再上映 (Bremen)

 朝、起きるとまた寝たいと思う。粘土のような重たい眠気が瞼にへばりつく気持ち。六時だ。もうこの時間に、身体が起きるようになっているから。

 数秒、目を閉じてみる——

 次に起きたときには、時計の短針は「11」を指していた。


 一日が終わった。


 そう、既に一日が終わった気持ち。まだ十一時だから、正確にはまだ終わっていないのに。一日が終わるのは二十四時だから、本当はまだ半分も終わっていないのに。


 しかし気分の上では、もう一日が終わってしまった。表記で言えば「オワッタ」という感じだ。遅く起きた分を取り戻そうと焦燥に駆られながら結局は何もせずに昼が過ぎ、またその分を取り戻そうと思いつつあっという間に夕方になり、やがて夜になる。


 オワッタ。

 しかし男はとりあえず、水が飲みたかった。


 何日かまえの洗い物が、シンクに溜まっていた。思い立って久しぶりに自炊をしたのだった。

 その中からコップを拾い、心が許す程度に軽く水で洗う。

 流した水をそのままに、とくとくとコップに水を溜めていき、ゴクゴクとそれを飲んだ。

 

——このまま洗い物をしてしまおうか。

 

 男はそう思ったが、その思考は閃光のままに通り過ぎていった。どうせならこのままダラダラしていたい。

 またベッドに戻る。部屋が散らかっている。男には、しなければならないことがある。洗い物や片付けももちろんそうなのだが、そういう種類ではない。レンタルDVDを返しに行くのだ。今日を過ぎると、延滞料金が発生してしまう。洗い物や片付けをしなければ罰金ということはないが、これには罰金がある。だからこれはより高次でのしなければならないことなのだが。


——でも明日から仕事だし。


 男はそう思うと、またベッドに沈んでいった。今日という日は、全てがどうでもよかった。身体だけでなく、心が沈んでいく。


 明日からまた仕事、その前日である今日は、これから一週間分の疲労や苦難を浴びるために、できるだけ何もしたくない、出来るだけ空っぽにしておきたい、そういう日。


 男は独身、忙しい毎日だ。半端に人より仕事ができるので、どんどん日々が忙しくなっていく。

 最初はそれが男の本望だった。

 誰よりも働いて、誰よりも活躍する。

 しかしそれも数年が経つと、忙しい毎日が変わらないだけで気持ちとしてはつまらなくなり、男の初心は過去のものとして、どこかに置いていかれた。ただただ忙しい毎日だけが残った。


 このまま眠ってしまおう。


 男は目を閉じる。

 もし永遠に目が覚めなかったら——。そんなことを考えてみると、男は、まあ、それでもいいか。と、生を簡単に手放そうとする己に何か思いつつ、その何かを掘り下げる前に、眠りに落ちていった。


 次に目を覚ますと、時計の短針は「6」を示していた。

 カーテンを開けてみると外は暗がり、アパートの三階から見える街ゆく車は、ヘッドライトを付けて走っている。


 もうこんな時間。

 

 男はそう思った。今日という日に何かをやろう。そういう気持ちは捨てたはずだったが。しかし、実際にこの時間になってみて、そして、もう眠気なんてどう絞っても粕ほども出てこないことを自覚すると、ただただ、


 もうこんな時間。


 という後悔だけが心の底から募ってくる。

 

 散らかった部屋。

 シンクに溜まった洗い物。


 それらを見てみるとまたげんなりする気持ちがせりあがってくるのだが、もう眠気はない。かといって、それらを片付ける気にはならない。

 荒野の真っただ中で、空腹も喉の渇きもなく、ただただポツリと立っている気持ち。何もすることがない、けど眠ることもできない。ただただ時間だけが過ぎていく、そしてそれを感じているだけ。

 

 何をしよう。何かしたい。


 今日初めて、男は己の中にはっきりとした動力を得た。

 男はそのとき、レンタルDVDが目に映った。

 ああ、これか。

 男は思い立ち、それを返しに行くことにした。


 帰って来た男は、さっきとは違うレンタルDVDを手にしていた。

「再上映」

 偶然だった。男が借りていたレンタルDVDを返し、また何か借りようかと思い、手にとっては裏にある作品情報を確認し、棚に戻すのを繰り返していると、

「お、これは」

 手に取ったそれは、偶然、子供の時に見たミュージカル映画だった。そのとき初めて、その映画のタイトルが「再上映」だということを知った。

 男はなぜだか無性に、それが見たくなった。

 

 洗い物が溜まったシンクを通り過ぎ、散らかった部屋を歩いて、男はDVDデッキの前に座る。

 テレビの電源ボタンを押すと。

 ああ、そう。こんな感じだ。

 懐かしい映画が始まった。


————————————————————————


 見終わると、男はベッドに座ったままだった。エンドロールが終わっても、男はずっと、ベッドに座ったままだった。

 男はしきりに、作中の彼の言葉が頭に響いていた。

 むかし自分が憧れた、彼の言葉が。


「そんな歌でも僕は歌うさ 何度でも繰り返し その答えを

 たとえ世界が変わらなくとも いつまでも叫ぶよ その答えを」


 そんな歌でも僕は歌うさ。


 彼は作中で、そう歌う。

 売れないシンガーの話だ。しかし彼は、己の信念をもって、己の叫びを人々に訴える。彼は、鬱陶しい衒いも、惨めな響きも無く、ただただ素直に、己の中に生まれた言葉を歌にして人々に訴えかける。

 だから次第に、人々の魂を震わせ始める。


「こんな僕でも風に押されて 何度となく未来へ 運ばれてきた

 きっといつしか僕に続いて 歌う人へ言葉を 引き継ぐため」


 しかし彼は有名になっても、変わらず彼のままだ。彼はただただ、己の中に生まれた言葉を歌にして、人々へその叫びを訴えているだけ。


こんな僕でも風に押されて 何度となく未来へ 運ばれてきた


 男は思った。

 こんな俺でも。そうだ、なぜだかよく分からないけど、何かに押されて、ここまで生きてきた。


 男は今日という一日を振り返る。


 散らかった部屋。洗い物の溜まったシンク。

 無駄にした一日。


 しかし——


 そうだ。俺は、生きているんだ。


 男は不思議と、腹の底から大きな生命力を得た気がした。


 忙しくても。つまらなくても。何もしたくなくても。

 俺は生きているんだ。

 手垢にまみれていようと。俺は、生きているんだ。


 男はもう少しの間、散らかった部屋の中で「俺は生きているんだぞ」と誰かに力強く訴えるように、ベッドに座ったまま思っていた。

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米津玄師 イチ @Ta_1

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