第2部 天平十一年 内親王22歳

 右大臣橘諸兄うだいじんたちばなのもろえがようやくおかしいと気付いた頃には、女東宮阿部内親王にょとうぐうあへのひめみこの腹は大きくなり、流すことなど危なくてとてもできない時機になっていた。

 三月ほど前から体調が悪いと父母の前にも姿を見せなくなった女東宮は、諸兄が見舞いに行っても床に就き、袿をかけられていた。そのため、思いもよらぬことで、気付くのが遅れたのである。

「どなたの御子でありますか。まさかやや子が独りで御身体に宿るわけはございませぬな」

 諸兄の詰問にも東宮は暖簾に腕押しとばかりに曖昧なことばかりを言って答えなかった。

「さあ。わたくしが寂しい思いをしているのを知り、出雲で神様方が相談してくださったのでありましょう」

「これは由々しきことにございますぞ。あなた様は東宮にございます。やがては主上の跡を襲われるのです」

「そうですか」

「そのような御身分でありながら、子を成すなど、前例がございません」

「何を言われます。元明げんめい帝はわたくしの祖父である文武もんむ帝をお産みなされたし、その文武帝の祖母は持統じどう帝であらせられる。古の推古すいこ帝も子をなしておられる」

「いいえ、東宮様の前例は唯お一人、先帝である上皇陛下のみであります。東宮が挙げられた方々は皆、帝の御子をお産み成されておられます。元明帝のみは異なりますが、しかし草壁くさかべ皇子様は日嗣の皇子と決められておられました」

 諸兄は自身が聡明であるだけでなく、下道真備しもつみちのまきびという頭脳を側近にしている。それだけにまともに論じていては内親王がかなうはずもないので、あとはやはり黙り込むしかない。

「それでは逆にお聞きいたしましょう。その御腹の中のやや子の父親はやんごとなき身分に近い方でありましょうな。ならば何も言いますまい。だがまさか身分の低い王ではございますまいな」

「ならば何とする」

 諸兄は恐らく頭の中で可能性のある者をいちいち思い浮かべているのであろう。通いそうな者となるとかなり絞られてくるはずである。

 もしも女東宮に通うとしたら、政治的な意図が無くては考えにくい。ただの恋情事にしては恐れ多すぎる。そうなると舎人とねり親王や新田部にいたべ親王の王子達や、長屋ながや王の藤原腹の王子なども考えられる。

 だが、ふと思い浮かんだのであろう名前は、当然といえば当然のものであった。

白壁しらかべ王ですな」

 確かに女東宮と年が釣り合う上に、皇統から遠い親族にしては親しくしていたのも事実である。現に女東宮の初めての相手であった。

「いいえ、違います。その者ではありません」

「調べれば分かることです」

 諸兄はじっと女東宮を見つめた。

「なぜこのことを隠し、もっと早く御打ち明け下さらなかったのです」

「流そうとさせたに決まっています」

「さようなことはございませぬ」

 諸兄が嘘を言っているのは分かる。

「そなたのことです。やや子が産まれても死産とするつもりでしょう。そうはさせません」

「なぜそのようなことをおっしゃりますか」

「伯父さまは情の冷たい人です」

 諸兄が葛城かつらぎ王と名乗っていた頃はもっと思いやりのある人だと思っていた。だが、諸兄は親しく交わっていた長屋王を結果的に見殺しにした頃から、何やら人が変わってきたように思える。

 しばらく無言が続いた。

「とにかく、御身はお大事になさいませ。それと後図のためにもそのお相手をお話くだされ」

 諸兄が優しく言うのには騙されるつもりは無い。諸兄は冷酷な男なのだから、女東宮はそれにうかと乗せられてはならないのである。


 女東宮にとってさらに誤算であったのは、諸兄自身が思いもよらぬほど聡明な男だったということである。

「まさかとは思いましたが、あろうことか臣下の者とは」

 もちろん諸兄は人払いを済ませてある。東宮房では信頼できる最低限の女官が女東宮の妊娠を知るが、その相手まで知るものは少ない。

「何を言うか。そのようなはしたない真似など内親王のこの身ですると思いますか」

「東宮殿下、おやめなさい。もうすでに調べは付いております。東宮房に頻繁に通っているのはその者しかおりませぬ」

「その者とは誰のことですか。知りません。およそ女官の誰かに通っているのでしょう」

左大弁さだいべんのことです」

 女東宮は黙った。

「どうしてそう思うの」

 やがて女東宮が口を開いた。

「左大弁が通っているのは知っておりました。左大弁ともあろう男がこちらで通うような女性は失礼ながら百能ももよしのみ、それゆえにそう思い込んでおりました。だが先日、豊成に百能を後添えとして貰い受ける事をお聞きしました。となると、左大弁が通っているのはどなたか、ということです」

「どこかの端女はしためでしょう」

「ご自身を貶めるようなことはお止めください」

 万事休すである。諸兄ともあろう男が女東宮の身辺に息のかかった者を送り込んでいないはずは無い。

「東宮房に部屋を頂いている女官は僅か。それ以外の女たちの男関係は調べが付いております」

 女東宮はひたすら頭を巡らせた。何か言わなければならないが、何を言っていいのか分からなかった。ただ身体が重い。

「御身は甕原みかのはらへ移られよ。あとはこの諸兄に任せるのです」

 女東宮は諸兄の言う通りにするしかないことを知っていた。


 女東宮の懐妊は密かに父帝と母皇后にも伝えられた。そのため、皇后はその衝撃で寝込んでしまい、玄昉げんぼうの献策によって罪人に恩赦が施された。外向きは皇后の快癒のためであるが、その実は無事な出産を祈るためである。

 次いで今上帝は甕原に行幸された。女東宮を見舞われるためである。臨月が近いため、まさかの事態も考えて顔を見ておかれたかったらしい。

 やがて無事にやや子が生まれたが、女東宮が乳を与えることなく諸兄によって取り去られた。

「赤子を見せては情が残りましょう。乳母を付けて里子に出します」

 女東宮は泣いて叫んだが、諸兄は黙ったまま事を運んでいた。産後で体力も無い女東宮はそれを見ているだけであり、ただ喪失感のみが残った。

「どこへやったのです」

「それはお教えできませぬ。ただ諸兄一人の胸の中に入れておきます。これは墓まで持って行きましょう」

 諸兄は今上帝と皇后以外には、僧正玄昉そうじょうげんぼう下道真備しもつみちのまきびにしかこの妊娠を漏らさなかったという。玄昉は安産祈願をさせるためであり、一切の相談を諸兄は下道真備と行ったらしい。そしてこの嬰児の行方は誰にも打ち明けるつもりはないようだ。

「どうかご心配なされませぬよう。御子は必ず大切に育てさせます」

 真備が拝謁して頭を下げた。

 どうやら女東宮が心配していたような、生まれたやや子を密かに死産として処分するつもりではないらしい。


 子を失って三日後には、今度は父帝だけでなく皇后と先帝まで見舞いにやってこられた。

 女東宮は母皇后に叱られると思っていたが、皇后は母体の安全を確かめて女東宮を抱きしめると、後はただ泣くばかりである。

 しかし静かに先帝が微笑まれるのをみると、思わず女東宮は口に出してしまった。

「ごめんなさい」

 何に対して謝っているのか、女東宮は分からなかった。しかし久しぶりに大叔母の顔を見ると、何か貯めていたものがあふれてきた。

「悪いのはこの私です。そなたに結婚を許さなくしたのは私のせいです。私が独り身を貫くことなど承知しなければよかったのです」

 きさきの身でないにも関わらず帝位についたのは先帝のみで、その全てが前例になってしまう。強制されたものとはいえ、先帝が独り身であることは、女東宮もそれに倣うことになる。

「一目、一目だけでもやや子を見ることは出来ませんか。乳が張るのです」

 女東宮はか細い声で訴えたが、先帝は頭を振った。

「もうお忘れなさい。もう処分いたしました」

「まさか」

「もちろん殺めたりはいたしません。諸兄にはきつく言いつけてあります」

 先帝が安心するように言った。

「でもお願いです。もうこのようなことはしないでちょうだい」

 すると、母皇后もまたきつく抱きしめた。

「わらわが悪かったのです。そなたを放っておいて。わらわにはそなたしかいないというのに」

「いいえ、お母さま、わたくしが悪いのです。もういたしません。相手の男とももう会いません」

「誰、誰なのです。娘に狼藉を働いた者は誰なのです」

 諸兄は黙って頭を下げた。

「もうそれくらいにしないと。女東宮も疲れているだろうに」

 父帝が口を開かれると、先帝と皇后も女東宮を離した。

「どうか改めてこの儀は諸兄にお任せください」

「朕の義兄たる右大臣のことだ。よきに計らうように」

「はい」

 諸兄は深々と頭を下げた。今上帝からの信頼がますます増すことであろう。


 父帝が先帝と皇后とともに平城の都に還御されると、女東宮は独りになった。

若女わかめはおらぬか」

 百能が豊成の元へ嫁ぐと、やはり女官の中で最も気安いのは若女である。

久米若女くめのわかめどのは右大臣さまが都へお連れいたしました。何でも東宮房で東宮さまをお迎えする準備をするようにと」

「そう」

 確かに若女は女東宮の最も信頼できる女官ではある。そうなると、諸兄が若女に頼み事をして不在であるため、気安い話し相手がいない。若いからか肥立ちも悪くなく、すでに身を起している。女官達を連れて甕原離宮の庭園を歩いた。

 ここは祖母の橘三千代たちばなのみつちよが特に愛したもので、女東宮も三千代と何度となく池を回ったものである。

「舟遊びをいたす」

 などと女東宮が言うと、早速とばかりに女官達は下男に指示し、小船を三艘ほど浮かべた。

 さすがに女東宮が舟に乗ると言い出すと、周りの者達は止めたが、言い出したら聞かない。

藤野ふじの、そなたも来やれ」

 供の者を乗せてもまだまだ隙間があるため、近くにいた女嬬を呼んだ。以前に太上天皇の側にいた少女で、結果的には内親王が譲り受けてしまった。

 藤野は遠慮して動かなかったが、周りの者に促されて恐る恐る乗り込んできた。

「舟は初めてですか」

 首を振ったが、怖そうな顔をしている。

「そなたは備前びぜんの生まれでしたね」

「さようでございます」

 なるほど備前からならば、この大養徳やまとの国までは内海を船で来たのかもしれない。だがその船はこのような小船ではなかったであろう。

「そんなに怖がるものではありません。じっとしていれば揺れはしません」

 女東宮は不思議と自分より小さい者を相手にしていると、心が安らいだ。小さい頃から伯父達のような年長の者に囲まれて否応無く大人の世界を見てきたからかもしれない。少しのことで過敏に反応する藤野が可愛くて仕方が無い。

「女東宮さま、そろそろ」

 房前ふささきの娘である宇比良古おひらこは百能と入れ替わるように東宮房の女官として仕えている。同い年の百能に比べてはるかにしっかりしており、輿望よぼうも高い。

「まだ良いでしょう」

「いいえ、大切な御身でありますゆえ、まだなりませぬ」

 宇比良古はそもそも舟遊びにも反対であったようで、女東宮を船着場から岸に上げると、手早く指示を発していた。

「よいでしょう。わたくしも少し疲れました。さあ、戻るとしましょう」

 女東宮は素直に宇比良古の言に従った。房前の小さかった声とは違い、その娘の宇比良古の声は大きかった。


 女東宮が平城の都に戻ると、案に相違して、久米若女はいなかった。留守の女官からは要領を得ず、なんでも遠方へ流されたという。

「諸兄を呼びなさい」

 もちろん女東宮の最も親しい女官にこんなことが出来るのは、橘諸兄しか考えられない。

「お呼びでしょうか」

 諸兄はもちろんこのような事態を想定していたに違いない。すぐにやってきた。

「若女を、わらわの女官をどこにやりましたか」

「あの者は石上乙麻呂いそのかみのおとまろと通じました。それゆえに下総しもうさに配流となりました」

「下総とな」

 明らかに石上乙麻呂の名を出されて女東宮は動揺した。下総といえば坂東のまた外れ。蝦夷えみしの住む陸奥の国に近い、女東宮には想像の付かない遠国である。

「若女を犯した乙麻呂は土佐に」

「乙麻呂も土佐に」

 南海の四国の山向こうにあるという鬼の住むといわれる蛮地である。

「乙麻呂はいい。だが若女に罪はない。呼び戻しなさい」

 女東宮と子を成したことがすでに諸兄に感づかれている以上、乙麻呂の配流はやむを得ない。だが若女は女東宮に忠実な唯の女官ではないか。

「いいえ、手引きをしたものが若女であることは調べが付いております」

 諸兄の言いようは女東宮には限りなく冷たく思えた。

 夜に忍んでくるような男を引き入れる以上は、誰かが手引きをしなければならない。それは女東宮の最も親しい若女であった。

「罰を受けなければならない者がいるのならば、それはわたくしでしょう。わたくしを罰すればいいではないですか」

「無理を言われるな」

 諸兄は第一人者としての風格を漂わせている。もはや親族の若い娘が伯父に駄々をこねているような構図にしかみえない。

 諸兄が立ち上がると、女東宮はその背に声を掛けた。

「一年だけ容赦します。それ以上は若女を苦しめたら許しません」

 諸兄は振り返って一礼すると、無言で下がっていった。

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