満のあるものか」
皇后もうなずく。
確かに亡き宇合は大宰府の帥とはいいながら難波宮の造営責任者でもあり、畿内で活動していた。それに比べれば一年の半分以上を大宰府で過ごし中央に全く関わりのない広嗣は、父と比べれば物足りないかもしれない。だが宇合は遣唐副使や
「ありし日の宇合と比べてしまうと、自らの無力さを実感しているのでしょう。だが宇合もまだ広嗣の年頃では同じような官位で地方官でした」
諸兄は宇合よりも十歳年長である。名ばかりの皇族にしては不比等の婿として恵まれていたが、それでも宇合はあっという間に葛城王であった頃の諸兄を官位で追い抜いていった。しかしそれでも宇合は下級の官位から順を追って昇進していったことを諸兄は指摘している。
「兄達が亡くなったからといってその子達がそのまま同じ地位を引き継げると思っているのではあるまいな」
光明皇后は母の橘三千代から、父の藤原不比等が祖父の
「やがて分かってくれると思います」
諸兄はそういって杯を空けた。
「仲麻呂、そなたきちんとあの者を諭すのですよ」
「はい。しかし皇后殿下、私も気持ちが分からないわけではありませぬ。特に玄昉、あの者は」
「おだまりなさい、そなたまでそのようなことを言うのですか。わらわを失望させるでない」
「これは失礼いたしました。以後は二度と」
「そうしてくれ」
広嗣が物心付いた頃には藤原氏の権勢が確立している。そのためか、藤原の世の中というものが当たり前に思えているのかもしれない。
一方で仲麻呂は玄昉に対してはまだ恨みを持っているようであった。仲麻呂は失礼しましたと下がっていった。
「さあ、楽しい席ぞ。仕切り直せ」
「では母上、豊成を呼びましょう」
「いや、豊成はよい。仲麻呂を呼び戻すがよい」
光明皇后はこのような目出度い席に豊成の痘痕だらけの顔を見たくもないのであろう。かつては美青年であった豊成も九死に一生を得たものの、それによって皇后の寵愛を失ってしまった。それよりも同じく端整な顔立ちである仲麻呂を、その才能を含めてすっかりと気に入っているようである。
「仲麻呂こそ国の柱となる人物ぞ。よくぞ兄さまもこのような男を遺してくれたもの」
確かに豊成は無能ではなく、かえって氏上に相応しい温厚さと長者然とした老成さを持ち合わせているが、その頭脳は鋭くはない。鋭利な刃物のような仲麻呂の能力を皇后は稀代のものと感じていたのである。かつて四兄弟の頭脳であった房前の後継者こそが仲麻呂であり、逆に房前の後を継いだ永手などは鈍重で見ていられないとこぼすほどであった。
光明皇后は最近では女東宮を呼んでは愚痴をこぼす毎日であった。
「いったい何が悪かったのであろうか」
それに対し、女東宮は右大臣橘諸兄のやり方が冷たすぎたと思っているが、皇后はそれには決して肯んじない。
「広嗣がまさかあんなことをするとは。何かの間違いです」
「大宰府少弐は玄昉と真備の重用を改めるように申してきたそうです。このお二人を重用させているのはまさに右大臣ではありませんか」
女東宮は諸兄に対し批難めいたことを言って以来、母皇后の機嫌が途端に悪くなったため、今日まで適当な相槌を繰り返してきた。だがあまりにもそれが続くと気がめいってくる。
「何を言うか。兄は間違っておらぬ。ならば間違っているのは玄昉と真備じゃ」
「しかし玄昉は父さまが深く信頼なさっておられます。母さまも心酔していらしたと思いますが」
「ならば真備じゃ」
「真備は今では右大臣の片腕ではありませぬか」
「黙らっしゃい」
このように責任転嫁が袋小路に来ているため、皇后もどうしようもない様子であった。
「これはご無礼を。それではご気分を害されたようなのでわたくしは」
自分がどのくらい母から頼られているのかを知りたくてか、つい突き放すようなことを言ってしまう。
「お待ちなさい、女東宮。行ってはなりませぬ。そなたに行かれてはわらわは誰を頼ればいいのです」
母に対する複雑な思いが女東宮にはある。そして母がまだ夭折した弟宮の死から立ち直れていないことも知っており、自分はその次なのも気付いている。だからといって女東宮は母に対する思いは断ち切れない。どうしても幼い頃の愛情を一身に受けていた時を思い出してしまうのである。
「さあ、女東宮、お座りなさい。誰か菓子でも持って来やれ」
女東宮は諦めたかのように再び座に戻る。
「それにしてもどうなってしまうのであろうかの。まさか広嗣の首は打つまいの。まさか殺しはしないであろうの。式部卿があの世でどれだけ悲しむか分かりません」
式部少輔こと藤原広嗣の父である式部卿兼大宰府帥であった宇合が広嗣と共に由義の里を訪れてくれたことは、昨日のことのように思い出された。あの時から女東宮の最も寵愛する女官である
「母さま、大宰府少弐は紛れもなく父さまに反逆したのですから、免れられぬと」
「なんと、そなたは血も涙もない。主上がそんなに血も涙もない方とお思いか」
大宰府へ帰った広嗣は、期待にたがわず一年ほどで北九州の勢力を纏め上げたらしい。なぜならば、玄昉と下道真備の排斥を求める上表を送りつけると、兵を挙げたのである。
乱は程なく鎮圧の目処が立ったが、藤原腹から生まれ、藤原の娘を皇后とし、藤原一族の者を大いに頼りにしている今上帝はこれに大きな衝撃を受けた。藤原の者が兵を動かしあろうことか帝に歯向かったからである。
「それにしても何ゆえに広嗣はあのような大それたことを」
女東宮は諸兄に原因があると分かっていた。諸兄は兄事していた長兄の
こうなると、広嗣にとっては父宇合は武智麻呂と房前の同母弟として同格であったという意識があるだけに、受け入れられない。しかし一族の長老である諸兄には表立っては反抗できないため、玄昉と下道真備を君側の肝として排斥を要求し兵を挙げたのであろう。玄昉と下道真備の重用は諸兄が密接に関わっている。この両者の排除は諸兄の影響力低下をもたらすであろう。
宇合の威光は筑紫では大きなものであったらしく、広嗣とその弟達は北九州の豪族から兵を集めたが、しかしその相手が中央の朝廷だと知ると離脱が相次いだらしい。しょせんは宇合一代の威光も中央政府あってのものである。広嗣は朝廷に対する反乱ではなく、その朝廷に巣食う逆臣を懲らしめるためだと説明した。多くが脱落したが、それでも恐らくは兵は残った方であろう。逆に
いずれにしろ北九州で一敗地にまみれた広嗣と弟達は敗走し、乱は失敗に終わっている。後は逃れた者達を捕縛し、あるいは成敗するのみであった。
「この地の怨霊のせいでありましょう」
女東宮は最後にはそう言って母皇后の気を紛らわせてやることにした。
「そうです。その通りです。だから加持祈祷を絶やしてはならないのです」
そういいながら、やっと母皇后は愚痴を言い厭きたらしい。
今上帝は百官を引き連れて突然伊勢へ御幸なされた。
女東宮は先帝と光明皇后と共に伊勢までは同行することに決まった。今上帝はこの後は伊勢を北上して尾張の
女達はそんな長い旅程を厭い、この後は平城京へ戻る。
「それにしても寂しいこと。百官は皆んな主上に付いて行ってしまいました」
「母さま、それでは
「
藤原氏の
鈴鹿王は
女東宮は、流行り病を患って以来、痘痕顔の豊成を母皇后が嫌っていることにもちろん気付いており、何とかこれを解消したいと思っていた。
「母さま、豊成は信頼の置ける者です」
「そうは言っても嫌なものは嫌じゃ。あの顔を見ると兄達が亡くなったことを思い出す。ああ嫌だ。主上も何だってあの者を留守居にしたのであろうか。どうせなら仲麻呂を残してくれればよかったではないか」
豊成の弟である藤原仲麻呂は行幸の前衛となる騎兵の大将軍に抜擢されている。むしろその大役を仲麻呂にやらせるよう懇願したのは皇后であった。
一通り母の愚痴を聞くと、皇后も満足したのか、旅の身支度もあって女東宮も退出できた。
自分の割り当てられている部屋へ戻ってしばらくすると、やがて先帝の御訪れがあるという先触れがあったため、女東宮はまだ荷造りにいれていなかった香を焚かせた。
「おや、よい薫りですね」
「はい。昔に房前がくれたものがまだ残っていましたので。これで最後になります」
「まあ、そんな大切な物を」
「以前に先帝陛下がお好きだとおっしゃっていましたもの」
二人は一礼すると、先帝を上座にして相向かいになった。先帝の大勢の女官たちと女東宮の女官たちは左右に分かれて控えた。
とりあえず時候の挨拶を済ませる。
「せっかくの良い御馳走をいただきましたが、実は今日は東宮と内宮に行きたいのですよ」
一同は外宮にいる。
「もう一度詣でるのですか」
「いいえ、そうではありません。よろしいですか」
「はい。もちろん陛下の仰せならば」
二人は供の者を最小限にし、輿を用意して内宮へ向かう。その先導をするのは藤原房前の一子である
先帝は女東宮を正殿でなく、そのすぐ北の小高い場所へ誘なわれた。
「ここは」
「さあ、行きましょう、東宮。そなたたちはここで待っているように。誰も近づけてはなりませぬ」
先帝は石段の下にお付の女官や警護の兵たちを残し、ゆっくりと上っていかれた。
「ここは以前からある宮です。下の正殿は新しいものなのですよ」
「そうなのですか」
「今は知る人も少なくなりましたが、神宮といえば元々はここなのです」
無論のこと伊勢に来たのがはじめてである女東宮には初耳であった。
「伊勢は以前から
先帝の祖母というと、天武帝の皇后であり、自らその後を襲った
「持統帝のことですか」
女東宮は持統帝どころか祖父の文武帝と祖母の元明帝の顔すらしらない。
「そうです。そなたは
「はい、それはもう」
「東宮博士が教えてますか」
「いえ、
下道真備は今では東宮博士として勉学の教授にあたっている。
「紀は誰が作ったかご存知か」
「はい、
舎人親王はすでに亡くなっているが、先帝の御代において長屋王と新田部親王と共に皇親政を支えた一人である。
「最後に奏上したのが舎人親王にすぎません。そもそも日本紀は天武天皇が編纂を命じたものです。神代の時代から人の世になり、編纂もそこまで進んだところで天武天皇がお隠れなさったので、持統天皇が引き継ぎました。その主な作業をしたのが文忠公です」
思わぬところで祖父の藤原不比等の名前を出されてこられた。
「今でこそ藤原は春の世を迎えておるが、文忠公が若い頃は天武天皇の御代。文忠公は天智天皇の寵臣の息子でしたから、不遇でした。そなたも存じておろうが、壬申の大乱で天智天皇の子孫は没落し、まだ若かったから罪には問われなかったものの、文忠公の前途は閉ざされていたのです。だが持統天皇は天武天皇の妻というよりはむしろ天智天皇の皇女であることを誇りと思っていた方でした。そのため、天智天皇の寵臣である中臣史、つまり文忠公を引きたてたのです。無論のこと文忠公の実力あってこそですが」
「全然知りませんでした」
「もうこのあたりの事情を知る者も少なくなってきました。そなたの母の橘三千代が文忠公の後妻となった頃はもう藤原氏は臣下として第一となっておりましたので、そなたが知らぬのも無理がありませぬ。文忠公がまず最初に持統天皇の右腕として行ったのが、日本紀の編纂でした。ですから、日本紀は持統天皇の意向を文忠公が受けたものなのです」
「はい」
女東宮は全く知らなかった。日本紀の編纂に祖父が大きく関わっていることなど、読んでいるだけでは全く分からない。
「これから申すことは皇位を受け継ぐ者のみが知るべき秘事です。そなたを東宮として認めるからこそ話せることなのです。今、このことを知るのは今上とわらわだけ。無論のこと光明皇后にも話してはなりませぬ」
「はい」
「もっとこちらに近づきなされ。そう、もっと隣に」
女東宮は先帝の顔つきが変わられたのに気がついた。二人の周りに女官の一人もおらず遠ざけられているのは、前もって先帝がこのことを女東宮に御語りになられる御積りであったからであろう。先帝は声を落とされた。
「天武天皇と天智天皇がご兄弟というのは半分は本当ですが、半分は嘘です。天武天皇の父は
女東宮は先帝が何をおっしゃられているのが一瞬分からなかった。ようやく頭で言われたことを理解したが、とても信じられない。だが思い直してみると以前にもらった伯父の藤原房前の文にも天武帝が天照大神の血を正統に引いていないとあった。つまりそれは本当のことだったのだ。
「おどろきませんね」
「いいえ、びっくりして声もでませぬ」
「どこぞでお聞きになられましたか」
先帝に嘘をお聞かせになっても仕方がない。
「実は北の大臣が亡くなられた時にわたくしに密かにうちあけられました」
「そうですか。亡き房前はわらわの母に信頼を受けておりました。恐らくはそこから」
「はい、その通りです」
「ではもう全てをご存知で」
「いいえ、伯父さまは天武帝が
「そうですか。では何から話せばいいか。天武天皇も全く血を引いておられぬわけではありません。女系では引いておられます。お二人の母親は
「事実ではないと」
「かつて
「天武帝というのですか」
「そうです。少なくとも持統帝はそう信じておられました」
「それではわたくしたちは」
「そうです。蘇我の血を引いているのです」
蘇我氏は日本紀ではさんざんな書かれようで、悪人としか思えない書き方をされている。
「しかし天智天皇はその後に宝皇女が産んだ舒明天皇の子。間違いなく皇統の血を引く正統なお方です。そなたの舞を見て確信しました。そなたには高天原の血が間違いなく入っています」
「それでは天智帝は天武帝の弟ということになりますね」
「そうです。持統帝は天智帝の血を引いていることにこだわりをもたれました。母系とはいえ天照大神の血を後世に残すために自らが皇位におつきになされました。そしてつまり自らの御子である草壁皇子の系統のみを皇位に付けるようにしたのです。せめても母系だけでも皇統である子のみを天皇にしようとしたのですよ」
そうなると、
昔のことゆえ、これが本当のことかは私には分かりかねます。私はこの話を母から聞きましたゆえ、持統天皇から直接お聞きしたわけではないのです。母上はあくまでもこの話は想像だと言っておりました。だが持統天皇が必ず草壁皇子様の血統のみを皇位に付ける様にと厳命なさった理由がこういうわけではないかというのです」
女東宮は頭の中に系図を浮かべてみては辻褄が合うのかを考えようとしたが、混乱して訳がわからなくなった。
「持統天皇は、自分の子孫のみが皇統に付くように政治的に手を打ちました。そしてその正当化のために様々な仕掛けを日本紀に施したのです」
「日本紀にと申しますと」
「そなた天照大神様は女神と思うておるか」
「と、申しますと」
「日本紀を読めばそう思うであろうな。それは
「はい、一通りは」
「古事記には天照大神様が女神とは書いておられぬ。だが日本記には大神様が女神であるかのような記述に書き換えがある。どうしてかお分かりか」
「分かりませぬ」
「持統天皇から我が弟である文武天皇への継承を正当化するためです。天照大神様からその御子でなく天孫が降臨なさった。天照大神様が女神であらせられるならば、女から子を通じて孫への継承が皇統の基となったということになります。つまり正統な血統を持つ持統天皇の夫は正統な皇位継承者ではない。だが天照大神様の前例からして皇孫に対しての継承は正統なものであると」
「そのような仕掛けが」
「わらわたちが泊まっておる外宮には今は神はおりませぬ。外宮には元来は天照大神様にお仕えする女神が祭られておりました。
「そんな大それたことを、まさか。しかしそれでは天照様はどこに」
「ここに押し込められています。まさにこの場所にです」
「まさか、そんな」
「私も初めて知ったときは同じ思いでした」
女東宮は慌てて部屋を見回した。
「この下に天照様のご神体が封印されています。
女東宮はよく分からない。
「本来は注連縄は外から邪気を入れぬためのもの。だがこの場所と出雲に限っては違うのです。ここから祟りが外に出ないようにと逆に張ってあるのです」
「そうなのですか」
「このことはそなたの母にはもちろん、誰にも話してはなりませぬ」
「それはもちろん」
話せるはずもない。
「しかしこのように押し込められては、天照大神様はわたくしたちをお守りいただけないではありませんか。すぐにお救いせねばならないのではありませぬか」
「私もそう思いました。だが持統天皇がなされたことを、私の勝手な思いで変えたら、何が起こるか分かりませぬ。そもそもこの今上帝につながる皇統を天照大神様がお認めになるかどうか」
「お認めにならないと、つまり祟りが」
「そう持統天皇は思われたのであろうな」
「それではわたくしたちはどなたにお守りいただくのですか」
「今上帝はそれに気付いたのでしょうな。それゆえに仏法に頼ろうとなさっている」
「大伯母さまはどのように思われておられますのでしょうか」
「わらわは海内の神こそを崇めたいと思っております」
「それでは豊受大神様を」
女神として崇められている天照大神様の身代わりとしている方である。
「いいえ。豊受大神様も素晴らしい方ですが、私達のご先祖様ではありませぬ」
「それではどうしたら」
「今では皇統の祖は宇佐にあります。八幡様とはつまり
「応神天皇さま」
「さあ、今日はこのくらいにいたしましょう。あまり遅いと皆が心配いたします」
二人は荒祭宮を出てからは無言のままであった。帰りの輿にゆられながら先帝の御言葉と房前の文を照らし合わせてみる。確かに二つは一致しているようであった。房前は今日の東宮が聞かされたような皇統の秘密の真髄までは知らされていないに違いない。だが元明帝が房前に託した言葉は、今日女東宮が聞いた事実を元に命じたに違いないのだ。
外宮に戻っても女東宮は無言のままであった。
「何をお話になったのですか」
心配になったのであろうか、伊勢には同行して側にいる
「何でもありません。そなたたちには関係のないことです」
滅多にない女東宮の声の張り上げ方で、女官たちは明らかに怯えた顔を見せた。若い頃によく見せた我がままを知っている
「申し訳ございませぬ」
百能はしおらしくうなだれた。しばらくたっても怯えたままで、女東宮の顔色をうかがっては、とうとう泣き出してしまったくらいである。
「泣くのではありません。そなたは悪くないのです。それより何か気を紛らわせたい。誰か碁でも打なさい」
「誰か、東宮殿下のお相手を」
「いや、わたくしは見物いたします」
仕事を与えられた女官たちは一斉に働き出した。たちまちのうちに碁盤が置かれ、百能と
百能も宇比良古も見事な打ち手であり、盤上では中盤で
今上帝は伊勢から尾張に入られると、今度は美濃にまで足を伸ばされた。さらに近江に入ったのであらせられるから、先の大乱において天武帝が兵を挙げられた経路そのものである。
そしてその年の末になると、今上帝が
「おお、皇后に東宮。久しいの。会いたかったぞ」
二人は今上帝に拝礼をすると、側に座った。二人の近親者でもある右大臣橘諸兄も同席している。皇后は最も頼りにする異父兄の諸兄の礼を受けて嬉しそうな顔を見せた。
「主上にあられてはご健勝のご様子で何よりです」
一方で今上帝に対しては皇后の口調は冷たい。
「何をそう機嫌が悪いのじゃ」
「主上は
「仕方なかろう。朝廷に弓を引いたのじゃ」
「広嗣だけでなく
藤原綱手は広嗣の弟で九州におり、広嗣の反乱に片腕として参加し、東九州の軍勢をかき集めて広嗣に合流した。その後、敗走すると広嗣と共に逃れようとしたが結局捕縛され、死罪となっている。
「綱手も朕に逆らったのじゃ。仕方なかろう」
そうは言っても、皇后からすれば甥であり、簡単に
「広嗣も綱手も主上に逆らったのではありませぬ。
「馬鹿なことをいうでない。それに朕とそなたの義兄にも位を進めたし、そなたのお気に入りの
諸兄は藤原一族や他氏から公私混同と見られるのを恐れて息子の奈良麻呂の昇進の後押しを手控えていたが、光明皇后は甥にあたるため、当然ながら以前から昇進を懇願していた。
「それとこれとは別です。それに広嗣の兄弟達を捕縛したと聞きます」
「
宇合には六人の息子と三人の娘がいた。長男の広嗣と四男の綱手は反乱を起こし、次男の宿奈麻呂と三男の
「まさか切るつもりではありますまいな」
「反逆者の弟どもぞ」
「いいえ、広嗣は反逆者ではございません。それに百歩譲って広嗣に僅かでも罪ありとしても、遠くはなれた都で弟達に何が出来ましょう」
「いいや、許せぬ」
そこへ女東宮が口を出した。
「太宰少弐と綱手を殺したこと、必ずや祟りましょう」
今上帝は祟ると御耳になされた途端に青ざめられた。女東宮皇后が祟ると言った以上は、怨霊は現れるであろう。皇后が口に出さなければ、もしかしたら怨霊は現れなかったかもしれぬが、言霊にしたからには必ず広嗣は祟る。
「これ以上無辜の者達を殺しされるのはおやめ下さい。ますます祟るに違いありません。太宰少弐の祟りは玄昉と真備にいきましょうが、無実の者の怨霊はどこに行くのでしょうか」
今上帝は御自らに背かれたいたことに対する御憤怒から、捕らえた広嗣と綱手に死を賜るのに躊躇はなされなかった。だがその怨霊がどこに行くのかまでは御考えになられていなかった御様子である。女東宮は広嗣の祟りは父帝には行かないと明確に言い切った。だが宿奈麻呂以下の者達の命を奪うと、無実であるならば父帝に怨霊が向かうという。
「疑念がございますならば、諸兄にでも玄昉にでもお聞きになればよいでしょう」
今上帝は傍らにいた橘諸兄を見られた。諸兄はそれにうなずく。その瞬間に今上帝は宿奈麻呂以下の命を奪うつもりはなくなられたようである。祟りの件もあるが、冷静に考えれば功臣の
「だが罪一等を減じても、官位剥奪の上に流罪は免れられぬぞ」
「どうかそれもお許しください」
「ならぬ」
さすがに今上帝は首を縦には振られない。
「無実の者を流しては広嗣は祟りますぞ」
「太宰少弐は無実ではありませぬ。どうして祟りましょうか」
右大臣橘諸兄は政権の主催者として、さすがにその線までは譲れない。玄昉と下道真備を弾劾したということは、その二人を重用している諸兄を間接的に批難していることに等しい。藤原一族の後見人を自認している諸兄にしてみれば、四兄弟の息子達を引きたてようとしているのはその諸兄であり、それに対する反逆など天に唾をするようなものではないか。
「まさか幼少の者まで流すとは言わないでしょうね。女子供には罪はありません。どうか若女とその子には罪を猶予してください」
女東宮は諸兄を無視して父帝に懇願した。久米若女は宇合の側室となったが、その死後は女東宮の女官に戻っている。そして女東宮は久米若女とその子の引渡しを頑として拒み、保護していた。
「東宮たるそなたの言うことだ。そなたの言を容れよう」
父帝は諸兄を見られると、小さくうなずかれた。諸兄も女東宮と別に事を構える気はない。女東宮が諸兄に対して何か信頼できないものを持っていたとしても、諸兄にしてみれば女東宮は姪であり、一族の中核である。女東宮の寵愛する女官と未成年の男子に対して罪を適用しないくらいは何でもない。
「それではその御舎弟も」
諸兄が確認するように今上帝に確認をとった。宇合が別の側室に産ませた最後の息子は、その一つ歳下である。
「これで決まった。さあ、目出度い再会にこれ以上無粋な話をするではない。それよりも女東宮はますます美しくなったの。そなたの母にそっくりではないか。いや、むしろ皇后の母に生き写しと聞くぞ」
「ありがとうございます」
女東宮が突然のことに恥らうが、母皇后はまだ広嗣以下の処置に怒りはとけていないらしく顔を背けたままである。
「東国の話を聞きたくはないか。尾張や美濃の話をしてやろうではないか」
「それよりも伊勢の話をいたしませんか。
「おお、元気にしておったのお。いずれは近いうちに任を解き都に戻さねばならぬな」
「あら、主上には
皇后はすかさず牽制した。女東宮の腹違いの姉妹のうち、年下である
もっともこの問題の複雑なことは、三人の生母である
「まあそのうちだ」
「主上、皇后殿下も東宮殿下も旅の疲れもありましょう。本日はもう」
頃合を見計らって諸兄が声を掛けた。年末だけに今上帝にはまだ政務が多いに違いない。
「おお、そうだな。ゆっくり休むが良い。二三日中に宴会を開いてそなたたちを慰めようぞ」
今上帝と諸兄が退出なされると、皇后が女東宮に向き直った。
「そなたも大人になりましたね。いくつになりましたか」
「年が明ければ二十四になります」
「いつまでも子供と思っていましたが、そなたももう二十四ですか」
「はい」
女東宮阿部内親王を皇后が産んだのは、まだ
「もうそなたも頼りにしてよい年頃なのですね」
「いいえ、まだ母さまには色々とご指導を頂かねばなりませぬ」
そういいながら、女東宮は手放した赤子の年を数えた。そういえば男か女かも聞けなかったのである。そしてそれは諸兄と出産に立ち会った数人の女官しか知らなかった。藤原房前の娘である宇比良古は知っているらしいが、諸兄にきつく言われているためか、その話題になると決して口を開かなかった。
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