第2部 天平十年 内親王21歳

玄昉げんぼうの霊験あらたかなこと、まるで生き仏を見るようだ」

 中宮へ出御なされた今上帝は、まだ興奮冷めやらぬようであらせられた。

大御祖おおみおやは私の手を握り、はっきりと主上と言ったのだ。朕が誰であるか分かったのだ。その上、朕をお産みなされた時のこともお話になられたのだ」

 大御祖こと藤原宮子ふじわらのみやこは父帝の母であり、亡き藤原不比等ふじわらのふひとの娘であるから、阿部あへ内親王の母である光明こうみょう皇后の異母姉である。

 宮子皇太夫人は鬱病の気が以前からあったのだが、周囲の皇子を産むようにという有形無形の圧力に耐えられず、ついにはこじらせてしまった。そのため、無事に今上帝となるおびと皇子をお産みになったのであるが、その時には精神は壊れていたという。

 しかしながら、玄昉が唐渡りの術で皇太夫人の治療にあたったところ大いに効果があり、ついには昨年末に今上帝と三十六年ぶりの対面があらせられた。

「玄昉、朕はそなたの功績を決して忘れぬぞ」

 少し向こうの並びに父帝が声を掛けられると、玄昉は礼をして立ち上がり、御前にやってきた。

「今、内親王にそなたの話をしていたところだ」

「いえ、これもまた主上の功徳にございます。ただひとえに御仏の救いでありまして、拙僧などは何もしておりません」

 玄昉は一つ一つの所作が何やらゆったりとしているようで急なところもあり、いかにも常人と違う振る舞いであった。奇才という言葉が最もあてはまるかもしれない。

「そなたのおかげで流行り病もようやく立ち去った。母にも会えたぞ」

 内親王は、玄昉が流行り病に対して何をやったのかはよく知らなかった。何やら祈念をして恐るべき神通力を発揮させたのか、はたまた唐渡りの玄妙なる術を使ったのか、分からない。ただしきりと仏法に従って死体を火葬にするよう推進していた。もちろん持統帝が火葬された前例もあるが、庶民にまでどれだけ浸透したかは分からない。何しろ異国の風習である上に大量の薪を必要とする。また火葬にしたはいいがその後の処置も分からないし、そもそも火葬自体が簡単なものではない。だが玄昉は諸寺の僧侶を動員してなるべく多くの死体を火にくべた。それだけでも内親王は玄昉の術の危うさを感じる。

「全ては陛下と皇后殿下の深い帰依によるものです」

 そういって玄昉は手を合わせた。

「僧正には吾も危ういところで助けられましたぞ」

 内親王から父帝と母皇后を挟んで逆に座っているのが伯父の大納言橘諸兄である。

「ほんに、藤原の兄達はみな亡くしましたが、葛城の兄だけでも生き残ってくれて。それに主上も私も阿部内親王もみな無事で。これもみな玄昉のおかげです」

 玄昉はまんざらでもない様子であるが、謙遜して頭を下げて手を合わせた。

「本当に。僧正こそ当代一の学識であろうな」

「いえいえ、それは違います。拙僧はただ御仏に深く帰依しているのみ。真に学識のあるのは真備まきびでございましょう」

 すると諸兄もろえもうなずいた。

「うむ。それは間違いない。亡き南の左大臣も真備の詩文に対する博識には眼を見張っておりましたし、北の左大臣もその政に対する意見には取り入れるべきところが多いと関心しきりでありました。惜しくむらくは亡くなりましたが、そのお二方に比べて非才な吾は、玄昉殿と真備殿に大いに拠ろうと思います」

「おお、真備か。朕は左大臣どもやそなた達に言われ、唐より帰って以来、急ぎ昇進させてきたが、実はまだ親しくしておらんのだ。よい、真備を呼べ。朕が玄昉と共に杯を取らそう」

 父帝は傍らの宮人に命じると、しばらくして下道真備しもつみちのまきびがやってきた。玄昉はよほど真備と気心が通じ合っているのか、喜んで座をずらし、真備のための場所を空けた。

「陛下、お呼びとうかがい参上いたしました」

「おお真備。今、この者達と当代一の学識の者はそなただと話し合っておったのだ」

「そんな、恐れ多い。私めの学識などはここに居る玄昉にはるかに及びません」

「その玄昉がそなたこそがと言うのだ」

「いえ、それは玄昉の謙遜でございます。それに仮に学識があっても、問題はそれをどう使うかにございます。その意味ではむしろ私という道具をうまく使う大納言どのこそが当代一の器量人といえましょう」

「さようなことを申すな。そなたの学識をまず見抜いたのは亡き式部卿であったし、そなたを昇進させたのは南北の両左大臣だ」

 亡き藤原宇合ふじわらのうまかいは大宰府帥であり遣唐使に加わった経験もあることから、この二人にまず謁見し、その学識に舌を巻いたという。そして南の左大臣こと武智麻呂むちまろと北の左大臣こと房前ふささきがそれを聞き、玄昉を内裏に送り込み、真備を藤原政権の頭脳としようと考えていたというのである。

「それを言うのならば、その右大臣の仕える主上こそが天下の器量人でございましょう」

 玄昉がすかさず続けたので、今上帝はすっかりと機嫌がよくなり、二人の杯に酒注がせた。

「しかし陛下、真の当代一の学識の者はこの私でも玄昉でもございません。別におります」

「ほう。それは誰だ」

阿部仲麻呂あべのなかまろでございます」

「仲麻呂とな」

 すると、玄昉が鼻で笑った。

「あんな日の本よりも唐を選んだ男など、どうでもよい」

 しかし今上帝は興味があらせられるようである。

「ほう、そのような者がいるか」

「はい、大唐の皇帝に寵愛され、我等が共に帰朝するように説得しましたが、果たせませなんだ。しかしその器量はとてもこの真備などにはかなう者ではありません」

「いや、そんなことはない。あの者の得意なのは阿諛追従あゆついしょうのみだ。あんな者は口がうまいだけで取り入った男。取るに足らん。真に和人で天下一等は真備だとこの玄昉が受けあいまする」

「ふむ、そんな者がいたか。その者は唐にいて何年になる」

「もう二十年は越えましょう」

 真備は懐かしそうに西の方を見た。月が出ている。

「ところで僧正、それに真備。そなた達が当代一二を争うものとして、それに次ぐ者は誰じゃ」

 すると、玄昉は何人かをすらすらと挙げたが、どうも下位の者らしく内親王には全く聞き覚えが無い。

「高位の者はどうだ」

 政治に疎い今上帝ももちろん学者を一々は御存知にはならず、知った名前を欲されたようである。

「そうですな。まず学識と器量を兼ね備えているのは第一に大納言様でしょうな。学識と経験からいえば巨勢奈弖麻呂こせのなでまろ、人物から言えば大伴牛養おおとものうしかいの二名」

 大納言とはもちろん諸兄のことであり、他の二人は共に従四位下と正五位上であるため、今上帝も御存知であられるようでうなずかれた。

「なるほど。もっともである。やはり諸兄こそ頼りにせねばな。真備はどうだ」

 しかし下道真備は首を振った。

「どうかご容赦ください。卑賤な吾には高位な方々の批評はしかねます」

「ははは。真備は謙虚であるの。だがここは酒の席。戯れでよい。名をあげてみよ」

「どうか、それだけは」

 あまり固辞したため、宴会の場がやや白けかけた。

「それではどうでしょう。内親王、そなた若い男どもと親しいと聞きます。そなたが名をあげてみなさい。それを真備が論じればよいでしょう」

「ふむ、皇后の言うことも興味深いな。よいな、真備」

「はい、もちろんでございます」

 代わりに答えたのは玄昉である。真備は頭を下げて恐縮するのみであった。

「そうですね、わたくしが当代一と思うのは、やはり仲麻呂でございます」

「ふむ、仲麻呂は仲麻呂でも、武智麻呂むちまろの子であるな」

「はい。従兄弟達はもちろん、若い貴族の中でも学識は一等群を抜くと思います」

 すると、真備は顔を明るくした。

「藤原仲麻呂殿は亡き阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろ様の薫陶を受けた俊才に思われます。率性聡敏にして古典のみならず算術にも明るい方。なるほど内親王の仰るとおり、やがては当代一の者となるでしょう」

「仲麻呂ですか。わらわが甥ながら仲麻呂にそのような一面があることを知りませんでしたが、そんなに俊英でありましたか」

 光明皇后は感心したように言った。

「ふむ。それに仲麻呂は武智麻呂に似てなかなかの美男である。そうでないか」

 今上帝はもちろん仲麻呂は見知っておられる。

「ほんに。豊成とよなりがあのように醜くなってしまいましたが、それに比べて仲麻呂は光り輝くようでありますな」

 実を言うと、光明皇后は武智麻呂の長子である豊成を以前は寵愛していた。だが豊成が流行り病に倒れ、なんとか一命を取り留めたものの一生消えぬ瘡蓋が残ったため、それを嫌い最近では遠ざけているらしい。かつて内親王が手元に引き取っていた百能ももよしとは、豊成の妻となった後も文の遣り取りは続いているため、そのことを聞いている。

「いやいや、拙僧ははばかりながらその意見には反対でありますな」

 玄昉は酒も飲んでいないのに、酒席にはすっかり馴染んでいる。

「あの者の学問には実がありませぬ。机上の空論とはまさにあの者のこと。井の中の蛙とはまさにあの者のこと。まさに大海を知りませぬ。あのような者が当代一と言われるのであれば、世も末」

「言いすぎであるぞ、玄昉。確かにまだ未熟なところはありますが、それは栓の無いこと。百聞は一見にしかずといいます。大和にいながら大唐を良く学んでおります。できれば一年でも二年でも遣唐使として唐に留学いただきたいものです。それでこそ真に実のある者となるでしょう」

「いやいや、あのような浅慮の者を送っては、正に第二の仲麻呂だ。口ばかりの曲学阿世の徒となるに決まっておる」

 内親王はもちろん自分が買っている仲麻呂が散々にけなされて嫌な顔を見せるが、玄昉は気にする様子が無い。

「それでは僧正と真備が薫陶を与えてくだされ。仲麻呂はわらわが甥。どうかお二人で当代一の人物にしてくだされ」

 光明皇后は仲麻呂にはまだそんなに思い入れがないためか、それとも玄昉を信頼しきっているためか、玄昉へ悪い感情を抱いている様子は無い。むしろそんなものかと信じているのであろう。そういえば内裏で玄昉を真っ先に信頼したのは光明皇后であったようである。

「ふむ、難しいことであるが、真備と拙僧が大納言様と共にあたれば、容易でしょうな」

「これで決まった。内親王が日嗣の皇子となり、ゆくゆくは皇位を継承したならば、仲麻呂を頼りとするがよい」

 光明皇后の言葉の意味をよくよく考えるとびっくりし、内親王は母の光明皇后の方を思わず向いた。

「どういうことです」

 すると諸兄が代わりに進み出て答えた。

「お喜びください。目出度いことに、阿部内親王殿下の立太子の件ですが、今上帝が御聖断いただきました。近々内示され、立太子の儀が執り行われます」

 内親王はあまりのことに、父帝を伺った。

「今まではっきりさせずに、そなたには悪いことをしたと思う。そなたを日嗣ひつぎの皇女とする」

「しかし、わたくしは内親王です。前例がございません」

「なんと御謙虚な。そのような徳のあるお方ならば、吾ら臣下もますます安心お仕えがいのあるというもの」

 諸兄が言うと白々しく聞こえる。

「そなたは朕の娘ぞ。何の遠慮があろうか」

「そうです。そなたはわらわに残ったたった一人の子。わらわにはそなたしかいないのです。文忠公ぶんちゅうこうの願いもそなたの即位にあるはずです」

 藤原一族の力は、藤原四兄弟を失ってもなお強大であるというのであろうか。それとも藤原氏の婿である諸兄の政治力を見抜いた祖父の文忠公こと藤原不比等ふじわらのふひとの眼識を見事というべきか。

 橘諸兄は異父兄として光明皇后の絶大な信頼を得ており、また臣籍降下した者としてその他の皇族からの輿望もあり、不比等の娘である多比能たびのの夫として藤原一族の長老でもある。

 諸兄は義兄弟である藤原四兄弟の影に隠れている時には、手段を選ばない伯父達に比べれば穏健で誠実に思えた。だが一度このように政権を宰領するようになると、やはり同じ穴の狢なのであろうか。

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