第1部 神亀五年 内親王11歳

 年が改まると神亀五年となった。

 予定されていた朝賀ちょうがの儀式は雨天により正月二日に延期になった。

 内親王は今上帝に昨年までは皇族の中で最も早く朝見して頂いていたのに、今年は日嗣ひつぎの皇子たる弟宮が形式上先に行った。

阿部あへ内親王、あいにくの天気だが、そなたの顔を見られて何よりだ」

「今上帝陛下におかれましては、ますますの御健康を願っております。また、旧年中は日嗣の皇子の御誕生もおめでとうございます。本年もますますの目出度きことが重なりますように」

「うむ。内親王は大人になったの。しばらく会わぬうちに、見違えるようだ。段々とそなたの母御に似て美しくなってきた」

「ありがたき御言葉にございます」

「うむ」

 儀式であるだけに、ここでの会話はそれだけであった。

 その夜は皇族を集めての宴会があり、内親王は父帝のすぐ側に席をいただいた。父帝は内親王の舞を所望し、その美しき姿は一同を感嘆させた。

「東宮にはもう会ってきたと聞いたぞ。どうだ、可愛かろう。そなたの弟だ」

 酒が入ってくると、父帝は以前のように優しく内親王に声をかけられた。

「同母弟なのに姿を見たのは二度、顔を見たのはただの一度よ。それでは情も湧いて来なくても当然ではなくて」

「ははは。そうつれないことを言うでない。これからはそなたが陰になり日向になり皇子を守っていかねばならぬのだぞ」

「知りません」

「何やら癇癪を起したと夫人が言っておったぞ」

「違うわ。ひどい。ただ母さまがあまりにわたくしにつれないからなのに」

 今上帝は苦笑いなされた。

「母さまは日嗣の皇子をお産みになりましたので、わたくしはもう要らないのです」

「朕は弟も妹も持たぬからなあ。だが、先帝が同じようなことをこぼしておった。朕の父が生まれたのは先帝が確か三歳の時であったという。母を求めたい盛りに父が生まれて寂しい思いをしたと今でも事あるごとに朕に愚痴ってくる。ましてや先帝は皇女で父は皇子であったからな。だからそなたの言いたいことは分からんでもない」

「でも」

「左大臣をはじめとして百官は、そなたが先に朕の後を継ぎ、その後を東宮がというのが筋だと言う。だが先帝が反対なさったのだ。それではそなたが可愛そうだとな。子を持てぬ女の苦しみはここで終わりにしたいとな」

「大伯母さまが」

安宿媛あすかべひめも喜んでおった。そなたの為にはその方がよいとな。そなたが即位することによってそなたが先帝の前例に倣ってはあまりに哀れだと」

「では父さまもわたくしに背の君がいる方がよいと」

「先帝にああまで言われてはな。よき丈夫をみつくろわねばならぬな」

「父さま、そんな言い方はおやめください」

「それともなんだ、もうそなたには意中の者がおるのか」

 そう言われて、内親王は赤く頬をそめた。父親にそのようなことを言われる気恥ずかしさときたらない。

「そうだな。ではあててみようか。まさか白壁王か」

 父帝は目ざとく、甕原離宮において騎射の見物の際に臨席させた皇族を覚えていた。

「いいえ、違います」

 内親王は白壁王も悪くないとは思っているが、それが今一番の意中の人ではない。

「それでは安宿あすかべ王か。ううむ、他に歳頃の者は思い出せぬな。それともまさか臣下の者であるか。ならぬぞ。いくならんでもそなたの身分で臣下の者とはゆるされぬぞ」

「違います」

「ではこの父にだけこっそりと教えたもれ」

 内親王は父帝とこれだけ親しく話すことができる機会を得られたの、久しくないことであった。親王が生まれた喜びもあってかいつになく酒が御進みになられていらっしゃるらしく、御機嫌が麗しい。そのため、内親王もいつになく父帝に親近感を持った。

「勅命でしょうか、陛下」

「そう、勅命だ。この耳にこそっとささやくがよいぞ」

 そのため、内親王は腰を浮かせて立膝で父の方へ擦り寄り、一瞬向かい側にいる左大臣長屋親王の方を見て耳打ちした。

「北の宮」

 それを聞いてさすがに今上帝も驚かれたようであった。そして二人を除けば最も高い席にいる長屋親王をじっと見られた。

「何か御用でありましょうか、陛下」

 隣の席の葛城王と話をしていた長屋親王もその御視線に気付いた。

「いや、何でもない。何でもないぞ。そなたの相変わらずの男っぷりの良さに見惚れておったのだ」

「いえ、勿体無い」

「続けるがよい、続けるがよい」

 そう長屋親王と葛城王にうながされた。

 二人はそれを聞いて、首を捻りながらも少しずつ話を戻し始めたようである。

「そなたは見る目があるの、内親王」

「そう思って」

 さすがに照れ恥ずかしい。

「しかし朕が叔母と寵を争うことになるぞ」

 文武もんむ帝の妹である吉備内親王のことである。

「大叔母さまはもうそのような歳ではないと思うわ」

「それに、さすがにそなたが大人になる頃には、いかに絶倫の左大臣も枯れてきていよう。左大臣の息子たちはどうだ」

 先ほど出た安宿王はその長屋親王の息子の一人である。

「いいえ、わたくしの背の君となる方なのですから、最高の位にある方でなければなりません」

「そうかそうか」

 今上帝は笑いながら杯をまた傾けられた。もちろん内親王の歳がまだ若いだけに、本気にはなされていないようでもある。だが、もしもあと五年もすれば、ありえない話ではないかもしれない。

「わたくしは本気です」

「分かった分かった。では五年後にまたその話を聞くとしよう。その頃にはそなたも餅を共に分かち合う相手を探してよい頃だ」

 それを機に、内親王はそろそろ眠くなってきたので先に退出した。だが、この日のような父帝との会話は絶えてなかったことであり、その夜は嬉しさでなかなか寝付けなかった。


 今上帝にはさらにめでたいことが続かれた。県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじが懐妊したのである。すでに三月は過ぎているという。安宿媛の里下がりの間に通っていたのであろう。

 安宿媛はもちろん憤慨したが、しかし自分が跡継ぎを産んだことには変わりないので、以前に広刀自が井上いうえ内親王や不破内親王を身篭った時に比べればそれほどでもなかった。

 普通ならば皇太子を擁する藤原四兄弟の専横に対して、別の妃の妊娠は政治問題になりかねないが、この場合は当の広刀自が藤原氏との縁が強いために、何も起こりようがなかった。少なくとも県犬養橘三千代あがたいぬかいのたちばなのみつちよが皇太子の外祖母として隠然とした力を持っている限りは、宮中はこのまま平穏に進んでいくものと見られた。

 そもそもが今上帝が、藤原氏を慮っていることもあろうが、すでに日嗣の皇子はいるのであるからこの懐妊にあまり興味を持っていないご様子である。

 一方で都に戻ってきた内親王はまた退屈な日々を過ごしていた。母の安宿媛が住まわれる東宮は賑やかで常に人が多いらしいが、その者達がこちらにも訪問してくるのは稀である。母と弟宮のご機嫌伺いのついでにとたまに伯父たちが寄ることはあるが、顔を見たらもう長居はしない。

 四兄弟の末弟の藤原麻呂が娘の百能ももよしを連れてまた来たので、しばらく遊び相手に預かったりもしたが、それも去るとまた寂しくなった。

「また由義ゆげにでも行こうかな」

 などと言うと、久米若女をはじめとしてお付の女官たちは一様に反対した。

「あんな鄙びたところではなんの楽しみもありません」

 そうは言っても、由義ならば暇なのは誰もいない場所だからと慰めは付く。だが都では、内裏にはこんなにも人がいるのに、自分の周りには相も変わらずの人間しかいない。その方が内親王には寂しかった。

 

 三月三日は上巳じょうしの節句であり、今上帝が池のほとりに場を拵えて宴会を開いた。内親王ももちろん出席する。

「最近ご無沙汰ですね、内親王」

 席が隣になった母の安宿媛あすかべひめが言った。

「ええ。お呼びもございませんので」

「変なことを言いますね」

「母さまはわたくしには何の用もないのでしょ。お呼びが一向にないもの」

「内親王、そなたはわらわの、この母の娘ではありませんか。用がなくとも顔を見せに参るのが普通ではありませんか。なんて悲しいことをいう子でしょう」

 それを聞いて内親王は眼から鱗が落ちた思いであった。

「用が無くても顔を出せというの」

「東宮もすくすくと育っています。今から顔を見せておいて欲しいのですよ。何しろ今はともかく、行く末はこの子の頼りはひとえにそなたが一番なのですから」

「そう、そうね」

「わらわから離れて一人立ちして嬉しいのは分かりますが、それでは母が悲しすぎます。親離れしたい歳頃なのでしょうが、せめて毎日顔くらいはお見せなさい」

「分かりました」

「そなた、また由義ゆげ甕原みかのはらのお祖母さまのところへ遊びに行こうとしていると聞きました。そんな悲しいことは言わないでおくれ」

「そんなことは誰がいったのかしら。しばらくは都におります、母さま」

「そうして下さるとありがたいわ。さあ、久しぶりにそなたの舞をみせておくれ」

 内親王が母親の安宿媛といつになくにこやかにしているのを見て、今上帝もことのほかお喜びであった。

 内親王をはじめ百官には褒美が与えられたが、そんなものは何の喜びでもなかった。ただ母が自分を忘れていないことが分かったのが一番の喜びであった。


 それからというものの、毎日ではあからさま過ぎるので、二日に一度は東宮へ顔を見せることにした。その滞在も勧められるままに長引き、夕餉も共にとることも多かった。

「おお、内親王のご立腹も解かれましたか」

 藤原四兄弟の長兄武智麻呂は東宮で弟宮をあやす内親王を見て嬉しそうである。

「別に腹など立ててないわ」

 などという内親王は、やがて毎日朝から入り浸るようになり、起居こそ別の部屋であるが、以前のような暮らしが戻ってきたようであった。

 しかし唯一つ違うのが、母からの愛情であった。かつては父帝がおわす時を除けば全ての愛情は内親王に向けられていたし、父帝は内親王を一身に愛しておられたから、結局は常にその場の中心にいた。しかし今では父母の愛情は第一に弟宮に向けられており、内親王へは二の次であらせられる。しかも弟宮は病弱であるために常に皆の手を煩わせることが多く、気を引くためにそのように生まれてきたのではないかと恨まれるほどであった。それでもやはり母の側にいたい。

「おや、ここに居られましたか」

 などとたまには左大臣長屋親王もこちらにやってくる。例の立太子に反対して以来、どうも東宮には足が遠のいていたらしいが、内親王のご機嫌伺いを名目にこちらに以前にもまして通いだした。

「なんだかわたくしに会いにきているのか弟宮の顔を見に来ているのか分かりませんわね」

 などと嫌味を言うが、それでも変わらずに通ってきてくれていた実績もあり、また淡い恋心もあって、いそいそと内親王は左大臣の席を作らせるのであった。

 それに対して、藤原四兄弟も表面上はにこやかであった。時には鉢合わせになるが、特に反目している様子も見せずに、今上帝がおわす時には政治の相談をしたりするので、まるで朝堂がこちらに移ってきたかのようである。


「しかし困ったものだ」

 藤原武智麻呂は唐渡りの瑪瑙を加工して作られた深皿を持ち上げては鑑賞しながら独り言をつぶやくが、声が大きくて普通に話しかけているようにしか聞こえない。。

「何のことです、兄上」

 三弟の宇合うまかいは難波宮の監督が一段落して都に戻ってきていた。

広刀自ひろとじのことだ」

「さほどのことでもありますまい。将来は東宮の弟君として藩屏となる身です」

 房前ふささきこそ独り言をつぶやいているかのような声量である。

「だが、万が一のことがあればことです」

 麻呂は東宮が今日も微熱を出して寝込んでいることが心配でならない。

「お腹の中が女ならばともかく、男ならば」

「余計なことを言うな」

 宇合は、末弟の麻呂の口出しを止めた。

「だが麻呂のいうことも尤もではないか」

「いっそ始末してはいかがか。もうああなっては中絶もできまい。流すにこしたことはないかと」

 武智麻呂に褒められて、麻呂も嬉しそうである。

「ならぬ」

 房前が珍しく声を荒げた。

「しかしそれが手早いのは確かだ」

 宇合も麻呂に同調する。

「おやめなされ。広刀自はわらわにはよく尽くしてくれました。今でも何かにつけ挨拶の文を送って参ります。断じてなりませぬぞ」

 安宿媛にしてみれば、お付の女官であった広刀自に手が付いたのは腹立たしい。しかし主上が御望みとあらば、広刀自には拒めないことであった。その上で立場をわきまえて下手に出てきている。主上を責めるわけにはいかないからといって広刀自をというのは、彼女にはできなかった。

「しかし左大臣などに利用されてはことですぞ」

「麻呂兄さま、広刀自は身内です。わらわの母が一族から特に選んで付けてくださった女官の一人です。そんなことがあるはずもございません。」

 広刀自は安宿媛にとっては母方の親戚であるが、藤原氏にとっては直接の関係は無い。あくまでも亡き父不比等の未亡人である橘三千代たちばなのみつちよを通じての間接的な縁である。それが両者にとっては大きな隔たりであった。

「左大臣は東宮にこそ足繁く参るが、広刀自の元へ参上している気配は全くない」

 房前はしっかりとそこら辺は抜け目なく左大臣に対して内偵は入れているらしい。

「しかし気をつけねばならんぞ」

「兄上、それよりも怖いのは、左大臣が自ら帝位を狙うのではないかということです。何しろ天武帝の長子である高市たけち皇子の嫡子ですから。高市皇子こそ母方の身分が卑しく帝系から外されたが、左大臣の母は天智帝の皇女。我にこそ資格有りと思っていてもおかしくはない。広刀自の子はむしろ吾等が保護し、邪な者達に利用されぬように」

「分かった。房前の言を採ろう。皆もそれでいいな」

 世間では武智麻呂は藤原家の頭領で立てられてはいるが、政治的な意味での中心は次兄の房前と見られていた。しかしそれは一面だけで、武智麻呂はやはり四兄弟の中心である。藤原家の策謀の多くが房前の冷徹な頭脳から出ているのは確かであるが、不比等亡き今では統率者は武智麻呂をおいてありえない。

「武智麻呂兄者がそう言うのならば、異論は無い」

 宇合もうなずく。

「しかしそれにしては左大臣の東宮へのご機嫌取りはどう見ればよいのでしょうか」

 末弟の麻呂である。

「簡単だ。東宮の容態を直接観察したいのであろう」

 宇合は東宮の寝かされている篭の元へ歩いていき、頭に手を当てた。

「しかし左大臣は自ら皇位に付こうというような気配は見せておりません」

 四兄弟と行動を共にすることが多い義兄弟の葛城王はやはり不比等の婿であるが、その点では左大臣長屋親王と同じであり、相婿ということになる。そのためか、長屋親王には同じ皇族という点からも擁護しがちであった。もちろん安宿媛の異父兄でもあるだけに一も二もなく藤原氏の身内であり、その点が疑われたことはない。

「義兄上はいつもそうだ。だが左大臣を甘くみてはならぬ。吾らが何度煮え湯を飲まされたことか」

 宇合はこの葛城王を実の兄同様に慕っていたが、それでも左大臣に対する態度だけはいつも対立する。葛城王にしてみれば左大臣長屋親王は同じ歳であり幼い頃から親しく、また互いの妻を通じての義兄弟である。それだけに、双方に挟まれて困った立場にあった。

「左大臣さまはそのような悪意はお持ちではないわ」

 内親王は抗議するかのように伯父達に言った。

「内親王様は左大臣贔屓でありますからな。どうですか、この坏は。すばらしいでしょう。主上に進上しようと思って持ってまいったのですぞ」

 武智麻呂は深皿を内親王に渡した。

「これは全て瑪瑙なのね。すばらしいわ。でも誤魔化されませんよ。左大臣とは仲良くやれないのですか。お祖父さまの婿どのではありませんか。わたくしにとっても大叔母さまの夫にあたるのです」

「内親王、これは子供の遊びではありません。どうか口を挟まぬように」

 末弟の麻呂である。

「無礼ではありませんか。わたくしはもう大人です。そのようなことを二度と言うと許さないわ」

 とたんに内親王は癇癪を起した。以前ならば子供ではあるが内親王は天皇家と藤原氏を繋ぐ大切な絆であり、このような不用意な言葉は言われなかった。麻呂の一言は、両家の絆が弟宮に移ったという意識を濃厚に表しており、それは内親王が最も痛切に思っていることである。そのために、その一言が許せなかった。もっとも、内親王も今までのように黙っていても大切にされる存在から一段下に落とされたという自覚があってこその口出しだったのは否めない。

「しかしこれは政治向きのことです」

 麻呂は逆に三人の兄達からは幼少期は子ども扱いされてきていた過去がある。今でこそ一人前の男としてこうして行動を共に出来るが、それまではそうではなかった。だからこそ、内親王が子供のくせに簡単にこの集まりの一員に無造作に入りこもうとしているのに対して反発があったのであろう。

「麻呂、内親王様に敬意を払わぬか。わきまえよ。吾らの姪御とはいえ皇女であるぞ」

 武智麻呂がたしなめた。

 こういう時は房前は長兄の武智麻呂を立てて何も言わない。しかし房前はむしろ今後は内親王との連携が重要になってくると思っていたようである。なにしろ東宮の唯一の同母姉なのである。今後東宮に与える影響力は絶大であるはずであり、必ず絶対の味方にしておかねばならないのだ。

 一方で三兄の宇合は長屋親王への反発が先に来ているので、内親王の口出しは余計なことだと思っていたようだ。

「兄上、そうはいうが、吾はむしろ左大臣の内親王様への訪問こそ問題と思う。それを口実に吾らの領域にまで入り込まれておるのだ」

 内親王は、昨年に由義に寄ってくれたこともあって好感を持ち始めていたので、宇合のこの言葉には衝撃であった。

「左大臣さまはそなた達と違って誠実な方です。気分が悪いわ。若女、戻ります」

 内親王はそう言って立ち上がり、部屋から出ようとした。

「内親王、お待ちなさい」

 慌てて母の安宿媛が声をかけるが、聞く耳を持たない。

 後ろでは四兄弟達の何やらいい争う声が聞こえるが、怒りと悲しみが入り混じった内親王には関係のないことであった。


 その日以来、内親王は東宮房には滅多に足を運ばなくなった。さすがに心配したのか母からの催促もあったが、伯父達がこない時を選んでたまに短い間顔を出すだけであった。業を煮やしてか、安宿媛の方からやってきたこともあったが、何も言うでもなく、ただ退屈な時を過ごしただけであり、二度と来ることはなかった。

「左大臣さまはいらっしゃらないわね。どこか遠国にでも行かれているわけでもないでしょうに」

 内親王がそういうと、久米若女がおずおずと答えた。

「あの、実は安宿媛さまから、左大臣さまのご訪問はお断りするようにとの御沙汰がありまして。今までに何度かいらっしゃいましたが」

 女官たちは、内親王が癇癪を起して当り散らすことを想像した。だが内親王はそれを聞くと悲しそうにうなずいてただ黙りこんだだけであった。

「内親王さま、申し訳ありません。ただ、安宿媛さまから強く言われまして」

「いいの。もういいの。あなたたち、みんな出て行きなさい」

「しかしそれでは」

「いいの、しばらく独りにして」

「はい、では」

 若女がそう言うと、女官たちは下がっていった。

「私めは隣の部屋に下がっております。何か用事がありましたら」

 若女は内親王が左大臣の優しい声を思い出しては涙を眼に貯めているのをみて、内親王の言う通りにした。

「東宮など、死んでしまえばいい」

 内親王は小さな声で、しかしはっきりと口に出した。

 

 阿部あへ内親王は春も過ぎると、避暑を兼ねて甕原みかのはら離宮に滞在した。

 夫である藤原不比等の死後、一族の本拠地であるこの甕原に引き篭もっている橘三千代たちばなのみつちよは、相変わらず孫の内親王には甘かった。東宮が生まれて藤原一族の期待は全てそちらに移ったが、それがために三千代には却って内親王が愛しいのかもしれない。

「そなたが生まれた時、文忠ぶんちゅう公の喜びようときたら、それはまあ」

「お祖父さまは、わたくしが皇女だと知って残念がりませんでしたか」

「いいえいいえ。孫となると娘の方が可愛いらしいのですよ。逆に私がそなたの母である光明子こうみょうしを産んだ時には、ひどい顔をなされておりました。もう一人息子が欲しかったと、いつまでもこぼして」

 文忠公こと藤原不比等ふじわらのふひとは内親王が三歳の時に亡くなっているので、記憶は全く無い。よく懐いていたというが、覚えはなかった。

「主上の母妃である宮子さまも文忠公の娘であるから、その御子である今上帝には息子達の娘を、というように最初は考えていらしたのですよ。でも結局は光明子も入内して、そなたが生まれて。本当に良かったと思っているのです」

「弟宮も生まれましたし」

「私は、そなたが娘でそなたは幸せと思います。帝はこの日本で一番お偉い方ですが、それだけに大変重い立場に否応なく立たされるのです。その点そなたは身分は申し分ないのですし、後ろ盾も立派なのですから、どこへ輿入れしても大切にされますよ。立派な方との間に御子が産まれれば、国母となるやもしれません」

「そうでしょうか」

「身分も後ろ盾もない女人は哀れです。でもそなたはそのどちらも申し分ない。こんな幸せなことがありましょうか」

 それを聞いて、内親王は嬉しくなった。今までは自分がなんで男として生まれなかったのかと悲しく思うばかりであった。だが初めて、皇女に生まれて良かったと思えるようになった。

 すると、たまたまこの甕原みかのはらにやってきていた伯父の狭井王が、空を見上げながら庭から二人のいる部屋の縁の方へやってきた。葛城王の弟で、内親王の母妃安宿媛の異父兄である。

「珍しいですね。あれは金星のようです」

「まだ宵には大分早いですけど、そんなことがありましょうか」

 太陽を見ないように手で隠しながら縁側に出て三千代は同じ方向を見た。

「どこ、どこです、伯父さま」

「太陽の側です。でも内親王様はご覧にならないようにしてください。太陽を見ては眼が潰れます」

「これは何かの兆しですね。天津甕星あまつみかつぼしはまつろわぬ神。陰陽おんみょうに詳しい者はおりませんか」

「母上、陰陽寮の者に聞いたことがあります。太白たいはくは使者。何かを伝えに来たのでしょう。しかもあまり良くないことかもしれません。唐では太白は兵事や凶事を司るとされております。それが宵の前にやってきたと言うことは、何か騒ぎの元となるものがやってくるということかもしれません」

 狭井王は今上帝の教育係の一人でもあっただけに、博識である。

「これは広刀自に皇子が生まれますね。そして東宮は……」

 三千代はしばらく金星を見つめてからつぶやいた。

 そしてその通り、翌日には今上帝の二人目の親王が誕生したことが知らされた。


 陰暦七月は夏の後半にあたる。

 ここでは監視の目も緩むこともあり、阿部あへ内親王は左大臣長屋親王とも週に一度くらいは文のやり取りをしていた。

 長屋親王は京での出来事を面白おかしく知らせてくる文が多く、内親王は楽しみにしている。

 一方で母の安宿媛あすかべひめからは、早く帰ってくるようにという催促ばかりで、面白くも無い。祖母の橘三千代たちばなのみつちよがそんな文は無視して夏中はこちらにいるようにと言ってくれているので、内親王は帰る気はなかった。

 母である三千代のそのような文を受け取っても、安宿媛は娘の内親王に対して催促をやめなかった。それというのも、東宮の体質の弱さがこの夏に顕著に出てきたからでもある。

 この暑気の中、深い井戸の水を汲み、氷室から塊を出してきていはいるのだが、どれも効果は薄く、下し腹が止まらないと言う。

 そして東宮が夏風邪をこじらせてなかなか快癒しないということで正式に三千代に対して使者が立てられたため、さすがに阿部内親王と共に急いで都へ行くことにした。

「どうせ大げさに言っているだけだわ。母さまときたら、いつもそう。あそこが痛い、気分が悪い、腹が立った、全部そうなんだもの」

 しかし内親王は、内心ではすでに弟宮が長くないことを悟っていた。それは「死んでしまえばいい」と自分が口に出してしまったからであるということは間違いないと思っている。

「そうだと良いのだけど」

 三千代のつぶやきも力の篭ったものではなかった。悪い予感というものは得てして的中するものなのだと思っているようである。

 内裏に帰還すると、さっそく催促の使者に牟漏むろ女王が安宿媛の女官を従えてやってきた。三千代の前夫との間の娘であり、今では藤原房前ふじわらのふささきの妻である。

 二人は東宮房へ向かった。

「ああ、母さま。それに内親王。やっと帰ってきてくれて」

「どうなの光明子、容態はそんなに悪いの」

 三千代はすぐに東宮が寝かされている臥所に向かった。

「流行り病ではないわね」

「薬師は違うというわ。都でもどこでも今は流行っている病はないと」

 安宿媛はそう言うと、たまらずといった風に内親王を抱きしめた。

「ああ、あなたが居ない間どれだけ母が不安な思いをしたか分かりますか。どうして戻ってこなかったのです」

「母さま、ごめんなさい。まさかこのようになっているとは思いもよらず」

「何を言っているの。文にしたためたではないですか。でもよかったわ。内親王がいてくれないと、わらわはどうにかなってしまいそうです」

「ごめんなさい、母さま」

「母さまもよく来てくださいました。もうどうにかなってしまいそうで」

「あなたはしばらく寝ていなさい。あとはしばらく私が代わって看ます」

 安宿媛はこんな時に寝込んでいられないとばかりに抵抗の素振りを見せたが、身体に力が入らないらしく、女官どもに抱えられて次の間に下がっていった。

 しばらく三千代が薬師と話をしていると、先触れがきて藤原四兄弟達が訪れた。

「これは三千代様。しばらくぶりです」

 真っ先に長兄の武智麻呂が継母に頭を下げた。

武智麻呂むちまろどのに房前どの、宇合うまかいどのに麻呂どの。お揃いですね。それに葛城王も」

「母上、お久しゅうございます」

 一同の儀礼が手早く終わると、今度は男達は内親王にも頭を下げた。

「それで妹は。見当たりませんが」

 宇合が素早く部屋を見回した。

「娘は奥に下がらせました。あのままではあの子が参ってしまうわ」

「それがよいでしょう。妹は夜も寝られないそうなのです。無理もない、この心痛に加え暑さまで」

「それで、武智麻呂どの、加持祈祷はどうなっておりますか」

「すでにやらせております」

「まさか仏僧だけではないでしょうね。神さまにもお頼みもうしていますね」

「それはもちろん」

 武智麻呂に代わって房前が答えた。

「よろしい。陛下はなんとおっしゃっていらっしゃいますか」

「主上は仏の力を借りるのを嫌がっておりましたが、この期に及んではと」

 藤原氏はむしろ仏教に帰依していたが、今上帝は天照大神の子孫であることから、仏法には積極的ではない。先帝をはじめとして百官の氏族全てが何らかの形でいずれかの神の子孫を名乗っているのであるから、根強い。

 だがもちろん、藤原氏も神々の存在を排しているわけではない。日本古来の八百万やおろずの神よりも天竺てんじく由来というから渡りの仏教の方が力が強いと思っているに過ぎない。

「それではあとは祈るしかないではありませんか」

 内親王は改めて自分の罪深さを知った。このように弟宮が苦しい思いをしているのは、全て自分の言霊ことだまが実現させているに違いないのである。いくら憎く思えていても、口に出してはならなかった。

「弟は、弟宮は助かるでしょう。日嗣ひつぎ皇子みことして天照大神あまてらすおおみかみさまがお守りになっておられるのでしょう」

 内親王はそっと祖母に抱きしめられた。

「大丈夫です。夏風邪にやられただけですよ。そなただって小さい頃はこのように大病をしたことがあるのに、今ではすっかり元気ではないですか」

「本当、本当ですね。弟は大丈夫ですね」

「ええ、あなたと私が側で看ているのですから、もう一安心ですよ」

 この二人の様子をみて涙を流さない者はいなかった。


 八月になっても残暑が厳しく、まだ秋の気配もない。

 安宿媛あすかべひめは東宮と同じ部屋にいては一喜一憂して心が持たないため、あまり入ってこないように母の橘三千代に言われていた。

 藤原四兄弟なども、あまり人が多いと部屋の空気を悪くするということで、東宮の寝所にはあまり入らずに控えている。今日はそれに加えて三千代の先夫である美努みど王との間の息子である葛城王と狭井王も揃っていた。男達はむしろ妹の安宿媛を慰めるために来ているのであろう。

 安宿媛は内親王を側に置き、疲れきって脇息に身を委ねている。

 異父姉の牟漏むろ女王は近頃ではこちらに泊まりこんで妹の安宿媛を力付けるために側に居ることが多くなり、今も本来ならば女主人の行うべき役目を率先して引きうけていた。そのため夫の藤原房前ふじわらのふささきも自宅よりもこの東宮房で妻と会う機会の方が多いくらいである。

「やっと義淵ぎえん僧正の話に耳を傾ける気になってくださった」

 武智麻呂はなるべく妹を元気付けようとしている。

 東宮の容態が良くなるどころか徐々に悪化していると聞き、今上帝はさすがに藁にもすがる気持ちになり、仏僧の話を聞く気になったらしい

 高僧の義淵は先帝以来内裏に供奉ぐぶしているが、今まであまりその役目を果たせてはいなかった。天武てんむ帝に寵愛され、草壁くさかべ皇子の幼馴染であったことから、その子の文武もんむ帝には信頼されていたが、先帝や今上帝からは半ば無視されていた。仏法を敬うこと篤いのは藤原氏だけでなく、左大臣長屋親王も義淵の信奉者であった。今上帝が高僧の説法を取り入れようとしたのは、むしろ左大臣の具申が大きかったと言えるかもしれない。

「僧正は、真っ先に殺生の害を説かれてな、今上は、鳥獣を必要以上に狩る事を禁じるべく、鷹の飼育を禁止させたのだ」

「吾の息子である鳥養とりかいもさっそく全ての鳥を放ったのだが、帝のお耳にも入ったらしい」

 もちろん耳に入るようにしたのは、鳥養の父である房前であろう。

「しかし遅い。遅すぎるのではないか。もっと早くから仏法の力を借りておれば」

 宇合うまかいは忌々しそうに言った。

「やめよ」

 武智麻呂は首を振った。今ここで不吉なことを言って何になるというのであろうか。それと言うのも、またもや金星がまだ日も高いというのに見えたというのである。さすがに橘三千代をはじめとして藤原氏の一同は顔を真っ青にし、ここに集まった次第である。

広刀自ひろとじ様を見張っておるか。呪詛を企ててはおらぬだろうな」

 房前が言った。

「広刀自はそのような女ではありません」

 やはり安宿媛は広刀自をかばう。これ以上悪意を感じたくないという気持ちが強いということもあろう。

「大丈夫だ。その気配は無い。それどころか、斎宮いつきのみや様に文を送り平癒を願うように頼んでおる」

 県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじが皇子を産んだため、東宮がこうじれば帝位はその皇子に来ることは誰にでも想像が付く。

「東宮が誰ぞに恨まれておるなど、ありえませぬ。東宮は誰からも祝福されて望まれた御子です。誰もが平癒を願っているのです」

 あまりにも興奮したため、安宿媛はそこで倒れてしまった。慌てて女官達が身体を支え、寝床を拵えてそこに寝かせる。

「伯父さまたち、もう帰って。それに母さまの前では二度とこのような話はよしてちょうだい」

 男達はすごすごと帰っていったが、母の言葉に一番心をえぐられたのは内親王自身であった。なぜならば、内親王こそが弟宮の誕生を最も願わなかったからである。


 月半ばになっても日嗣の皇子の容態は一進一退を続け、とうとう今上帝が東宮房へ御見舞いあそばされた。

観世音菩薩像かんぜのんぼさつぞうを百七十七体作らせることにした。観音経も百七十七部写経させることにした。朕も毎日教を唱えながら仏像の周りを回っておる。大赦たいしゃもしたもう何をすればよいか分からぬのだ」

 今上帝も御疲れになっており、憔悴なされておられるのがありありとみてとれる。

「帝、あなたは仏の道に頼りすぎです。日本には古来からの神がおります。その怒りを買いますぞ」

 今上帝と共に、先帝とその妹の吉備内親王がいらしておられる。

「しかし上皇陛下、その神への祈祷が全く効かないのです。もはや仏に頼るしかないではないでしょう」

「帝が仏法に頼るのはよしとしましょう。この際は使えるものは何でも頼るべきです。ただ、これだけはやっておくれ。皇祖のそれぞれのみささぎに平癒祈願を願うのです」

「まさか、なぜ皇祖の方々に。皇太子たる東宮に祟るはずがない」

「いいからなさい。何でもできることはしておくべきです」

「その通りでした。この上はお力をお借りしましょう」

 もちろん今上帝は藁にもすがる御思いであらせられるから、直ちにそれを命じられた。祖先が祟っているというよりは、むしろ平癒のために力を貸してくれるのではないかという思いがおありになられるのであろう。

「陛下、このようなお姿で申し訳ありません」

 よろよろと安宿媛が帝の御前に参った。床に臥せっていたのであるが、今上帝と先帝がいらっしゃると聞いて、あわてて何とか身体を起こし、身だしなみを整えたのである。

「おお、安宿媛。よい、無理をするな。そなたまで身体を壊してしまっては元も子もないのだ」

「かたじけのうございます。ですが、主上のご心痛を察するにあまりなく」

「何を言うか。腹を痛めたそなたこそ、心配もひとしおであろう」

 今上帝はやがて内親王を見ると、優しく声をかけた。

「そなたが母と弟を看ていると聞いている」

「はい、でもわたくしは何も」

「よいよい。そなたがいるだけで皆が救われておるのだ」

 内親王は涙が出てきた。

 それから一月もたたないうちに、東宮はこうじられた。

 

 東宮の薨御こうぎょに対する今上帝の御悲しみは深くあらせられた。三日の間は政務を停止なされ、君臣はその間は喪に服した。

 ほどなくして巨大な流れ星が落ち、何やらこの世の行く末を現しているかのようである。

 やがて義淵ぎえん僧正も命を落とした。加持祈祷に命の全てを費やし、それもむなしかったことから、東宮の後を追うように倒れこみ、そのまま亡くなったのである。

 阿部あへ内親王はそれ以来、母の元へは行かなかった。何度か儀式の場で顔を合わせただけであり、その時も会話はなかった。

 母の安宿媛あすかべひめが今最も側にいて欲しいのは内親王だと分かっていながら側に寄れなかったのは、東宮を死なせた一因が自分にもあると信じていたからである。もしかしたら病弱に生まれついたのも、知らず知らずのうちに自分がそう望んでいたからかもしれない。そのため、東宮亡き後に母の愛情を一身に受けることは、東宮の祟りを受けかねないのである。


 年が明ける頃には、内親王のお付の女官達に対する力関係は完全に逆転していた。今までは女官たちも安宿媛の東宮房が本籍でありそこから出向している意識が消えなかったが、安宿媛が人事不省となっている今では、阿部内親王こそが主人であると認めるしかなかった。そのため、左大臣の訪問を止める者もいない。もちろん伯父の藤原四兄弟の息のかかった者達はそれを後で報告するであろうが、表立っては何も言えない。

「お久しぶりです、左大臣さま」

「思ったより元気そうで安心しました」

「そうお見えですか」

「他の方々に比べての話です」

「それではわたくしが悲しんでいないかのようではないですか」

「そうではありません。内親王がお強いからですよ。吾は悲しみというのは外に出せばいいというものでもないと思います。それよりも、それを内に秘めて、亡き人の分まで生きるべきだと思いますよ」

「そうでしょうか」

 左大臣はうなずいた。

 内親王はその言葉を嬉しく思った。左大臣の言っていることが当たっているわけではないが、少なくとも自分が悲しみを表に出していないことの正当化はできるからである。やはり左大臣しか自分にふさわしい方はいないに違いない。

「お前達、下がりなさい」

 しばらくして内親王は女官達に意を決し命じた。

「しかし、内親王さま」

「お前もです、若女わかめ

 久米若女くめのわかめがさすがに何かを言おうとしたが、恐れ入って下がっていった。もちろん次の間で聞き耳を立てて控えているのであろうが、小声ならば聞こえない。

「どうしました、内親王」

 左大臣は相変わらず微笑んでいる。

「月のものが参りました。もう三月になります」

「それは」

「もう子を産めます」

 これにはさすがに左大臣も大いに驚いた。

「内親王、それは喜ばしいことですが、しかし内親王はまだ十二ではありませんか」

 十三歳までは正式な結婚は認められない。

「あと一年も待てません」

 左大臣は何も言わなかった。ただ内親王の眼を見て、本気かどうかを見極めているかのようであった。

「わたくしは明日から甕原みかのはら離宮へ参ります。一週間ほどおります。独りで参ります」

「しかとは、お約束はできません」

 そう言うと、左大臣は席を立った。その後を内親王はただじっと見ていた。


「ご勝手が過ぎますぞ、内親王様」

 藤原武智麻呂ふじわらのむちまろは、内親王が甕原みかのはらに行くとどこからか聞きつけたか、兄弟たちと共に乗り込んできた。

「伯父さまにそのようなことを言われる筋合いはありません。甕原はわたくしの里のようなものです」

「内親王様、あなたは今までと立場が違うのですぞ。東宮亡き後は、あなたさまが位を継がなければならないのです」

 末弟の藤原麻呂である。

「そんなはずはありません。わたくしは女の身。弟がもう一人生まれたのですから、わたくしは自由ではありませんか」

「そうは参りません。広刀自ひろとじ様は三千代みつちよ様に縁のある者とはいえ、藤原の血は引いておりません」

「ならば母さまがまたお産みになればよいだけです」

「内親王、お聞き分けなされ」

 藤原宇合うまかいは四兄弟の中でも最も声が大きかった。

「無礼ではありませんか。伯父とはいえ宇合は臣下。わたくしは内親王であります」

 まだ十二の娘にそのように言われて、伯父達は怯んだ。姪は今まで安宿媛の傍らにいて甘え、時に我がままを言うだけの女児のはずであったという意識があるのであろう。

「これはご無礼を。申し訳ありません、内親王様」

 武智麻呂が頭を下げたため、他の弟達も渋々といったように頭を下げた。

「しかし内親王様、もう一つお聞きしたいことがあります。また近頃左大臣の訪問を受けていると聞きます」

「それが何よ」

「今日は人払いをなされたとか。一体何をお話で」

「何でもないわ」

「何でもなくて何ゆえ人払いなどさせましょうか」

 だが内親王はそれ以降一言も発しなかった。

「分かりました。それでは甕原へ行かれるがよいでしょう」

 房前ふささきが静かに口を開いた。

「おい、勝手なことを」

 武智麻呂が驚いた様子で弟の顔を見た。

「宇合がお送りすればよいでしょう」

 武智麻呂は少し考えたようだが房前に同意した。房前のなすことを武智麻呂は大抵は反対しない。

「よかろう。宇合、そなた送ってやれ。葛城王も申し訳ないがお願いいたす」

 宇合と葛城王は軽くうなずく。

「要りません」

 内親王は慌てた。宇合が甕原にいては、左大臣が忍んでくることなどとてもできまい。

「わがままを言われるな」

 房前がこのような大きな声を出すのを内親王は聞いたことがなかった。

「内親王様はこの日の本で帝の次に大切なお方。そのことは自覚なさいませ」

 房前の有無を言わせない迫力に、内親王は何も言えず、ふくれて顔をそむけることすらできなかった。

「夜になる前に立たれよ。それでは兄者、吾々は失礼いたそう。葛城王と宇合はよろしく頼む」

「分かりました。お任せあれ」

 宇合と葛城王が頷くと、促された武智麻呂も立ち上がり、二人を残して他の兄弟達は去っていった。


 甕原みかのはらまでの供は大掛かりであった。今までほとんどお忍びの形で行っていたものだから、今回のものは大げさに思えてならない。しかも今回は内親王としての格式以上のものが用意されているのであるから、一層である。

 昨年新設された今上帝を守る中衛府ちゅうえいふからも人数が相当出され、そのために府内もてんやわんやらしい。

 これだけ大規模なのであるから、当然ながら今上帝にも母の安宿媛あすかべひめにも知られる。安宿媛は内親王を呼び挨拶をさせたし、朝堂において父帝にも拝謁した。

「そなたがいなくなると寂しい。そなたの母のためにも早く戻って来るように」

 などというありがたい言葉を頂戴し、内親王は百官に見送られた。

 内親王は左大臣長屋親王を探した。一瞬眼があった気がして、何とかしてこのような大事になったのは自分の意図ではないということを仕草でしめしたかったが、どうにもならない。

 堅苦しく物々しい供を引き連れ、内親王は北へ向かった。まさに百官や民衆に東宮亡き後の次の皇位を継ぐ者は誰かということを喧伝しているかのようであった。

「これが房前ふささき伯父さまの企みですか」

 内親王の乗り物の隣で騎乗の人となっている葛城王に内親王は強い口調で言った。

「東宮殿下を亡くされて、陛下も安宿媛さまも大いに悲しんでおります」

「それでこの行列ですか」

「お許しを」

 葛城王はいつものらりくらりで、話にならない。内親王は葛城王が好きではない。

「あなたでは話になりません。宇合うまかい伯父さまはどういたしました」

「先頭にて護衛の指揮をとっております。内親王のお世話はこの私が」

 この葛城王もまた内親王の伯父にあたるのだが、四兄弟が祖父の藤原不比等を通じて父方のものであるのに対し、葛城王とその弟の狭井王は祖母の橘三千代たちばなのみつちよを通じての母方のものである。

 葛城王の父は美努みど王で十五代も前の敏達帝の曾孫だと聞いている。つまり皇族とはいっても現在の皇統からはすでにかなり遠い。すでに二十年も前に亡くなっているが、特に大きな財産も後ろ盾もなく、そのままでは葛城王も狭井王も皇族とは名ばかりの貧窮生活であっただろう。しかし母の三千代が藤原不比等に見初められたのが幸運の始まりであった。継子として大きな後見人を得た二人は、先帝や今上帝の信頼を得て、今では藤原四兄弟の忠実な義兄弟となっている。

「まあ甕原はあなたにとっても故地ですから、しばらく骨休めになって嬉しいのでしょうけどね」

「はい」

「でも宇合伯父さまには退屈な所ではなくて」

「いいえ、宇合殿は内親王を送り届けたらすぐに一度都に引き返さねばなりません」

「そう、それは残念ね。でもこんな大げさな兵たちは置いていく気ですか」

「必要な少数の者は残しますが、中衛府の兵は戻します」

「それがいいわ。わたくし、騒がしいのは嫌い」

 葛城王はそれには答えなかった。その後は内親王も一言も口もきかず、甕原には日が沈む頃にはたどりついた。

 宇合が直ちに兵を率いて都に戻るのを見ながら、そういえば宇合と久米若女くめのわかめはまだ続いているのだろうか、などと下世話なことを考える。


 まさかこの物々しい行列を見た左大臣は忍んではこられまいとは思いながらも、内親王は深夜まで頑張っていた。

 中衛府の兵は都へ戻ったのであるから、その到着を見ればこの甕原みかのはらの警備が大したことがないことは知れるはずであるから、もしかしたらという気持ちはある。だがいつもの鄙びた甕原離宮に比べれば、夜も一部篝火を炊いている者達もいて、警護は厳重に思えた。

「妙な話を聞きました」

 朝まで頑張っているつもりであった内親王は結局は深い眠りについてしまい、翌朝起きると、久米若女くめのわかめが女官たちを引き連れて寝間に入ってきた。

「いかがいたしました」

 内親王はまさか左大臣が忍んできて捕まったのではないかとびっくりした。

「左大臣さまのお話です」

「左大臣の」

 この時ほど内心の動揺を表に出すまいと苦労したことはなかった。

「東宮さまを呪詛したとの密告があったとのことで」

「左大臣さまが呪詛」

「はい」

 思いもよらないことに内親王は腰が砕けた。

「内親王さま、大丈夫ですか」

「わたくしは、わたくしは大丈夫です。それで、それでどうなったのです。左大臣はどうなったのです」

「宇合さまが兵を出し、今では左大臣さまのお屋敷を囲んでおられるとか。また三関が閉じられたとも」

 内親王の気が遠くなった次の瞬間には、再び寝具に寝かされて介抱されていた。気を失っていたらしい。

 それにしても鈴鹿すずか不破ふわ愛発あらちの三関が閉じられたとなると、謀反者扱いではないか。

「大丈夫ですか、お気を確かに」

 内親王はなんとか身を起そうとした。

「無理をなさらずに、まだ横になられては」

「手を貸しなさい。早く」

 なんとか立ち上がると着替えを急がせた。

「お手水を」

 内親王は縁に出て水を使うと、女官達に命じた。

「都へ戻るわ。すぐに支度をなさい」

「しかし」

「早くしなさい。さあ。警護の者にも伝えてきなさい」

 内親王は急かすが、なかなか思い通りにはならない。女官達は到着したばかりで荷解きをしてその翌日にもう帰るとなると、支度にも身が入らないし、そもそも警護の者達も内親王が都に戻るということを押し止めようとする。

「葛城王様のお許しがないと」

「ではその葛城王はどこです」

「それが、都から早馬が参りまして、朝早くには出立なされました。その際に、必ず内親王様をここでお守りするように、と言い残されまして」

「あなたは広嗣ひろつぐね。見覚えがあります。わたくしが命じます。都までの警護をなさい」

 従兄弟にあたる藤原宇合うまかいの長子である。その隣の公達にも覚えがある。葛城王の息子のはずであるが、名前は思い出せない。

「内親王さま、お許しください。父に叱られます」

「わたくしが命じているのです。伯父さまはお褒めにこそなれ、あなたを叱るわけはありません」

「しかし」

「ならばあなたはここに残ればよいでしょう。わたくしは勝手に行きます。でもそうなるとあなたは立場がなくなるのではなくて」

 広嗣には旗色が悪かった。他の者ならば生殺与奪は宇合が握っているため、内親王の命令を無視しえた。だが広嗣は東宮亡き後に内親王がどのような立場になるのかを熟知していたため、そうはいかない。先々において内親王の覚えが目出度いのとそうでないのとでは、出世もかなり違ってくることは間違いない。

「承知しました」

 広嗣は父よりも内親王を選んだ。まだ若い広嗣の将来の出世を左右するのは、間違いなく内親王だと考えたようである。仮に父の意向に沿っても当たり前のことをしただけであり、内親王からは睨まれる。逆に内親王の意向に沿えば内親王への心証もよく、父へは内親王の命令は逆らえなかったと言えば申し訳は立つ。


 それでも都に帰ってきたのはその日の夕方であった。広嗣もそれとなく出発を遅らせたし、供の者たちの足取りも重かった。そして支度がはかどらなかったのは、何より女官達の無言の抗議でもある。

 右京から内裏の正門にあたる朱雀門すざくもんに二条大路を通って向かうと、藤原不比等の屋敷と左大臣長屋親王の屋敷が左右に大通りを挟んである。だが、その二条大路は封鎖されており、朱雀門へは抜けられなかった。

「内親王の一行である。道を開けよ」

 そう広嗣に言わせたが、効果がないどころか、逆に慌てて藤原四兄弟の末弟である麻呂がやってくる始末であった。

「内親王、なぜここに」

「左大臣の妙な噂を聞きしました。どういうことです」

「どうかお戻りください。ここは危険なことになるやもしれません。どうか建部門たけべもんから」

 内裏の東部にある門である。

「このわたくしに、内親王に建部門に入れというの。いいえ、わたしは朱雀門へ入ります」

「お止めください。危のうございます」

「ならば説明してちょうだい。なんで左大臣を言われなく貶めるの。下賎な者達で囲ませるなど無礼です」

「それは後に内裏でご説明させて頂きましょう。とりあえず今はどうか」

「嫌です。詳しい説明をもらえなければ、一歩も動きません」

 麻呂はその後もなだめすかそうとしたが果たせず、それならばと、とりあえず藤原邸に内親王を案内した。房前ふささき宇合うまかいは独立して別に屋敷をもっているが、長男の武智麻呂と共に末弟の麻呂はまだここに住んでいた。

「それで、どういうわけです」

「左大臣長屋親王は亡き東宮殿下を呪詛しておりました。それが発覚したため、今上帝の勅命により左大臣邸を囲んでおります」

「そんなのは嘘です。そんなはずはありません」

「長屋親王は東宮亡き後自ら皇太子となることを望み、そのために東宮を呪詛いたしました。ありえることです」

「そんなの作り話に決まってるわ」

「そう上訴して参った確かな者たちがおります。左大臣に使えた者たちですゆえ」

 その二人の名前を麻呂は挙げたが、内親王にはもちろん聞き覚えはない」

「左大臣にも言い分があるでしょう」

 麻呂はそこで笑みを浮かべたのを内親王は見逃さなかった。

「もちろん、陛下は公平な方です。舎人とねり親王と新田部にいたべ親王の両殿下と大納言が詰問に参っております。真実が必ずそこで明かされることでしょう」

 両親王は天武てんむ帝の皇子達で、共に先帝からの信頼厚く、左大臣と共に政務に取り組んでいた左右の車輪である。大納言とは多地比池守たじひのいけもりのことであった。

 舎人親王は知太政官事というとてつもない権力を持つ役職に就いていた。太政大臣とほぼ同じ権能を持っており、皇族の太政大臣任命が次の皇位に影響を与えかねないために法制外に置かれたいわば臨時職だが、百官を統べているといってもよい。

 一方で新田部親王はこの藤原麻呂の異父兄で、朝廷の兵力を一手に握っており、最高位である左大臣長屋親王と合わせてこの三人に大和政権の権能の全てが集中している。この麻呂と新田部親王の続柄つづきがらは藤原四兄弟の生命線の一つである。

 大納言多地比池守は持統帝にその能力を寵愛された人物で、その後の元明げんめい女帝にも先帝からも信頼されている。いわば左大臣を実務的に支えており、左大臣に次ぐ位の高さにある。臣下としては朝廷で最も位が高い長老であった。

「その三人なら問題はないわ。すぐに真実は明らかになるに決まっています」

 新田部親王こそ藤原四兄弟にも近いが、三人とも左大臣の同志である。特に池守は公正で知られており、伯父の藤原四兄弟もその牙城を崩せないでいると聞いていた。律令制下にあって内外に問題を抱える大和の舵取りを任された、父帝が最も頼りにしている者たちなのである。

「内親王、しばらくこの里でくつろがれませ。ここは母御である安宿媛が生まれ育った屋敷。見て回るとよいでしょう。特に北の対屋の庭は妹が愛した場所です」

「いいえ、わたくしは内裏に戻ります」

「内親王、慌てなさるな。内裏の内親王の建物よりここの方が知らせは早く入りますぞ。それに陛下は詰問使が戻るまでは誰とも会いません。おお、百能ももよし、内親王に挨拶なさい」

 麻呂の娘の百能は内親王にはすでに馴染みが深い。百能が可愛らしく挨拶をすると、同母妹のいない内親王には実の妹のようで愛しい。

「百能、北の館を案内なさい」

「はい、お父さま」

 百能は立ち上がると、手を差し出した。内親王は左大臣の詰問使の人選を聞いて安心してしまった感は否めない。詰問使が内裏に戻るまでは時間を少し潰しても問題はなかろうと思ったのである。二人の親王と大納言ならば、父帝が左大臣の呪詛を本気では信じていない証拠であると内親王は思った。なぜならば、この三人ならば最低でも公平に判断を下すはずであるからだ。もしも父帝が呪詛を本気にしていたならば、伯父の武智麻呂や房前を加えていたはずである。政敵の藤原四兄弟でなく、左大臣寄りの三人を遣わせたとなれば、やがて左大臣の弁明が伝えられ、直に釈明できよう。

 内親王は左大臣が呪詛を行っていたなどとは一瞬たりとも思わなかった。なぜならば、左大臣が本気で皇位を狙っているならば、もっと手っ取り早い手があるからである。それは阿部内親王と契りを結んでしまうことで、そうなれば病弱の父帝は譲位し、亡き東宮が成人するまで帝位を受け取ったであろうし、内親王に皇子でもできればゆくゆくは皇位継承者の最有力候補の一人となっていたことは論を俟たない。そしてそのことは、父帝も暗黙のうちに認めていたはずであった。


 阿部あへ内親王が藤原邸にいることを聞きつけ、伯父の房前ふささきもやってきた。

 百能ももよしと共に母の愛した庭などを一通り見終わると、安宿媛あすかべひめゆかりの部屋や調度を乳母や女官などに見せてもらい、そろそろ内裏へ戻り父帝や母に会いに行くと主張しているところである。

甕原みかのはらにいらっしゃるはずではありませんでしたか」

「これは房前伯父さま。お忙しそうなところを。どういたしました」

「わたくしのことなどどうでもいいのです。それより内親王は甕原に行かれてそこに滞在なさるはずではありませんでしたか」

「こんな重大な事が起こっては、あのような場所では居ても立ってもいられません」

「重大な事ゆえに甕原に居られれば安全でありましたのに」

「わたくしの安全などどうでもいいわ。それよりも事はわたくしの亡き弟宮に関することと聞きました」

「はい」

「詰問の使者は内裏に戻ったの」

「そのようです」

「ではわたくしも参ります」

「何ゆえにですか」

「主上と話をするためです」

「どのような」

「左大臣が呪詛などなさるはずがない、ということをです」

「なりません」

「あなたでは埒が明かないわ。武智麻呂むちまろはどこです。武智麻呂伯父さまと話をさせなさい」

 次兄の房前はすでに武智麻呂をも凌ぐ政治的力量と声望を持っていたが、それでも武智麻呂が総領、つまり氏上うじのかみであった。房前も長兄の鶴の一声には黙るしかないであろうし、そもそも武智麻呂は内親王に甘いところがあった。

「兄上は今上帝にご報告なさっている頃でしょう。少しお待ちください。あるいは今日は戻らぬかもしれません」

「武智麻呂が主上に。なぜ」

 内親王は自分が何か勘違いをしていたか、または大きな間違いを犯していたらしいことを悟った。

「詰問使は舎人親王、新田部親王、大納言、それにまさか伯父さまも加わっているの」

 一瞬だけ房前は顔色を変えた。どうやら麻呂は敢えて詰問使に武智麻呂が入っていることを言わなかったらしい。そして房前は武智麻呂がそこに入っていることを内親王が知らず、そのために今までのような安心した表情で会ったことに気付いたのであろう。

「麻呂が言いませんでしたか」

「伯父さまはわたくしを、たばかりました」

「それだからどうだと言うのです」

「ますます主上おかみに会わなければ」

「内裏の門はすでに閉じられました。今日は誰も内裏に入れません」

「嘘をいわないでちょうだい。わたくしは内親王です。さあ、送りなさい」

「なりません」

「まかり通りるわ」

「内親王、我がままを言われるな。今日は吾とて内裏には入れません。明日吾も参上いたしますゆえ、その時に内親王もお連れいたします」

「明日では遅いのです」

「結論が今日出ることはありません。頭を冷やされよ」

「ならば独りで参ります」

 すると、麻呂がやってきて房前に加勢する。

「内親王、外は下賎な兵どもであふれておりますぞ。そんな中を高貴な御身が御独りで参って不埒な振る舞をされたらいかがいたしますか。明日送ると言っております。今日はこの北の対屋たいのやでお休みなされ。甕原よりとんぼ返りをして内親王だけでなく供の者達もお疲れでしょう」

 いつの間にか、武智麻呂の子である豊成とよなり仲麻呂なかまろ、それに房前の子である鳥養とりかいも来ている。それに甕原から内親王一行を護衛してきた宇合の息子の広嗣ひろつぐと、葛城王の息子の平城王もいた。恐らくこの五人に内親王を見張らせようというのであろう。


 翌朝、房前と麻呂はすでに邸にいなかった。前夜のうちに内裏に向かったらしい。もちろん内裏が閉鎖されたなどというのは房前の方便だったのである。

 そして理由を付けて内親王を内裏へ行くのは引きとめられた。豊成は四兄弟達との連絡役になっているためか途中で抜けたが、三人の従兄弟達が身体を張って内親王が抜け出そうとするのを阻止するのである。特に広嗣は内親王が甕原から戻ってくるのを強引にでも押し止めなかったことを四兄弟の誰かからこっぴどく叱られたのであろう。一切の容赦もなく内親王の行く手を遮った。

「父上か叔父上のどなたがお戻りになるまでお待ちください」

 仲麻呂がそう言うが、無論のこと内親王は納得しない。

「ならば伯父さまを呼んできなさい。わたくしはここで待ちましょう」

 内親王がそう言って座り込んだので、三人のうち仲麻呂が内裏へ向かった。

 鳥養は最初からそれほどやる気をみせている訳ではないが、広嗣はもはや一歩も内親王を部屋から出すまいと必死の覚悟なのがありありと見えるので、少女の力では無理なのは明白である。ましてや内親王の女官達は別の場所にいるため、味方は誰も居ない。


 夜になって母方の伯父である狭井さい王がやってきて無言で内裏へ連れ帰ってくれた時には、全てが終わっていた。

 左大臣長屋親王は自殺を命じられ、首をくくった。そしてなんと妻の一人で内親王の大叔母である吉備内親王も後を追ったという。さらに吉備内親王との間の王子達が四人いたが、全て共に自殺したと知らされた。

 父帝は長屋親王から親王の尊称を剥奪したが、臣下にまでは貶めずに王の位は残し、皇族として葬ることを命じた。そして吉備内親王と自殺した子供達も手厚く葬られ、その他の一族には累が及ばないように命じた。前左大臣長屋王だけが政界から忽然と消え、そしてそれに関わった者達はその空白を埋めるかのように出世し、全ては終った。

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