09

 小野寺さんには金曜日の夜を空けてもらった。もしかしたらまだ家賃手当の件で疑われてたりするのかな、と思ったけどそれはどうでもいい。とにかくネット越しでいいから、私の家を確認してもらいたかった。

 翌日はリモートワークだったが、不審な音は聞こえなかったし、画面の向こうの相手に何かしら指摘されることもなかった。「気のせい」も気を遣うのだろうかとちょっとおかしくなった。でもそんなはずはないし、そもそも気のせいは気のせいなのだと考え直した。自分が少しずつおかしな方向へスライドしていっているような気がした。そのうちガタンと足を踏み外しておかしなことになるんじゃないかと思うと、暗い穴を覗き込んでいるような気分になった。

 いつもの時間にまりあちゃんが帰宅する音を聞いた。その後業務を終えて一息ついたとき、尚輝の部屋の中で誰かが走り回るようなバタバタという音がした。(きっと耳がおかしくなってるんだ)と、私は自分に言い聞かせた。


 金曜日の夜、私はノートパソコンを思い切って尚輝の部屋の机に移動させた。

 キッチンと迷ったが、ここで起こるかもしれない現象を確認してもらうつもりなら、思い切った方がいいと思った。尚輝の部屋で長時間過ごすのは初めてのことで、自分の家の中だというのに妙な緊張感があった。手元に多めのアルコールとおつまみを用意して、時間が来るのを待った。

 夜八時、約束した通りの時間に小野寺さんから送られてきたURLをクリックして、リモート飲み会が始まった。小野寺さんはTシャツに黒縁の眼鏡をかけたラフな格好で、きちんとした仕事ぶりの彼女らしく背景の部屋は片付いていた。

 画面越しの小野寺さんは、ハイボールらしい液体が入った大きめのグラスを掲げて『かんぱーい!』と楽しそうな声をあげた。私もグラスを上げて応えた。

「なんか新鮮ですね」

『ねー。楽だし結構いいよね』

 身構えるようなことは特になかった。小野寺さんは話上手で、営業先であった笑える程度のトラブルなんかをお酒を飲みながら聞いていると、思っていた以上に愉快な気持ちになってきた。

 その間、「気のせい」は何もなかった。不審な物音はせず、何かが勝手に動くようなこともなかった。海の匂いもしなかった。

 こうやって気が紛れている間は何も起こらないのかもしれない。ならやっぱり本物の気のせいだったんじゃないか。

 ほっとしつつも、私は胸に空いた穴に風が通るような寂しさを覚えた。六年間呼びかけて、食事も用意して、それでも現れないのなら、私の弟は本当にもう、どこにもいないのかもしれない。

『……その人が犬を飼ってたんだけど、死んじゃってね』

 お酒が回ってきた小野寺さんは、普段よりももっとおしゃべりになっていた。色んな話題を経由して、どうやってその話題にたどりついたのか、私は思い出すことができない。

『もう十何年も飼ってた子だからすごく寂しくて、しばらくワンちゃんのものを捨てられなくってね。お骨も家に置いたままで、生前と同じふうにご飯あげたりして、ナントカちゃーんって呼んだりしてたんだって。そしたら何て言うんだろう、だんだん「いる」ような感じになってきたんだって。気配とかだけじゃなくて、足音とか。犬ってカツッカツッっていう感じで、固い床の上を歩くと足音がするじゃない? それがなんとも聞き覚えのある雰囲気でさ』

 いつの間にか私は、小野寺さんのその話に聞き入っていた。まるで自分のことを、フェイク込みで話されているようだと思った。ああ、そういうことをするのは私だけじゃないんだ、と心のどこかでほっとしながら、違うどこかでは(その人はどうなったんだろう)と結論を急いでじりじりしていた。それでいて、続きを聞くのが怖ろしい気もした。その人は今でもワンちゃんの足音を聞きながら幸せに暮らしています、で「めでたしめでたし」になるような気がしなかった。

『しばらくそんな感じで暮らしてたんだけど、その人の知り合いに霊感がある人がいてね、その知り合いさんが家に来たときに言うんだって。「なんか犬みたいなものがいるね」って。犬の飼い主さんは嬉しくなっちゃって、死んじゃったけどまだ一緒に暮らしてるんだよ~って話をしたのね。そしたら知り合いさんがいやぁな顔して、「その子じゃないよ。って言ったでしょ。犬の真似してるけど犬じゃないの」って言うんだって。何て言ってたっけな……なにか幽霊みたいなものがたまたまやってきてね、勝手にワンちゃんに成りすましていたんだって。そういうものは居場所をほしがるんだって、その知り合いさんは言ってたらしいよ。死んだものを呼び続けていると、かえってそういうものを招き入れてしまうんだとかなんとか……飼い主さんもそう指摘された途端に目からうろこが落ちたっていうか、「こういうのはよくないんだな」って突然スーッと納得がいってね。それでワンちゃんのものを片付けて、お骨もちゃんと納骨して……』

(犬みたいなもの)

 小野寺さんの話を聞きながら、私は頭の中で繰り返した。

(犬ではないけど、犬のふりをした、犬じゃないもの。もしもうちにいるとしたら)

 尚輝のふりをした、尚輝じゃないもの。

『――それで今は静かなもんだって言ってたけど、なんかわかるような気がするよね。私もさ』

 小野寺さんがそう言ったとき、突然画面が暗くなった。

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