09

 電話の主は女性だった。彼女が何者か聞いた僕は、「気のせい」のことや、姉が住んでいた街に行くかどうかをひとまず脇に置いてしまって、早々に彼女と実家の近くの喫茶店で会う約束を取り付けた。その店にはモーニングメニューがあって、朝の八時から営業しているのだ。

 約一時間半後、指定した店にやってきた女性は片山絵里と名乗った。僕よりもいくつか年上だろう。小柄で大人しそうなひとだったが、片山という名字は改めて僕の気持ちを掻き乱した。

 片山というのは、姉が結婚していたときの名字だ。

「突然すみません。どうしても対面でお話ししたいと思って、こっそり出てきたんです」

 絵里さんは現在、片山家――姉の義実家だった家で夫と同居しているのだという。つまり彼女は、姉の元夫の再婚相手なのだ。「こんなもので証明になるかはわかりませんが」と言いながら見せてきたスマートフォンには、ウェディングドレスを着た彼女と元義兄の写真が表示されていた。少し老けたかな、と思った。

「夫が離婚した経緯については、息子さんを亡くしてから前妻さんとぎくしゃくしてしまって、別れることになったとだけ聞いていました」

 絵里さんは少し俯いたまま、話し始めた。「辛かっただろうし、あまり言いたくないことも多いだろうと思って、私からはあえて突っ込んだ事情は聞きませんでした。夫も義父も義母も、とても優しくしてくれていたし……」

 ああ確かにあの人たち外面は悪くなかったな、などと思いながら、僕は「何かあったんですか?」と先を促してみた。絵里さんはうなずいた。

「籍を入れて、いざ同居ってことになってあっちの家に引っ越してみたら――ご近所の方が色々噂してるんですよね。中には直接言いに来る人もいて……『あなた、片山さんがどうしてお孫さんを亡くしたか知らないの?』なんて言われて、ぎょっとしました。そしたら最近、前妻さんがあんなふうに亡くなって、うちの中がおかしくなって……」

 そう言ってからはっとした表情になり、お悔やみが遅くなったことを詫びてから「この度はご愁傷様です」と頭を下げた。

 絵里さんの気持ちはわかる。そんな噂を聞かされたら、詳しい事情を知りたくなるのは当然のことだ。ところが夫や義両親から話を聞こうとすると、いつもなんやかんやとごまかされてしまう。それで家のあちこちを探して、ようやく僕の連絡先を見つけたのだそうだ。

 そういえば姉が離婚した当時、本人も両親もすっかり参ってしまって、僕が片山家との連絡の窓口になったことがあった。近頃は連絡など取り合う用事もないから、すっかり忘れていたのだ。

 僕は絵里さんに、知っている限りのことを話してしまうことにした。彼女は血の気の少ない顔でうなずいていた。たぶん、記憶にあるご近所さんの話と照合しているのだろう。よく観察してみると、絵里さんは幾分かサイズに余裕のありそうなチュニックを着て、踵の低いスニーカーを履いている。もしかすると彼女は妊娠しているんじゃないだろうか、と思った。それだけにあの事故のことが胸に刺さるのかもしれない。つまらない道路交通法違反のせいで子どもが一人亡くなったことを、彼女はどう受け止めるのだろう。

 僕が一通り話し終えると、絵里さんは気持ちを落ち着かせるためか、注文したオレンジジュースを一口飲んで、「ありがとうございました」とテーブルの向こうで頭を下げた。

「小野寺さんの仰ってたこと、大体噂話の通りです。よくわかりました」

 そう言いながら、自分のお腹をかばうように手を当てた。やっぱり、と思って、厭な気持ちになった。これから彼女はどうするのだろう。こんなデリケートな時期に聞かせるべき話ではなかったのかもしれない。でもなぁ……と黙ってうじうじしていると、「あの」と話しかけられた。

「は、はい。何でしょう」

「……いえ、すみません。何でもないです。小野寺さんも大変な時期なのに、朝から会ってくださってありがとうございました」

 絵里さんは「失礼します」と言って立ち上がると、テーブルの上の伝票を取り上げた。僕が財布を取り出そうとするのを止め、「お礼にもなりませんけど、コーヒー代くらいは払わせてください」と言って口元だけで笑った。

 喫茶店を出て行く絵里さんの背中を、僕は席についたまま黙って見送った。

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